第56話:合理的生存戦略の「終了申請」
深夜二時。静まり返ったタワーマンションの寝室で、僕はベッドの上に膝を抱えて座っていた。
窓の外には、相変わらず煌びやかな夜景が広がっている。数日前、美鈴をこの手で抱きしめ、ずっと傍にいると約束した、あの眩しい世界。だが、今の僕にはその光の全てが、自分を責め立てる鋭い針のように感じられた。
『三日だ、三日以内に読まねえと、あの女の人生をネットも学校も巻き込んで完全に終わらせてやるからな!!』
あいつらの冷酷な笑みと、ねっとりとした悪意に満ちた声が、脳内で幾度もリフレインする。
ただの脅しではない。子供を所有物としか思わず、自らの利益のためなら手段を選ばない人たちだ。奴らなら、本当に研究機関や学校に乗り込んで、不純異性交遊のデマを大々的に言い触らすだろう。
「怖い……」
ぽつりと、暗闇の中に言葉が溢れた。あいつらに殴られることでも、罵倒されることでもない。僕が一番恐れているのは――僕という存在が引き金になって、美鈴の輝かしい未来や、彼女が血の滲むような努力で積み上げてきた天才科学者としての名誉が、泥塗れにされて破壊されることだ。
美鈴は、世界をより良い方向へと導くために生まれてきたような、純粋で、圧倒的な天才だ。
文化祭で不器用ながらも一生懸命に楽しもうとしていた彼女。恋心を自覚して、顔を真っ赤にしながら僕のシャツを掴んできた彼女。あの尊くて、眩しくて、最高に可愛いご主人様を、僕の過去のせいで失墜させるわけにはいかない。
昼間の学校で渡辺に言われた言葉が蘇ってくる。
『どんな事情があるか知らないけど、美鈴にあまり迷惑かけちゃダメだよ。……あの子は、私や高丘くんみたいな平民とは違うんだから』
そう。彼女の言う通り、僕と美鈴は元々住む世界が違ったのだ。
そこまで考えた瞬間、胸の奥からドス黒い自己嫌悪が急速にせり上がってきた。
(……何が『ずっと傍にいる』だよ。何が『僕があなたを最適化してやる』だ……!)
傲慢だった。月収五十万円の業務委託契約を結び、彼女の生活を完璧にマネジメントできている気になって、調子に乗っていただけだ。
僕の正体は、親に捨てられ、公園で行き倒れていた、ただの底辺高校生じゃないか。
「最初から……僕みたいな、何一つ価値のない底辺の人間が、ここにいるのが間違いだったんだ……」
自嘲気味につぶやいた声は、夜の静寂に虚しく吸い込まれていった。
美鈴という眩しすぎる太陽の隣に、僕のような泥塗れの影が並んで歩いていいはずがなかった。雇用関係という便利な建前を隠れ蓑にして、手に入れてはいけないはずの温かい日常に、甘えて、依存していたのは僕の方だ。
もし、このまま僕がここに居座り続ければ、あいつらの悪意は美鈴を完全に包囲し、彼女のキャリアを修復不能なまでに破壊し尽くす。それだけは、何があっても阻止しなければならない。
冷え切った頭の奥で、一つの歪んだ思考が弾き出される。バグを消去し、天ノ川美鈴のシステムを完全な状態に維持するための、唯一の手段。
(僕が、ここから消えればいい)
僕さえいなくなれば、あいつらは美鈴を揺さぶる大義名分を失う。美鈴の綺麗な世界は守られる。
深い、深い自己否定の沼の底で、僕の心は最悪の最適解を、冷徹に出力し終えていた。
――深夜三時。リビングは静まり返り、街の明かりを映す窓ガラスだけが淡く光っていた。
必要最低限の荷物だけを詰めたスポーツバッグを、玄関の影にそっと置く。タワーマンションでの華やかな生活で買い足したものは、ほとんど置いていくことにした。元々、夜の公園で行き倒れていた僕の持ち物なんて、片手で持てる程度のものしかなかったのだから。
リビングに戻ると、ソファの前に置かれたローテーブルへ向かう。カサリ、と乾いた紙の音が静寂に響いた。白い天板の上に置いたのは、二つ折りにされた数枚の書類。
僕と天ノ川美鈴の『始まりの証明』であり、僕をこの温かい世界に繋ぎ止めてくれていた唯一の命綱。
――ライフマネジメント業務委託契約書。月収五十万円。
それを見つめていると、胸の奥が引き裂かれるように痛んだ。
この数枚の紙切れから、僕の新しい人生が始まった。毎日の美味しいご飯、くだらない言い合い、文化祭の輝かしい思い出、そして、ベランダで確かめ合ったあの温かい体温。その全てが、愛おしくて、失いたくなくて、堪らない。
「……楽しかったなぁ」
こぼれそうになった涙を手の甲で拭う。
幸せだった、かけがえのない日々。だけど、だからこそ、僕の手でこの関係を終わらせなければならない。
「……こんな時間まで、何を思案しているのよ、玲於奈」
暗闇の中から、鈴を転がすような、しかし微かに震える声が響いた。振り返ると、廊下からの薄明かりの中に美鈴が立っていた。
白衣も羽織らず、パジャマのまま寒そうに両腕を抱え込んで僕を見つめている。その宝石のような瞳は、寝不足のせいで微かに潤んでいた。
「美鈴さん、起こしちゃいましたか。すみません」
「君の心拍数と移動データが、数時間前から異常な覚醒状態を示していたわ。ライフマネージャーが機能不全を起こしているのだから、クライアントである私が覚醒するのは当然の論理よ」
美鈴はそう早口で捲し立てながら、一歩、また一歩と僕に近づいてくる。だが、ローテーブルの上に置かれた書類が視界に入った瞬間、彼女の足がピタリと止まった。
美鈴の視線が、契約書の文字へと注がれる。彼女の優秀な脳内CPUが、その書類の持つ意味を理解するのに、一秒の何百分の一もかからなかったはずだ。美鈴の白い肌が、一瞬にして血の気を失っていくのが分かった。
「……何よ、これ。何の冗談よ、玲於奈」
美鈴の声から、いつもの傲然さが消えていた。ただの、怯える少女のような声。
僕は深く息を吸い込み、胸の痛みを押し殺して、極めて静かに、あらかじめ決めていた言葉を口にした。
「美鈴さん。契約を解除させてください」
「っ……!」
「朝になったらここを出ていきます」
それが、その方法だけが今の僕にとっては唯一の希望だった。
「美鈴さんも理由は分かりますよね。あの人たちは、あなたの未来を壊そうとしてる。僕がここにいたら、あなたのキャリアも名誉も、全部あの人たちの犯罪行為に巻き込まれるんですよ。僕みたいな底辺の人間のせいで、あなたの綺麗な人生を台無しにされたくないんです」
僕はローテーブルを挟んで、美鈴をまっすぐに見つめた。
「これが、僕たちにとっての『最適解』なんですよ。美鈴さん」
全ては美鈴を守るため。彼女の輝かしい未来を守るため。
そう自分に言い聞かせながら、僕は冷え切ったリビングで、最愛のご主人様へ向けて別れの宣告を突きつけたのだった。




