第58話:天才少女の最高優先タスク
僕は美鈴の隣に並んだ。手と手が触れ合う。少し前までの、胸を掻きむしるような不安はもうどこにもない。彼女の手の温もりが、僕の心に確かな芯を通してくれていた。
「美鈴さん。ちなみにデバッグする、って……具体的に何をするつもりなんですか?」
そう問いかけた僕の手を引いて、美鈴はリビングのさらに奥、普段は『立ち入り禁止』と書かれた重厚な金属製の扉の前へと歩を進めた。生体認証のセンサーに美鈴が顔と指をかざすと、重々しい電子音が鳴り響く。
「物理的な安全の確保が第一よ。敵の攻撃ベクトル――すなわち、学校の帰り道での待ち伏せや、このマンション周辺での接触可能性を完全に遮断するわ。玲於奈、入りなさい。ここが君の新しいプロテクト・エリアよ」
促されて中に入ると、そこはまさしく電脳要塞だった。防音・防弾仕様の分厚い壁に囲まれた室内には、無数の青いLEDを明滅させるサーバーラックが並び、中央には巨大なマルチディスプレイを載せたデスクがある。ここが、十代にして数百億の資産を築いた天ノ川美鈴の頭脳の核心部――最重要機密データが保管されたセキュリティルームだった。
「し、知らなかった……このタワーマンションにこんな部屋があったんだ……」
驚いたのは、部屋の片隅に、最新のIHコンロを備えたコンパクトな簡易キッチンと、柔らかそうなダブルベッドが完備されていることだ。
「ここ、生活できるようになってるんですか……?」
「ええ。私が数週間の引きこもり徹夜研究を行うためにカスタマイズしたシェルターよ。ここにいる限り、特殊部隊が襲撃してきても三ヶ月は無傷で生存できるわ。当然、君の親ではドアの塗装すら傷つけることはできない」
美鈴はデスクの椅子に飛び乗ると、目にも留まらぬ速さでキーボードを叩き始めた。
メインモニターに映し出されていたのは、何やら複雑な物理数式と、国家機関のロゴが入ったプロジェクトの進捗バーだった。確か、美鈴が現在進行形で進めている、国立研究開発法人の仕事だ。エネルギー業界を一変させる国家級の次世代エネルギー開発だとか言っていた。その研究の開発画面だ。
美鈴は画面の端にあるタスクマネージャーを開くと、迷うことなく『一時停止』のボタンをクリックした。
「美鈴さん!? 今のってずっと研究してた国家プロジェクトの……」
「ええ。停止させたわ」
美鈴は真顔のまま、椅子の上でくるりと僕の方を振り返った。
「現在の私の脳内CPU、および我が家のリソースの配分を変更するわ。国家のエネルギー問題なんて後回しよ。今の私の最高優先タスクは、君を脅かすバグの排除と、君の精神状態の正常化よ」
「国家プロジェクトより僕の方が優先なわけないでしょ……!?」
「君の方が優先順位が高いに決まっているわ。君の作ったご飯がなければ私の脳は三日で機能停止する。国家の未来よりも、今夜の晩ご飯の品質維持の方が、私の生存戦略において遥かに重要よ」
淡々と、しかし一点の曇りもない目で美鈴は言い切る。理屈っぽくてどこかズレているけれど、要するに彼女は、世界中のどんな偉い大人たちとの大仕事よりも、僕という存在を最優先にしてくれているのだ。
「研究より君のデバッグがよほど大切よ。……だから、大人しく私に保護されなさい」
少し顔を赤らめながら、ふんぞり返る美鈴。セキュリティルームという、実質的な二人きりの密室。物理的に外界から完全に隔離された空間で、僕の胸の奥は、恐怖とは別の理由でドクドクと甘く跳ね上がっていた。
美鈴の圧倒的な、そして常軌を逸した過保護ぶりに、自分がどれだけ深く愛されているかを痛いほど実感してしまう。
「分かりました、美鈴さん……。僕にも手伝えることがあれば手伝いたいですけど、何かできることはありますか?」
「そうね。それじゃあ……」
少しの間があってから彼女は上目遣いで僕を見た。その頬は、朱に染まっている。
「……キス、して?」
「絶対に今じゃないですよね!?」
僕にツッコまれた彼女は不満げに頬を小さく膨らませた。
「だって、私たち恋人同士だというのに、あの日以来まだ一度もキスしてないのよ……? こんなの信じがたいエラーよ」
「だ、だからって……!」
その時、セキュリティルームのメインデスクに設置された緊急通信用のスピーカーが澄んだ音を鳴らした。美鈴が小さく舌打ちをし、スイッチを入れる。通信が繋がり、マルチディスプレイの中央に、一枚の鮮明なウィンドウがポップアップした。
そこに映し出されたのは秘書の春崎の姿だ。直前までの僕たちのやり取りを知らない彼女は眼鏡の奥の瞳を獰猛に光らせている。
『お待たせしました、先生。高丘くんのご両親に関する調査が完了しました。データをご確認くださ……先生? 何かありました?』
「タイミングが悪すぎる。あと少しでキスできたのに」
いや、全く以てキスする流れではなかったと思う。春崎も案の定ポカンとした顔をしている。
「はい? キス?」
「なんでもないわ。気にしないでちょうだい」
美鈴は小さく溜息をつくと先ほどまでの甘えきった表情を捨て去る。椅子の背もたれに深く体重を預け、淡々と告げた。
「仕事が早いわね、春崎。さすがは元FSB」
「えふえすびー……?」
「ロシア連邦保安庁。ロシアの諜報機関よ」
「えっ、春崎さんってそんなすごい人だったんですか!?」
『やめてください。そんなの昔の話です。……高丘くん。今、送ったデータは君はなるべく見ない方がいいです。実の両親の犯罪の証拠を見て気分の良い人間はおそらくあまりいないでしょうから』
画面に映る春崎を見つめながら、僕は小さく息を吐き出す。
「分かりました。春崎さんがそこまで言うってことは相当なんでしょうね……」
『後のことは先生と私に任せてください。どうか安心していてくださいね』
春崎の通信が切れると、セキュリティルームには再び静寂が戻ってきた。
しかし、その静寂は先ほどまでの重苦しいものではない。美鈴の天才的な脳が、凄まじい速度で回転を始めたことによる、一種の緊張感に満ちた静寂だった。
「春崎から送られてきたデータ、全ての変数を、今から私の頭脳で一本の数式に統合するわ」
美鈴はマルチディスプレイに向かい、凄まじい速度でタイピングを始めた。
キーボードを叩く乾いた音が、まるで小刻みな銃撃音のように部屋に鳴り響く。彼女の目は、画面に表示された両親のデータを冷徹にスキャンし、最適解を導き出すためのアルゴリズムを構築していく。
(……僕にできることは、これを見守ることじゃない)
美鈴が僕のために、国家プロジェクトを止めてまで頭脳をフル回転させてくれているのだ。
ならば、僕は僕のプライドに賭けて、彼女の頭脳労働を100%サポートしなければならない。それこそが、この契約同棲における僕の合理的生存戦略だ。
僕はセキュリティルームの隅にある簡易キッチンへと向かった。
(美鈴さんは一度集中すると、寝食を忘れて脳のエネルギーを使い果たす。今必要なのは、極限まで酷使される彼女の脳内CPUを癒やすための栄養素だ。脳の唯一のエネルギー源であるブドウ糖、そして疲労を速攻で回復させる成分……よし、メニューは決まった)
調理器具を確認。冷蔵庫を開け、限られた食材の中から最適な組み合わせを瞬時に算出する。
手際よく包丁を動かし、生姜、クコの実、鶏肉をじっくりと煮込んでいく。スープのベースには、疲労回復効果の高いビタミンB1が豊富な豚肉の出汁もブレンド。さらに、ブドウ糖をダイレクトに補給できるよう、隠し味に蜂蜜を使った厚焼き玉子サンドを用意する。厚焼き玉子の塩分と蜂蜜の甘み――この絶妙なコントラストが、疲れた脳にガツンと効くはずだ。
約一時間後。部屋の中に、食欲をそそる優しい香りが立ち込める。
「美鈴さん、一度手を止めてください。脳の疲労を回復させる、特製薬膳スープとサンドイッチです。栄養補給してくださいね」
「……ん」
美鈴は画面から目を離さないまま、生返事を返す。完全にトランス状態だ。
僕は彼女の邪魔をしないよう、キーボードのすぐ脇にトレイを置いた。すると美鈴は、視線はディスプレイに固定したまま、機械じみた動きでスプーンを掴み、スープを無意識に口へと運んだ。ごくり、と彼女の喉が鳴る。
「……あ」
スープが胃に落ちた瞬間、美鈴のタイピングの手がピタッと止まった。
彼女の大きな瞳が、ゆっくりとスープの器へと向けられる。そして、次に僕の顔をじっと見つめてきた。
「ど、どうしました。もしかしてまた味が濃かったですか?」
僕が焦って尋ねると、美鈴はふるふると首を振った。そして、いつもは感情の消えているその顔の頬を、苺のようにぽっと赤く染めながら、とろんとした目で呟いた。
「違うわ……。すごく、君の味がする」
「な、何を……僕の味ってなんですか……!」
「君の作った、完璧な温度と栄養配分の味よ。ブドウ糖とアミノ酸が、ダイレクトに私の脳内物質を最適化していくのが分かるわ。……ふふ、やっぱり君は、私の人生に不可欠なリソースね」
無自覚に、とんでもなく甘い言葉を口にする美鈴。
緊迫した情報戦を展開している要塞の真ん中だというのに、彼女のその無防備な甘えっぷりに、僕の心臓は激しくノックされた。甘い空気が急激にセキュリティルームを包み込んでいく。
「ほ、本当に何を言ってるんですか、美鈴さん。ほら、サンドイッチも食べてください。乾いてパサパサになっちゃったらたぶん補給効率も落ちますよ」
「ええ、そうね。じゃあ、あーん、してちょうだい」
「それくらいは自分で食べれますよね!?」
「腕を動かすカロリーがもったいないわ。君からの補給を要求する」
口を尖らせる美鈴に根負けし、僕は苦笑しながら玉子サンドを彼女の口へと運んだ。美鈴は嬉しそうにそれを頬張り、再びディスプレイへと向き直る。
僕の手作りの食事を終えた天才の思考は、ここからさらに音速を超えて加速した。再び始まったキーボードの乱打。美鈴の瞳からは先ほどの甘さが消え去り、恐るべき速度で膨大なデータが処理されていく。それらのデータが一本の巨大な罠として組み上がっていった。
――そして、午前四時。
静寂の中で、ひときわ強く、美鈴がエンターキーを叩き込んだ。
「――完了したわ」
美鈴のタイピングが、完全に止まる。
マルチディスプレイの画面には、僕の両親の顔写真を中心に、蜘蛛の巣のように張り巡らされた複雑なフローチャートが浮かび上がっていた。それは、あの両親を『社会的』『経済的』『法的』に、逃げ場のない奈落へと一撃で圧殺するための、冷徹極まりない完全デバッグ・シミュレーションだった。
「彼らにメッセージを送って呼び出すわ。――全てを終わらせましょう」
椅子の背もたれに寄りかかりながら、美鈴は冷たい視線を画面に送っていた。




