第53話:崩れる日常、不穏なバイブレーション
文化祭が終わり、数日が過ぎた。お祭りのような喧騒が嘘のように引き、タワーマンションの最上階には、再びいつもの静謐な日常が戻っていた。
あの甘やかな夜を経て、僕と美鈴の距離は、以前にも増して密接なものになっていた。
ベランダで交わした甘く切ないキスと、互いの名前を呼び合った約束の余韻。それは今も僕たちの間に、目に見えない温かい空気の膜となって残っていた。
失いたくない、かけがえのない、あまりにも幸福な日常の風景。
朝、彼女の好みに合わせた朝食を作り、学校ではそれぞれのクラスで過ごして休み時間のたびに会いに行き、夜は二人でリビングのソファに並んで他愛のない時間を過ごす。
僕たちは家でも学校でも相手のことを下の名前で呼び合うようになっていた。ただ、僕は気を抜くとつい彼女に対して敬語で話してしまう。今までの染み付いた習慣のせいだ。こればかりはすぐには直りそうもない。彼女は不満そうだが、今のところ許してくれてはいる。
恋人同士になってからというもの美鈴は家に戻るなり僕の服の裾を掴んで離さず、徹底的に僕を独占していた。家政夫と雇用主という枠組みをとうに越えた、優しく、ひたすらに甘い平穏なルーティンだ。
しかし、その完璧に最適化された日常の裏側で、最初の不協和音が静かに鳴り響き始めていた。
始まりは、ここ数日の深夜のことだった。
美鈴が寝静まり、室内が夜の静寂に包まれる頃。僕のスマートフォンの液晶画面が、音もなく白く浮かび上がる。
ディスプレイに表示されるのは、発信者の分からない『非通知』の文字。
最初はただの間違い電話か、あるいは機械的な迷惑電話だと思おうとした。だが、その着信は深夜二時、あるいは三時といった、常識外れの時刻に決まって数回、執拗に繰り返された。
タイミングが合わずに電話に出る機会は訪れなかったが、背中を焼かれるような嫌な予感があった。
(……まさか、な)
脳裏をよぎる、いくつかの不吉なシミュレーション。心臓がどくんと大きく跳ね、血の気が一気に引いていく。
どれだけ遠くへ逃げても、どれだけ新しい幸せを積み上げても、決して消えることのない過去のトラウマ。
中学の卒業式の日、自分を捨てて蒸発して以来、完全に縁が切れたとばかり思っていた。あの凄惨な過去の記憶。幼い自分を暗い部屋に放置し続けた、あの冷酷な人間たちの顔がフラッシュバックする。
僕は自嘲気味に首を振り、逃げるようにスマートフォンの画面をテーブルへと伏せた。見たくない現実を視界から隠すように。
だが、そうした心の乱れは、僕の肉体にわずかな疲労として蓄積されていった。
翌朝。リビングのキッチンで、いつも通り美鈴の分のトーストとスープをセットしていると、背後から音もなく現れたパジャマ姿の彼女に、背後から袖口を強く引かれた。
「――美鈴さん? どうしたんですか、まだスープが温まって――」
「玲於奈。ソファへ移行しなさい」
一切の感情を削ぎ落とした無表情のまま、美鈴は僕の返事も待たずに、Tシャツの袖をグイグイと引っ張ってソファへと引き込んだ。
そのまま、彼女は僕の隣にぴったりと身体を滑り込ませてくる。パジャマ越しに伝わる、彼女の華奢な体温。驚くほど物理的な隙間のない密着だった。
「ねえ、流石に朝から距離が近すぎませんか……?」
「静粛に。現在の君は、生体エネルギーの充填効率が著しく低下しているわ」
美鈴は冷たい表情を厳格に張り付かせたまま、僕の胸元へと自身の銀髪の頭を預け、体温を確かめるように僕の服の裾を小さな指先でぎゅっと、何度も握りしめた。
その頑なな態度の裏側で、彼女の白い首筋がじわじわと、照れ隠しの桜色に染まっていく。
「リビングの環境ログ、および君の瞬きの周期から演算するに、ここ数日における君の平均睡眠時間は最適値を12.4%下回っている。私に隠蔽は通用しないわ。何らかの内部エラーを抱えているのなら、速やかに私の領域へログを開示しなさい」
彼女の銀色の瞳が、微かに潤んだように僕を見つめていた。
システム用語で押し包まれてはいるが、それは紛れもなく、僕のわずかな睡眠不足と体調の変化を察知した彼女なりの、必死で不器用な甘やかし方だった。
「……何でもないよ。少し、文化祭の疲れが出ただけだから」
僕は彼女の頭を優しく撫で、安心させるように微笑んだ。もし僕の予想通りなら彼女を、僕の汚れた過去の泥沼に巻き込むことになってしまう。それだけは、絶対に避けなければならない。その一心で、僕は懸命に誤魔化した。
「ありがとう、美鈴さん。今日は早く寝るようにするね。だから、気にしないで」
「そう……? なら、いいのだけれど」
美鈴は僕の胸元に顔を埋め、どこか不満そうに鼻を鳴らす。彼女の温もりがあまりにも心地よくて、僕の胸の奥の重苦しい霧が、一瞬だけ晴れるような気がした。
――しかし、僕たちがそうしてゼロ距離の防衛線の中で、互いの体温を確かめ合っていた、その瞬間だった。
リビングのテーブルの上に置かれていた僕のスマートフォンが、静かに、しかし執拗に激しい振動を始めた。
朝の光が差し込む平穏な室内に、その無機質な駆動音が異様に大きく響き渡る。
僕と美鈴の視線が、同時に液晶画面へと向けられた。
そこに白く浮かび上がっていたのは、やはりあの『非通知』の三文字だった。美鈴が僕の服の裾を握る力が、ピクリと強くなる。
白々とした沈黙の中で、スマートフォンはまるで、僕たちの絶対的な安全圏の扉を外から激しく叩くかのように、いつまでも鳴り止まなかった。
このまま電話を無視し続けるのはいくらなんでも不自然だ。
「……すみません。ちょっと電話に出ますね」
ソファから立ち上がり、震える指で通話ボタンを押す。
「……はい。もしもし」
聞えたてきたのは低く、ひび割れた声だった。
『玲於奈! やっと出やがった!』
忘れもしない。その声は、僕を捨てて姿を消した父のものだった。
「お父さん……?」
電話の向こうで女の騒ぐ声も聞こえる。そちらは母だろう。
『何度も電話したんだぞ、テメエ。親に連絡もよこさないで、勝手に行方をくらましやがって。薄情なガキだな、おい!』
怒鳴り散らすような声。
「……ぁ」
声が出ない。酸素が上手く肺に届かない。
家事のスペシャリストとして、どんなトラブルにも冷静に対処してきた自負が、その声を聞いただけで一瞬で崩壊していく。
『お前、随分と良いとこに囲われてるらしいじゃねえか。ちょっと金が要るんだよ。少しくらい都合できるよな』
「な、何を言って……」
『育ててやった恩を返せって言ってんだよ! それくらい分かるだろうが!』
電話越しの罵声。
「ひっ……」
喉の奥から、情けない引きつった呼吸が漏れる。視界がぐにゃりと歪み、激しい目眩が僕を襲った。全身がガタガタと震え出し、手に持っていたスマートフォンが指先から滑り落ちそうになる。
呼吸の仕方が分からない。一歩も動けない。せっかく手に入れたこの温かい居場所が、一瞬にして泥の底へ引きずり戻されていくような、底なしの絶望感が全身を支配した。
「――玲於奈!」
鋭い声が、僕の意識を強制的に現実へと繋ぎ止めた。
気づけば、僕の傍には美鈴が立っていた。彼女は、突然土気色に青ざめて震え出した僕の異変を、一瞬にして察知していた。
僕を後ろから抱きしめると、落としかけていた僕のスマートフォンを奪い取る。そして、もう片方の小さな手で、僕のシャツの胸元を――逃げ出そうとする僕の心を現実につなぎ止めるように、ぎゅっと強く、壊れんばかりの力で握りしめた。
「美鈴……さん……」
「しっかりしなさい、玲於奈。君の心拍数と血圧の急激な乱れは、明らかに外部からの悪質なストレス因子の侵入を示しているわ」
美鈴はスマートフォンの通話を一方的に切ると、画面に表示された非通知の着信履歴を、冷徹に一瞥した。彼女の宝石のような瞳に宿っていたのは、世界を揺るがす天才科学者としての、冷酷かつ絶対的な決意の光だ。
「……さっき電話口で『お父さん』と言っていたわよね。電話の相手はあなたの父親?」
「何でもないんです……。本当に何でもないですから……」
彼女の問いかけに、僕はただ弱々しく首を振ることしかできない。美鈴は僕の胸元を握る手にさらに力を込め、怯える僕をまっすぐに見上げて、力強く、激しく、世界を肯定するように誓った。
「安心しなさい、玲於奈。君の人生における最適解は私よ。私の演算に、君を過去の檻へとロールバックさせる選択肢など一ミクロンも存在しないわ」
彼女の細い指先から、確かに伝わってくる絶対の熱。
「私たちの幸福なシステムを邪魔するバグが現れたというのなら……私の全てを――天ノ川美鈴の全知全能を賭けて、完全に駆除してあげるわ」
それは、自分の最も大切な領域を荒らされ、最重要の資産を傷つけられたことに対する、本気の激怒だ。だが、今の僕はまだ、迫り来る冷酷な過去の足音にただ怯え続けることしかできなかった。




