第55話:極限効率の崩壊
鈴を転がすような、けれど絶対的な強制力を持った美鈴の声が、僕の足を止める。
「待ちなさい、玲於奈」
振り返ると、美鈴が立ち上がり、僕の正面へと歩いてきていた。
彼女の顔は相変わらず無表情だ。大声を出しているわけでも、感情的に眉をひそめているわけでもない。なのに――何なのだろう。この圧倒的な威圧感は。
美鈴の瞳の奥。いつもは眠たげに揺れているその双眸が、今は見たこともないほど鋭く、青い炎のように冷たく燃え上がっている。
周囲の空気がまたたく間に凍りついていくような感覚。彼女の怒りの温度は、既に完全な沸点に達していた。
美鈴は一歩、また一歩と僕との距離を詰め、ついに目の前に立ちふさがった。
小柄な彼女に正面から見据えられ、僕は圧迫感に息を呑む。
「み、美鈴さん……? どうしたんですか、そんな怖い顔して。晩ご飯が足りなかったなら、すぐに――」
僕の言い訳を遮るように、美鈴の白く細い手が、スッと伸びた。そして、僕のシャツの裾を、逃がさないとばかりにぎゅっと力強く掴む。彼女の手のひらから、微かな怒りの震えが伝わってきた。
美鈴は真っ直ぐに僕の目を射抜き、冷徹かつ、胸が締め付けられるほどの圧倒的な執着を込めて告げた。
「玲於奈。スープの濃度、身体の微かな振動、視線の逃避。全てのデータが、君の精神に重大なエラーが発生していると示しているわ」
一語一語を刻みつけるような、静かで、重い声。
「私を誤魔化せると思わないで。君のシステムを乱し、我が家の生存戦略を脅かしているバグは何? ――言いなさい、玲於奈。何が君を、そんなに怯えさせているの?」
天才科学者の、絶対に引き下がらない、容赦なき追及が始まった。
「ただの、寝不足だって。本当に……少し頭が痛いだけだから、心配しないでください」
美鈴の突き刺さるような視線から逃れるように、僕は精一杯の声を絞り出した。
シャツの裾を掴む彼女の指先から、微かな体温が伝わってくる。その温もりさえ、今の僕には過分なものに思えて、胸の奥がキリキリと痛んだ。
言えるわけがない。かつて自分をゴミのように捨てた両親が、今度は美鈴の資産に目をつけ、強請ろうとしてきたなんて。そんな泥に塗れた過去、この清潔で静かな世界に持ち込んでいいはずがなかった。
「嘘ね」
しかし、美鈴は表情一つ変えず、ただ瞳の奥の青い炎をさらに鋭く燃え立たせた。
「君の言語プロセッサは『寝不足』を出力しているけれど、表情のデータがそれを100%否定しているわ。嘘をつく時、君は右の眉がわずかに2ミリ下がる。……私を舐めないで、玲於奈。私は――」
その時だった。リビングの静寂を破り、テーブルの上に置かれた美鈴のスマートフォンが、これまで一度も聞いたことのない禍々しい警告音を鳴り響かせた。
美鈴の言葉が止まる。
彼女は掴んでいた僕の裾を離し、流れるような動作で端末を手に取った。液晶画面を見つめる彼女の眉が、ピクリと不快そうに跳ね上がる。
「……マンションの防犯システムが第二種警戒態勢に移行したわ。ロビー階で、事前登録のない不審個体の侵入を検知」
美鈴がスマートフォンの画面をスワイプすると、リビングの壁面に設置された大型モニターに、タワーマンション一階のロビーのリアルタイム映像が映し出された。
それを見た瞬間、僕は息をすることすら忘れた。
「な……んで……」
画面の向こう、最高級の大理石で彩られた美しいロビー。その洗練された空間の真ん中で、コンシェルジュの胸ぐらを掴みかけている二人の男女がいた。
ヨレヨレのジャケットを着た父親と、派手で下品な化粧の母親。奴らだ。僕と連絡がつかず、学校で接触することもできなかったから直接ここまで乗り込んできたのだろう。
『玲於奈の親だ! 息子がここで大金持ちのお嬢様に無理やり働かされてるって聞いてな! 誘拐だろ、これ! 警察に言われたくなきゃ、そのお嬢様をここに呼びな!』
防犯カメラのマイクが、父親の怒鳴り声を拾ってリビングに再生する。
コンシェルジュを言葉巧みに騙し、一階のオートロックの手前まで、奴らは確実に侵入してきていた。美鈴の――僕たちの『聖域』のすぐ足元まで、あのドブ川のような泥が這い上がってきている。
「玲於奈。あの個体たちが、そうなの?」
美鈴の声のトーンが、一気に氷点下まで下がった。
僕は何も答えることができない。ガタガタと歯の根が合わなくなり、ただ画面を見つめることしかできなかった。
だが、画面の中の事態は、僕たちの想像以上のスピードで動いていた。
『そこまでにしなさい』
ロビーの自動ドアが開き、カツカツとヒールの音を響かせて一人の女性が現れた。美鈴の秘書である春崎だ。彼女の後ろには、無線機を手にした屈強な体格の警備員が四人も控えている。
『なんだぁ、お前!? 引っ込んでろ、こっちは実の親として――』
『ここは許可された居住者および関係者以外、一歩も立ち入ることはできません。あなた方の行為は刑法第130条、建造物侵入罪に該当します。即座に退去しなさい』
春崎の表情は、冷徹さに満ちていた。父親がなおも掴みかかろうと腕を伸ばす。だが、春崎が冷たく顎をしゃくると、後ろの警備員たちが一瞬で二人の両腕を押さえつけた。
『うわっ! 離せ! 何すんだよ!』
『敷地外へ排除しなさい。抵抗を続ける場合は、即座に警察へ身柄を引き渡します』
春崎の容赦のない指示により、父と母はずるずると引きずられるようにして、ロビーの外へと叩き出されていく。だが、父親は完全に敷地外へ押し出される直前、最後の悪あがきのように、懐から一通の汚れた茶封筒を取り出すと、それをコンシェルジュのカウンターへと乱暴に投げつけた。
『ちっ! じゃあ、これをお嬢様に渡しな! 三日だ、三日以内に読まねえと、あの女の人生をネットも学校も巻き込んで完全に終わらせてやるからな!!』
捨て台詞と共に、奴らの姿が画面から消えた。
ロビーには、カウンターの上にぽつんと残された、薄汚れた封筒だけが映っている。リビングのモニターが静かに暗転し、部屋の中に恐ろしいほどの静寂が戻ってきた。
美鈴は何も言わず、ただスマートフォンを握りしめたまま立ち尽くしている。
――数分後。最上階直行のエレベーターが到着する音が静かに響いた。
リビングの扉が開き、入ってきたのは秘書の春崎だった。いつもなら美鈴に会うなり小言の一つでも言うはずの彼女の顔には、一切の余裕がなかった。その表情は、鉄のように硬い。
春崎は僕と美鈴の前に歩み寄ると、一言も発しないまま、右手に持っていたものをダイニングテーブルの真ん中へと置いた。大理石風の真っ白で美しいテーブルの上に、ぽつんと置かれた、一通の茶封筒。角が潰れ、誰かの手垢で黒ずんだその封筒は、この美しい部屋の中で、異様なまでの不潔さと悪意を放ちながら、そこに鎮座していた。
それを見つめる僕の視界が、恐怖でぐにゃりと歪む。顔から完全に血の気が引いていくのが、自分でもハッキリと分かった。
ダイニングテーブルの上に置かれた茶封筒は、部屋の洗練された照明の下で、まるでどす黒い染みのように見えた。
「先生。これは一階のロビーで、高丘くんのご両親を名乗る男女が残していったものです。内容は……」
春崎がそこまで言いかけた時、美鈴が迷いのない手つきで封筒へと手を伸ばした。
「美鈴さん、待って! 見ちゃダメだ!」
僕の制止の声は間に合わなかった。
美鈴は細い指先で封筒の端を破り、中から雑に折り畳まれた一枚の紙を取り出した。そこには、殴り書きのような汚い文字で、人間のものとは思えないほどの悪意が書き連ねられていた。美鈴がそれを広げると、僕の視界にもその最悪な文字列が飛び込んできた。
『天ノ川美鈴へ。
お前がウチの玲於奈を拉致監禁して、愛人として飼っていることは分かっている。未成年を金で買って自室で好き放題レイプしているなんて、世間が知ったらどうなるかな?
三日以内に三千万円を以下の口座に振り込め。
もし振り込まない場合、この事実をお前の通う高校、政府関係の研究機関、そしてネットのあらゆるSNS、掲示板にバラ撒いてやる。
天才科学者のお嬢様が、犯罪者として引きずり降ろされるのが楽しみだな』
「っ……!」
胃の底からせり上がってくる激しい吐き気に、僕は口元を押さえた。
拉致監禁。愛人。レイプ。犯罪者。
あまりにも悍ましく、事実とは180度異なる、ただ美鈴を社会的に引きずり降ろすためだけの最低のデマ。
奴らは、僕という存在を利用して、この世で最も綺麗で尊い美鈴の未来を人質に取ったのだ。
「先生……。即座に弁護士と警察に連絡を入れます。この内容なら、恐喝罪および名誉毀損罪で十分に立件可能です」
春崎が事務的ながらも、怒りで声を震わせてスマートフォンを取り出す。
だが、僕の頭の中は、最悪のシミュレーションで埋め尽くされていた。
(春崎さんの言う通りに立件できたとしても、時間がかかる。奴らが警察に捕まる前に、ネットにこれを書き込んだり、学校で言いふらしたりビラを撒いたりしたらどうなる? ネットのデマは、一度拡散したら二度と完全に消すことはできない。美鈴さんの輝かしいキャリア、彼女の研究や発明、学会での立場……その全てに、消えない泥が塗られるんだ)
世界中から注目される若き天才科学者、天ノ川美鈴。彼女の周りには、ただでさえ嫉妬や利権にまみれた大人が大勢いる。そんな状況で、こんな醜聞が一度でも流れれば、例えそれが冤罪だと証明されたとしても、彼女の受けるダメージは計り知れない。
僕のせいだ。
僕が、あの時、公園で春崎の手を取ってしまったから。
僕が、このタワーマンションで月五十万円の報酬と温かい生活に溺れてしまったからだ。
僕の汚い過去が、美鈴の清らかな世界を内側から腐らせようとしている。
「……美鈴さん」
恐る恐る、美鈴の顔を盗み見る。
彼女は、その悍ましい脅迫状をじっと見つめていた。怒りで顔を真っ赤にしているわけでも、恐怖で震えているわけでもない。美鈴の顔からは、完全に感情が消失していた。
まるで、ただのバグだらけのソースコードを冷徹にチェックするかのように、無表情のまま、感情の消えた目で最悪の文字列を静かに精査している。その静けさが、僕には何よりも恐ろしかった。
天才である彼女の頭脳なら、この状況がどれほど自分のキャリアに不利益をもたらすか、瞬時に計算できているはずだ。
「……玲於奈」
美鈴がゆっくりと顔を上げた。その銀色の瞳には、何の光も宿っていない。
「この個体たちの行動予測、および文字列の構成パターンから推測するに……彼らの目的関数は『私の財産の強奪』であり、手段として『社会的信用の毀損』を選択しているわ。極めて非論理的で、下俗なエラーね」
淡々と、数式を読み上げるように美鈴は言う。
その冷たさが、僕の心に決定的なトドメを刺した。
そうだ。彼女にとって、僕の親はただの『不快なエラー』でしかない。そして、そのエラーを引き寄せた原因は、他ならぬ僕自身だ。
これ以上、ここにいてはいけない。
僕がこの部屋に――美鈴の隣に居座り続ければ、三日後には彼女の全てが破壊される。
(守らなきゃダメだ。美鈴さんの、あの綺麗な笑顔を。彼女の研究を。……僕のせいで、彼女の人生が壊れることだけは、絶対に阻止しなきゃいけない)
ドクン、と心臓が重く一度だけ脈打つ。
その瞬間、僕の目から、完全に生気が消え失せた。
絶望のどん底で、僕の脳は一つの『最適解』を弾き出していた。
(――終わらせよう。この契約も、この幸せな日常も。全部、僕の手で)




