第59話:合法圧殺のアルゴリズム
あの最悪の再会と脅迫から、約束の『三日目』が訪れた。
都心部にある最高級ホテル、グランド・アーク。
その最上階に位置するインペリアル・スイートルームは、窓の外に広がる近未来的で美しい夜景を一望できる、選ばれた者しか立ち入れない聖域だった。柔らかい絨毯、磨き上げられたクリスタルのシャンデリア。そんな贅を尽くしたスイートルームのソファの真ん中に、美鈴は腰掛けていた。その格好はいつものブカブカの白衣や、頼りないパジャマ姿ではない。
彼女が身に纏っていたのは、この日のために春崎が用意した、特注オーダーメイドスーツだ。格式高い漆黒のスーツが、彼女の白皙の肌をいっそう際立たせ、冷徹な美しさを放っている。
身体のラインを美しく引き締める洗練されたシルエット。胸元には、彼女が顧問を務める財団のエンブレムが、鈍い銀色の輝きを宿していた。
髪をハーフアップに結い上げ、隙のない美しさと、圧倒的な強者のオーラを放つ美鈴。その姿は、誰もが一瞥しただけで平伏せざるを得ない、数百億円を動かす若き天才博士・天ノ川美鈴そのものだった。
僕は、別室でモニター越しに彼女のその姿を見つめていた。両親との交渉の場には僕も同席すると言ったのだが、美鈴がどうしても許してくれなかったのだ。
このホテルに向かう前、彼女に言われた言葉を思い返す。
『これは、私の復讐でもあるの。……親が子供を金儲けの道具にするなんて絶対にあってはならない。同じような出来事が自分の身に起きた時、幼かった私には何の力もなかった。でも、今は違う。私に、君を守らせて欲しい。私自身の過去を乗り越えるためにも』
悲壮な決意を秘めた彼女にそう言われては黙って従うしかない。悪意に満ちた大人たちとたった一人で対峙させるのは不安だったが、今はただ彼女を信じるしかなかった。
僕の隣に立つ春崎がそんな不安を察したのか声をかけてくれる。
「高丘くん、大丈夫ですよ。何かあればSPと警察がすぐに動く手筈になっています」
背後には屈強なSPたちと数人の警察官が控えていた。本物の警察まで動かすのだから美鈴の影響力も大したものだ。
春崎は僕を励ますように小さく微笑む。
「……もし辛ければ無理にこの場にいる必要はありませんよ。こちらで全て処理しますから」
「いえ。せめて最後まで見届けさせてください」
拳を強く握り締め、モニターに映る美鈴を注視する。
モニターの向こう側。静寂を破って部屋に入ってきたのは二人の男女――僕の実の父と母だった。
彼らは場違いにヨレヨレの、薄汚れた身なりのままだが、この最高級の空間に気後れする様子など微塵もなかった。それどころか、品性の欠片もない下品な目つきで部屋中を見回し、大理石のテーブルをベタベタと触り散らしている。
「よお、お嬢様。三千万円、払う気になったんだな」
父親がニヤニヤと卑屈な笑みを浮かべ、美鈴に喋りかける。
「お嬢様、あんたがやってることは『略取誘拐』、それに『児童酷使』だ。最愛の息子を奪われたことで俺らは多大な精神的苦痛を被った。さっさと慰謝料を支払って息子を返してもらおうじゃないか」
スピーカー越しにその声が聞こえた瞬間、僕の身体がピクッと強張る。耳の奥で、あの冷え切った夜の記憶が再び呼び覚まされそうになり、呼吸がわずかに浅くなった。
だが、美鈴は漆黒のオーダーメイドスーツの背を伸ばしたまま、ティーカップを優雅に傾け、小さく唇を湿らせていた。
その表情には、怒りも、焦りも、恐怖も、何一つとして存在しない。
ただ、窓の外の夜景を眺めるのと同じような、極限の冷淡さ。両親の下卑た声も、脅迫も、彼女にとっては、ただの不快な雑音と同義だった。
「……ふぅ」
静かに、美鈴がカップをソーサーへと戻した。繊細な磁器の音が、リビングに冷たく響き渡る。
美鈴はゆっくりと視線を動かし、対面に座る二人を、真っ直ぐに見据えた。その瞳の奥、銀色の双眸には、敵の存在を完全に消し去るための、絶対的な捕食者の光が宿っている。
「――君たちの論理はそれだけ?」
美鈴は手元のタブレット端末の画面を指でなぞり、冷徹で美しい笑みをその唇に浮かべた。
「下俗な変数による、予測通りの非論理的なバグね。……では、実証実験を開始しましょう」
その声を聞いた瞬間、不思議と身体の震えがピタリと止まった。脳内を支配していた過去の恐怖が、美鈴の圧倒的な自信によって霧散していく。僕は深く息を吸い込み、モニターに映る両親を直視した。
美鈴はゆっくりと立ち上がり、底知れぬ冷たい瞳で両親を見下ろしている。
――そこからは、あっという間だった。
二人を破滅させるためのデータが美鈴の手によって次々と提示されていく。
父の勤務先における、業務上横領の証拠。母の個人口座での、複数の闇金融からの違法な入金履歴。二人の闇カジノでの遊興を裏付ける証拠。数年に渡って繰り返された脱税の証拠。そして、僕が受けた『育児放棄』の動かぬ証拠。
目の前に突き付けられた数々のデータを前にし、父は叫んだ。
「こんなもん何だってんだ、小娘がよ! サツにチクられる前に揉み消せば済む話だろうが!」
美鈴は男に対して侮蔑の視線を向ける。
「何か勘違いしているようね。今、提示したデータは警察および関係機関に全てリーク済みよ。逮捕状、資産の差し押さえ、親権の剥奪、懲戒解雇。既に事は進んでいるわ」
美鈴は彼らの怒鳴り声を意に介さず、大理石のテーブルの上に置いたタブレット端末の画面を、白い人差し指でトン、と軽快にタップした。電子音が室内に小さく響く。
「そして、これで終わり」
美鈴は彼らにタブレット端末の画面を見せつける。
「君たちが闇金融でこしらえた借金の山――それらの『貸付債権』一式、利息も合わせて一億二千四百万円。私の個人資産で全て買い取ったわ」
「……あ?」
父親が口を半開きにして、間抜けな声を漏らした。母親もきょとんとして、隣の父親と顔を見合わせている。
「理解力が足りていないようね。私は、今この瞬間を境に――君たちの抱える借金の、唯一の『債権者』にすり替わったのよ。君たちの生殺与奪のシステムは、全て私の手の中に移行したわ」
美鈴は、タブレット端末の画面に視線を落としたまま、感情の消えた声で、冷酷極まりない一撃を言い放った。
「こちら側の正当な権利として、君たち二人に一億二千四百万円の即時一括返済を要求するわ」
父親の膝がガタガタと震え、そのまま高級な絨毯の上へと無様に崩れ落ちる。母親は言葉を失い、ただ金魚のように口をパクパクと開閉させていた。
「喧嘩を売る相手を間違ったわね」
美鈴は絶望の底に突き落とされた二人を冷酷に見下ろし、ふっと鼻で笑った。
「ねえ、一瞬だったでしょう? 君たちの安価な社会的生命なんて、私の指先一つでいつでも強制終了できるのよ」
美しく、艶めかしさすら感じさせる声。圧倒的な力による、容赦なき鉄槌だ。
「興味本位で質問するのだけど、もし首尾よく私から現金三千万円をせしめたとしても君たちの借金一億二千四百万円の返済には到底足りないわよね。一体どうするつもりだったのかしら。何度かに分けて繰り返し金銭を要求するつもりだった? それとも玲於奈には三千万円程度の価値しかないとでも思ったのかしら」
美鈴は顔の前で手を組むと薄く笑った。
「……どちらにせよ情報の収集能力および先見性が著しく欠如していると言うほかないわ。まあ、高丘玲於奈というあれほどまでに稀少で、多機能で、かつ代替不可能な高付加価値リソースを手放すくらいだものね。君たちは、生物学的にも経済学的にも完全な『エラー』よ」
絨毯の上に無様にへたり込んだ父親の隣で、母親が自分の髪をむしりながら発狂したように意味の分からない言葉を叫ぶ。
全ての財産。社会的信用、そして強請たかりの道具にするはずだった僕の親権。あらゆるものが、美鈴という圧倒的な天才の手によって一瞬にして断ち切られたのだ。自らの破滅を悟った親たちは、もはや取り繕う余裕もなくガタガタと震えるばかりだった。
その時だ。突如として、父が血走った目を美鈴に向け、獣のような咆哮を上げた。交渉も脅迫も通じないと悟った相手が、最後に選択した手段――それは、あまりにも原始的で醜悪な『暴力』だった。
男は完全に理性を失い、獣じみた形相で立ち上がると、美鈴を目がけて猛然と掴みかかろうと突進した。思考が追いついていないのか美鈴は無表情のままだ。彼女の宝石のように綺麗な瞳がゆっくりと見開かれていく。
男は、美鈴を人質にでもしようと思ったのか。それとも、自分が破滅した腹いせに彼女に暴力を振るおうとしたのか。どちらだろうが関係なかった。僕にとって大切なのは最愛の人が目の前で傷つけられようとしているという事実だけだった。
SPや警官たちが立ち上がるよりも早く――僕は気がつくと控室を飛び出していた。
「美鈴さん――!」
無我夢中だった。走った。ただひたすらに走った。
半ば飛びかかるようにして美鈴の前に割り込む。男の拳が僕の頭にぶつかったが、そんなことは何も気にならなかった。美鈴を背後に庇い、その男の――父親の胸ぐらを掴んだ。
「この人は、僕にとって世界で一番大切な人なんだ! そんな人を傷つけようとしたあんたたちのことなんか、もう親とは思わない! 二度と僕の前に姿を現すなッ!!」
初めてだった。初めて父を怒鳴りつけた。だが、もう怖くもなんともなかった。
ゆっくりと手を離すと、父は間の抜けた顔でその場にへたり込んだ。
遅れてスイートルームの左右にある控室の扉から、黒いスーツに身を包んだ屈強な男たちが突入してきた。春崎が待機させていたプロのSPたちだ。
既に抵抗する気力を失っていた父親の手首が掴まれ、容赦のない力で大理石の床へと押し付けられる。父親は派手な悲鳴を上げた。同時に、ソファの上で狂ったように喚いていた母親も、二人のSPによって一瞬で両腕を押さえ込まれ、床へと組み伏せられる。
「な、何よこれ! 離しなさいよ! 警察を呼ぶわよ!?」
「警察なら、既に呼んであります。正確には、最初からここに控えていただいていましたが」
春崎が冷徹に告げる。入ってきたのは、腕章を巻いた数人の刑事と、制服を着た本物の警察官たちだった。彼らは手慣れた動作で床の二人を取り囲む。
「高丘一馬、および高丘香織。暴行の現行犯、天ノ川美鈴氏に対する恐喝ならびに国税局からの告発に基づく脱税、および児童虐待防止法違反の容疑で同行を求める。……連れて行け」
刑事の冷酷な声に、両親の顔から完全に思考が消え失せた。
警察官たちに両脇を抱えられ、引きずられていく中で、彼らは口汚い罵声を僕に向かって浴びせ続けた。実の親から向けられる、剥き出しの憎悪と呪いの言葉。
一瞬、僕の身体が内側から冷えていくような感覚に襲われた。だが、その呪いが僕に届くより早く。スッ、と。目の前の景色が、漆黒の布地によって遮られた。
美鈴が、迷いのない足取りで僕の一歩前に出たのだ。彼女は自分の小さな身体を盾にするようにして、怯えかけた僕を、その背中に完全に隠した。
「玲於奈。さっきは守ってくれてありがとう。格好良かった」
彼女はそう囁いて僕の手に触れた。指と指が優しく絡み合う。
いつもなら徹夜明けでふらふらしていて、僕が後ろから支えてあげなければいけないほど華奢な背中。それなのに、今、僕の前に立ちふさがる彼女の背中は、どんな世界の暴力からも僕を守り切る、絶対的な要塞のように大きく、頼もしかった。
美鈴は、ジタバタと暴れながらドアの向こうへと引きずられていく親二人を、真っ直ぐに見下ろした。その銀色の瞳に宿る光は、極限まで冷え切り、もはや人間を相手にしている時のそれではない。完全に、有害物質を廃棄処分する時の目だった。
美鈴は去りゆく親たちの背中に向かって、凛とした、けれど底知れない怒りを孕んだ声を響かせた。
「――玲於奈は、私の家族だ。お前たちが、私の許可なく喋りかけるな」
絶対的な強者による、冷徹極まりない一言。
その瞬間、奴らの喚き声がピタリと止まった。天ノ川美鈴という天才が放つ圧倒的な威圧感の前に、奴らは魂の底から恐怖し、言葉を失ったのだ。そのままドアが閉まり、最悪な存在の気配は、僕たちの世界から物理的にも社会的にも、完全に消え去った。
――重厚なドアが閉まる音が響く。嵐が去ったスイートルームには、静寂だけが残されていた。シャンデリアの眩い光が、何事もなかったかのように大理石の床を照らしている。
「ふぅ……」
美鈴は小さく息を吐くと、漆黒のオーダーメイドスーツのネクタイの結び目を、細い指先で少しだけ緩めた。完璧な戦闘モードから、いつもの僕だけの美鈴へと、彼女のシステムがゆっくりと切り替わっていく。それにしても今一瞬ガチャガチャととてもスーツとは思えないような音がしていたが、気のせいだろうか。
美鈴は静かに身を翻すと、僕の方を振り返った。
「君にだけは言っておくべきだったわね。このオーダーメイドスーツには襲ってきた相手から身を守る防衛機能があるの。奴らを挑発して襲ってこさせ、控えていた警察に現行犯逮捕させるところまでが私の計算。……心配かけてごめんなさい」
その顔には、先ほどまでの冷酷な捕食者の表情はどこにもない。少しだけ申し訳なさそうに、でも、世界で一番優しい光を宿した瞳で、僕を真っ直ぐに見つめていた。
僕は、小さく笑うとその瞳を静かに見つめ返す。
「美鈴さん、二度とこんな自分を囮にするようなことしないでくださいね。心臓が止まるかと思いましたよ。……でも、それも全部僕のためだったんですよね。本当にありがとうございます」
美鈴は一歩近づき、僕のブレザーの袖を、いつものようにぎゅっと小さく掴んだ。
「ごめんなさい。自分でも反省したわ。もう絶対にしない。……私は、君にとって世界で一番大切な人、だものね」
「そうですよ。最愛の、家族です」
少しはにかみながら、僕は彼女を抱きしめた。窓の外に広がる夜景が、彼女の笑顔を優しく包み込んでいく。
「デバッグはこれで完了よ。さあ、我が家に帰りましょう」
彼女の手によって、僕を長年縛り付けていた過去の呪縛が完全に消滅した瞬間だった。




