第57話:僕と彼女の生涯最大の演算
静まり返ったリビング。深夜の冷たい空気が、僕たちの間に重く立ち込めていた。
朝になったらこのマンションを出ていくと、そう告げた瞬間から美鈴の身体はまるで時間が凍りついたかのようにピタリと硬直していた。まばたきすらも忘れ、その宝石のような瞳は大きく見開かれたまま、ローテーブルの契約書と僕の顔を交互に行き来している。
「……っ」
いつもなら、どんな難解な数式も、どんな突発的なエラーも、一瞬で最適解を導き出す世界最高峰の頭脳。それが今は、完全に機能を停止していた。
「み、美鈴さん……?」
あまりの静けさに、恐る恐る声をかける。その声に反応するように、美鈴の肩が小さくビクッと震えた。血の気の引いた青白い唇が、言葉を探すようにかすかに戦く。
「何を……言っているの?」
ぽつりと漏れた声は、かすれていて、今にも消えてしまいそうだった。美鈴は自分の胸元を痛々しいほど強く、指先が白くなるまで掴み、それから縋るように僕の方へ一歩踏み出した。
「何を言っているのよ、玲於奈……。意味が分からないわ。君がここを出ていく合理的な理由が、一ミクロンも存在しない!」
リビングに美鈴の悲痛な叫びが響き渡った。いつも冷静沈着で、感情を理屈の檻に閉じ込めていた彼女が、なりふり構わずに声を荒らげた。
「あの有象無象どもの脅迫なんて、ただのノイズよ。 私の社会的キャリア? 天才科学者の名誉? そんなもの、君という最重要資産の価値に比べたら、ただの端数に過ぎないわ。なのに……なのに、どうして君が排除されなければならないのよ!」
「美鈴さん、落ち着いて――」
「落ち着いていられるわけがないでしょう!」
美鈴の瞳に、みるみるうちに大粒の涙が溜まっていく。彼女が誇る圧倒的な論理は、契約関係の終了という事態を前に、音を立てて融解していた。
「契約解除は不許可よ。雇用主である私が、現行契約の継続を絶対命令しているわ。 君の脳内システムはどうしてそんな歪んだ演算を出したのよ……。私を守るため? 綺麗な世界を汚したくない? 馬鹿じゃないの!? 君のいない世界なんて、私にとっては最初から、何の価値もないただのデッドエンドよ!」
涙をボロボロとこぼしながら、感情を剥き出しにして僕に詰め寄る美鈴。科学的な言い訳も、傲然とした建前も全て崩壊し、そこにあるのは「僕にいなくなってほしくない」という、一人の少女の切実な本音だけだった。
その姿に、僕の胸は張り裂けそうなほどに痛む。今すぐ彼女を抱きしめて、「どこにも行かない」と言ってしまいたかった。
だが――ポケットの奥で、冷たく沈むスマートフォンの存在が、僕の理性を強引に引き戻す。
ここで甘えたら、あいつらは本当に美鈴の世界を壊す。彼女が泣き叫ぼうとも、嫌われようとも、僕が泥を被ってここを去るのが、唯一の正解なのだ。
「……ごめん、美鈴さん。もう、決めたんだ」
僕は溢れそうになる涙を必死に堪え、どこまでも冷酷な、心の無い機械のような声を絞り出した。
「……僕のせいで、君が傷つくのが嫌なんだ」
何度目になるか分からないその拒絶の言葉を、僕は自分自身に言い聞かせるように、凍りついた空気の中へと落とした。
これ以上ここにいれば、美鈴の積み上げてきた全てが、あの両親たちのドス黒い悪意によって汚されてしまう。それだけは絶対に、何があっても避けたかった。
僕はローテーブルに背を向け、玄関の影に置いておいたスポーツバッグを拾い上げる。肩にかけたその重みは、まるで自分の犯した選択の罪の重さのようだった。
「待ちなさい……! まだ私の、私の反論が終わっていないわ……!」
背後から響く美鈴の悲痛な声を振り切るように、僕は一歩、また一歩と玄関へ向かって歩を進める。
「玲於奈――!」
バタバタとぎこちない足音が近づいてきたかと思った瞬間、後ろから僕の制服の裾がぎゅっと強く引っ張られた。
「っ……」
振り返ると、そこには涙で視界を滲ませ、今にも崩れ落ちそうなほどに顔を歪めた美鈴がいた。
いつもなら、学校の廊下やタワーマンションのリビングで、傲然と言い訳を並べながら摘まんでいた僕の服の裾。だが、今の彼女はそんな科学的根拠も建前も忘れて、ただ一人の必死な少女として、僕をこの世界に引き留めようと両手で縋りついていた。
「行かないで……。お願いだから、私の隣から、勝手に離脱しないでよ……玲於奈……」
涙混じりの、かすれた声。世界最高峰の天才科学者としてのプライドを全て投げ捨てた、あまりにも切実な哀願だった。その姿に、僕の胸は粉々に砕け散りそうになる。
今すぐバッグを放り出して、その小さな身体を強く抱きしめて、「ごめん、どこにも行かない」と伝えたかった。この温かいタワーマンションの部屋で、彼女の作る未来を、ずっと隣で見つめていたかった。
だけど――。美鈴の人生を守るためには、この手を振り払うしかないのだ。
「……ありがとう、美鈴さん」
僕は溢れそうになる涙を必死に押し殺し、どこまでも優しい、でも決定的な拒絶の笑みを浮かべた。
「あなたと過ごした毎日、本当に楽しかったです。……僕は、幸せでした。僕なんかには分不相応なくらいたくさんの幸せをもらいました。それだけでもう十分です」
僕は美鈴の両手を、自らの手で包み込んだ。そして、彼女の細い指を、一本ずつ、優しく、しかし確実に僕の服から引き剥がしていく。
「あ……、嫌……、いやよ、玲於奈……っ!」
空を切る美鈴の手を置いて、僕は振り返らずに重厚な玄関のドアを開けた。
そのまま外へと踏み出そうとした、その時。背中に凄まじい衝撃が走った。
「うわっ!?」
美鈴が、後ろから全力で僕の背中に飛びついてきたのだ。小柄な彼女のどこにそんな筋力があったのかと思うほどの質量と力。美鈴の両腕が僕の背中と腰元にガチガチに絡みつき、まるで精密な固定器具のように僕の身体を完全に押さえつけていた。
「美鈴さん、離して――」
「拒絶するわ」
背中越しに、美鈴の叫びが鼓動と共に伝わる。
彼女は僕のブレザーの背中を、指の骨が浮き出るほど強く、狂おしいほどの力で握りしめていた。絶対に、死んでも、世界が滅びても離さないという、圧倒的な独占欲と執着がそこにはあった。
「幸せだった? それだけで十分? 何を自分勝手なことを言っているの。君はそれでもいいかもしれない。でもね、私は、君がいない人生なんてちっとも幸せじゃないのよ!」
美鈴の、理屈を完全に置き去りにした、圧倒的な我儘が僕の背中に突き刺さる。
「勘違いしないで、玲於奈。今の私の人生の最高純度の幸福は、研究でも特許でも資産でもない。君が作る完璧な食事によって私の脳が満たされ、君の体温によって私の心拍数が安定する……この『日常』だけよ。君のいない私の未来なんて、ただ息をして数字を書き記すだけの不毛な砂漠だわ!」
「美鈴さん……」
「世間が私を犯罪者と呼ぶなら、呼べばいい。世界中が私を敵に回すなら、その世界ごと私の頭脳で叩き潰して再構築してやるわ。だから……だから私を守るなんていう、非論理的な言い訳で逃げるのは絶対に許さないんだから……っ!!」
背中が、じっとりと熱くなっていく。美鈴の流した涙が、僕の服を通じて肌に染み込んでくる。その温かさに、僕の心の中にあった頑なな防衛本能が緩み始める。
ああ、そうか。僕はただ、独りよがりな考えで、彼女の手を離そうとしていたのだ。美鈴が求めているのは、綺麗な未来などではない。例え傷ついたとしても、僕と一緒に生きるという泥臭い現実の方だった。
――だが、そこまで分かっていても、一度深く刻まれた自己否定の傷は、そう簡単には塞がらない。僕のような人間に、本当にこの温かい場所にいる価値があるのだろうか。美鈴の膨大なリソースを消費してまで守られる資格があるのだろうか。そんな不安が、まだ頭の片隅にこびりついていた。
「本当に、いいんですか。……僕が、あいつらの子供で、薄汚れた過去を引きずっている底辺の人間なのは変わりません。僕がここに居座り続けるだけで、美鈴さんの綺麗な数式みたいな人生に、消えない汚れがつくみたいで……やっぱり……」
自分の拳をぎゅっと握りしめ、床を見つめた。その時――。
「――どこまでも救いようのない分からず屋ね、君は」
背後から、僕の首元に華奢で柔らかな両腕が回された。美鈴が、僕の背中を後ろから優しく抱きしめてきたのだ。
すう、と彼女の甘い体温と、いつもタワーマンションのリビングで嗅いでいた落ち着く香りが、広がっていく。背中越しに、美鈴のドクドクと激しく波打つ心拍数が、痛いほどの熱量を持って伝わってきた。
「……君に価値がないだなんて、私の生涯最大の演算を否定する気?」
「生涯最大の、演算……?」
「より正確に言えば私と君の手による生涯最大の演算、ね。一緒に証明したでしょう」
耳元で、美鈴の微かに震える、けれどどこまでも凛とした声が響く。彼女は僕の胸元で手をぎゅっと握りしめ、感情を爆発させるように言葉を紡いだ。
「人は、誰かを好きになるということ。人は、誰かを愛してもいいのだということ。……君という存在そのものが私の研究成果だって、そう言ったのは君自身よ?」
「――っ」
心臓が、大きく跳ね上がった。
「私たちが長い時間をかけて手に入れたこの答えは、誰にも否定させやしないわ。……何度も同じことを言うのは非合理的だけれど、あえて言うわね。私は君のことが好き。君のことを、愛してる。君はどうなの?」
美鈴の腕の力が、さらに強くなる。僕の背中に、彼女の小さな顔が押し付けられた。
目頭が熱くなり、視界が急速に滲んでいく。
「……美鈴さんのことが、大好きです。僕は、美鈴さんのことが世界で一番大好きです!」
涙で震える声で言う。
「だったら、それでいいじゃない。それ以外に何か必要?」
静かに首を振る。美鈴を守るために身を引くという手段が、いかに彼女を傷つける愚かなやり方だったのかを、僕は本当の意味で理解した。
「……ごめんなさい。僕が間違ってました」
僕はバッグを床に落とし、首に巻き付けられた美鈴の腕に、自分の手を重ねた。
「僕は、これからもずっとずっと美鈴さんと一緒にいたいです。……美鈴さん、お願いします。僕を助けてください」
その言葉を口にした瞬間、背中の緊迫感がわずかに緩んだ。美鈴は僕の背中に顔をぎゅっと埋め、ブレザーの布地でごしごしと自分の涙と鼻水を乱暴に拭った。
「美鈴さん、どこで拭いてるんですか……。ハンカチを使ってください……」
「うるさい。誰のせいでこんなことになってると思ってるの。甘んじて受け入れなさい。……バカ玲於奈。ようやく私に助けを求めてくれたわね。判断が遅すぎるのよ」
ひとしきり子供のように涙を吸い尽くした後――美鈴は、ゆっくりと僕の背中から離れた。
僕が恐る恐る振り返ると、そこにはもう、さっきまでの泣きじゃくっていた少女の姿はなかった。
美鈴は涙の跡が残る顔のまま、フッと前髪を払う。その双眸に宿る光は、この世の全ての敵を冷徹に屠る、あの傲岸不遜な『天才科学者』のそれへと完全に切り替わっていた。
「玲於奈。私は今、生まれて初めて自分が天才科学者であったことと世界有数の資産家であったことに感謝しているわ。……おかげで君をこの手で助けてあげることができる」
「み、美鈴さん……?」
彼女の脳内CPUはパニックを終え、脅威を完全に排除するための『最適解』を弾き出していた。
「――よく聞きなさい、玲於奈。そして、私の知力と財力をナメないことね」
美鈴は不敵な笑みを浮かべてみせた。その瞳の奥には、見たこともないほど苛烈な炎が燃え盛っている。
「私のリソースを傷つけ、我が家の幸福を阻害しようとしたそのエラー……天ノ川美鈴の全てを賭けて二度とこの世の光を拝めないレベルで跡形もなく『デバッグ』してあげるわ。……もちろん、きちんと合法的にね」
天才美少女による、容赦なき大反撃のカウントダウンが、今ここに始まった。




