第54話:学校に忍び寄る影
不穏な予兆は、僕の預かり知らぬ場所で、確実に現実の形を取り始めていた。
翌日の昼休み。自分の教室で午後の授業の準備をしていた僕は、渡辺に手招きされ、教室の入り口付近へと呼び出された。渡辺は、どこか神妙な面持ちで立っている。
「高丘くん、ちょっと耳に入れておきたい情報があるんだけど……」
渡辺は周囲に声が漏れないよう、心なしか声を潜めた。
「ここ二、三日、放課後の校門付近で、妙な男女が目撃されてるんだって。なんでも君の写真を持ち歩いて、下校中の生徒たちに『この男の子を知らないか』『どこに住んでいるか知らないか』ってしつこく聞き回っているらしくて」
「僕の、写真を……?」
「うん。身なりはかなり荒んでいて、どこか目が血走った、中年くらいの男女らしいよ。クラスの女子が声をかけられて怖がってたから、私の耳にも入ったんだけど……。何か心当たりはある?」
――その特徴を聞いた瞬間。凄まじい悪寒が全身を駆け巡った。
視界が急速にセピア色に染まり、耳の奥で、一年ほど前に完全に決別したはずのあの人間たちの罵声が、鮮烈なフラッシュバックとなって蘇る。
『お前みたいな出来損ない、産まなきゃよかった』
『親に養ってもらってる分、少しくらい金を稼いでこいよ!』
薄暗い部屋。投げつけられるガラス瓶の割れる音。育児放棄を繰り返した実の両親の、強欲に歪んだ顔。
胃の奥から強烈な嘔吐感が込み上げ、僕の指先は、自分でも制御できないほど小刻みに震え始めていた。
「……いや。ごめん、僕にはさっぱり分からないや。悪質な悪戯じゃない?」
僕は引きつる顔を必死に笑顔へと変え、全く心当たりのない様子を突き通した。だが、渡辺は僕の稚拙な嘘に騙されるような相手ではない。それ以上の追及はしてこなかったが、僕が何かを抱えていることには勘づいてしまったようだ。
「ふぅん、そう。それなら別にいいけど。念のため今日は裏門から帰った方がいいよ」
「ああ。ありがとう……」
「どんな事情があるか知らないけど、美鈴にあまり迷惑かけちゃダメだよ。……あの子は、私や高丘くんみたいな平民とは違うんだから」
「分かってるよ。……そんなの僕が一番よく分かってる」
僕は、拳を血がにじむほど強く握りしめた。
「何かあったら言ってね。大した力にはなれないかもしれないけど、愚痴くらいなら聞けるから。……私、美鈴とだけじゃなくて高丘くんとも友達のつもりだし」
渡辺は心配そうな視線を向けている。僕は、何も言葉を返すことができなかった。
授業が終わった後、どうやって帰り、スーパーへ向かったのか、正直よく覚えていない。
美鈴は国立研究開発法人の仕事だとかで学校には来ていなかったから自分一人で帰ったことだけは確かだ。気づけば僕は、タワーマンションの最上階、美鈴のマンションのキッチンに立っていた。
スマートフォンは非通知の着信を拒否する設定にした。だが、電話がかかってくることがなくとも、耳の奥ではあの忌々しい父親のダミ声がいつまでも消えずに残っていた。
『お前、随分と良いとこに囲われてるらしいじゃねえか。ちょっと金が要るんだよ。少しくらい都合できるよな』
『育ててやった恩を返せって言ってんだよ! それくらい分かるだろうが!』
自分に言い聞かせるように、小さく声を出す。
「大丈夫。いつも通りに、いつも通りにやるだけだ……」
部屋の空気は清浄そのもの。リビングのホワイトボードもサーバーラックも、僕の手によって美しく整えられている。美鈴の『聖域』は、まだ何一つ汚されていない。守らなければならない。僕の過去という最低のノイズで、彼女の日常を壊すわけにはいかないのだ。
だが、僕の身体は、脳の命令を拒絶していた。
「あ……」
ハンバーグの種を捏ねようとした瞬間、ボウルに投入したタマネギの量が、いつもの最適な分量より十五グラムも多いことに気づく。
飴色に炒めたタマネギ。いつもなら寸分の狂いもなく計量し、極限の効率で肉と混ぜ合わせるはずなのに。慌てて量を調整しながらも頭の中では次々と余計な思考が湧いてくる。
(毎月のお給料はほとんど手つかずで残っているけど、それをあの人たちに渡すだけで済むとは思えない。きっと一度お金を払えば次から次へと要求されるはずだ。そして、僕はあの人たちの言いなりになって『金持ちの女に寄生する集金装置』にされるんだ)
それだけは、死んでも嫌だ。何より、美鈴をそんな犯罪者同然の立場に巻き込むなんて、絶対に、絶対に許されない。
「……落ち着こう。まずは、コンソメスープだ」
気分を切り替えるため、美鈴が好む特製コンソメスープの調理に取りかかる。
牛肉と野菜の旨味をじっくりと抽出し、極上の黄金色に仕上げるスープ。これには一滴の濁りも、一グラムの計量ミスも許されない。
コンソメのベースに塩を振ろうとした、その時だった。カチ、と小さく乾いた音が静かなキッチンに響く。ソルトシェイカーを持つ僕の右手が、目に見えて小さく震えていた。
「しまっ――」
ドサッと、いつもより明らかに多い量の岩塩が鍋の中に落ちる。慌ててスプーンで掬い取ろうとするが、お湯に溶けた塩分は既にスープ全体へと拡散していく。
(何をやってるんだ、僕は。そうだ、タイマーは……タイマーはどうした!?)
コンロのデジタルタイマーに目をやる。設定時間は残り三分のはずだった。しかし、僕がパニックのまま叩いたボタンは、残り一〇分に設定されている。このままではスープが煮詰まり、風味が完全に破壊されてしまう。
無駄な動き。不正確な計量。予測不能なエラー。雇い主である美鈴がこれまでの人生で最も忌み嫌い、避けてきた『非効率』の塊が、今、このキッチンを支配していた。
僕の誇りであり、美鈴に買われた唯一の価値である極限効率の家事スキルが、内側からガラガラと崩壊していく。
その時、玄関のスマートロックが解除される電子音が鳴った。背筋に嫌な汗が流れる。
「――玲於奈。ただいま。脳のエネルギーが残り5%よ。至急、炭水化物とアミノ酸の補給を要求するわ」
いつもと変わらない、抑揚のない、けれどどこか愛らしい美鈴の声。
普段なら完璧なタイミングで出迎えるはずの僕は、コンロの前で硬直したまま、情けない声を出すことしかできなかった。
「お、おかえり、美鈴さん。今、ちょっと長引いてて……すぐ、できるから」
「……珍しいわね。君のタイムスケジュールに遅延が発生するなんて」
パタパタとスリッパを鳴らし、美鈴がキッチンを覗き込んできた。徹夜明けなのか、少し眠たげな目をこすりながら、彼女は僕の顔を見上げようとする。
僕は反射的に、美鈴から視線を逸らした。今の僕の顔は、きっと酷く歪んでいる。彼女の濁りのない瞳に見つめられたら、全てを見透かされてしまいそうで怖かった。
「……玲於奈?」
「なんでもない! ほら、リビングで待ってて。すぐ運ぶから」
少し強めの口調になってしまった。美鈴は一瞬、不思議そうに首を傾げたが、大人しくリビングのソファへと移動していった。
それから一〇分後。なんとか形にしたハンバーグと、件のコンソメスープをトレーに乗せ、僕はダイニングテーブルへ運んだ。
「お待たせ。どうぞ召し上がれ」
「ええ、いただきます」
美鈴は嬉しそうにスプーンを手に取り、まずはいつも通り、スープを一口、その綺麗な唇へと運ぶ。
僕はテーブルの向かい側の席で、心臓が破裂しそうなほどの緊張感でその光景を見つめていた。ごくり、と美鈴の喉が鳴る。
次の瞬間。美鈴の手が、ピタッと静止した。
スプーンを持ったまま、彼女の身体が完全にフリーズする。
いつもなら美味しそうに目を細めるはずの彼女の横顔が、冷徹な『天才科学者』のそれに変わっていく。
美鈴はゆっくりとスプーンを皿に戻すと、僕を真っ直ぐに見据えた。その瞳には、いつもの甘さは微塵もない。
「……玲於奈」
冷たい、夜の静寂のような声が、室内に響く。
「今日のスープ。……塩分濃度が、いつもより0.15%高いわ」
美鈴の冷徹な指摘に、僕の背中を嫌な汗が伝う。
「0.15%、高い……?」
わずかコンマ数パーセントのズレ。普通の人間の味覚なら気付きもしない、あるいは「いつもより少し濃いかな」程度で済まされる微差だ。だが、僕の家事の完璧さを誰よりも信頼し、それを自身の生活基盤としてきた天才科学者・天ノ川美鈴の舌を誤魔化すことはできなかった。
「あ、いや……ごめん。ちょっと、手元が狂ったというか……体調が少し優れなくて。ほら、季節の変わり目だから、自律神経の乱れ的なあれかな」
必死に頭を回転させ、それっぽい理由をひねり出す。視線は美鈴の顔ではなく、ダイニングテーブルの白い天板に固定したままだ。
美鈴は無言で僕をじっと見つめていた。その沈黙が、今の僕には裁判官の判決を待つ被告人の時間のように長く、恐ろしく感じられる。
「……そう。君の自己管理能力をもってしても制御できない生物学的エラーね」
美鈴はそれ以上追及することなく、再びスプーンを手に取った。そして、塩分濃度の狂ったコンソメスープも、いつもより少し形の歪んだハンバーグも、一切の文句を言わずに無言で完食してくれた。
美味しい、という言葉はなかった。けれど、一口も残さず綺麗に平らげられた皿を見て、僕の胸は締め付けられるように痛んだ。
(美鈴さんに、こんな不完全なものを食べさせている。僕のせいで、彼女の完璧な日常にノイズが混じり始めている……)
胸の内に不安が巣食っていた。
「……それじゃあ、僕は洗い物をするから」
逃げるようにキッチンへ向かおうとした、その時だ。コツン、とテーブルにタブレット端末が置かれる乾いた音が響いた。




