第52話:初めてのキスと失いたくない幸せ
文化祭最終日を終え、僕たちはタワーマンションの最上階へと帰宅した。リビングの大きなガラス戸を開け放つと、遮るもののない心地よい夜風が、カーテンを大きく揺らして室内に滑り込んでくる。
「……ここがいいわ、高丘くん」
美鈴に手首を引かれるまま、僕たちは広々としたベランダへと足を踏み入れた。眼下に広がるのは、無数の光が天の川のようにきらめく夜景だ。地上数十階の高さに吹く風が、美鈴の艶やかな銀髪をさらさらと弄ぶ。
「ベランダだとちょっと肌寒くないですか?」
「問題ないわ。不足している熱量は……今から君で補填するのだから」
美鈴は振り返ると、夜景の光を背負いながら、躊躇なく僕の胸へと飛び込んできた。
すう、と美鈴の華奢な身体が僕の腕の中に収まる。
彼女は僕のシャツを両手でぎゅっと掴むと、いつもより深く、まるで僕の心音に耳を澄ませるように胸元へ顔を埋めてきた。いつもならツンと澄ましている彼女が、今は驚くほど小さく、愛おしい存在として僕の腕の中にいる。
背中に回した僕の手のひらから、美鈴の小さな体温がじんわりと伝わってくる。夜風の冷たさとは対照的な、胸が痛くなるほどの熱だ。
「天ノ川さん……」
「……静かに。私の脳内演算を邪魔しないで」
美鈴は僕の胸に顔を埋めたまま、こもった声でぽつりぽつりと紡ぎ始めた。その声は、夜風に溶けてしまいそうなほど甘く、どこか切ない響きを帯びていた。
「この世界は、不確定要素に満ち溢れているわ。学校の人間関係も、突発的なアクシデントも、どれだけ計算しても割り切れないノイズばかり。……でもね、高丘くん」
美鈴は、僕のシャツを掴む手に一段と力を込めた。
「君との共同生活だけは、私の人生において最もエラーの少ない、美しい数式だわ。君が隣にいるだけで、私の全てのカオスが完璧に秩序化されるのよ。……だから、これは命令よ。これからも、ずっと私の隣で私を最適化し続けなさい。私の世界のバランスを、生涯にわたって維持する義務が君にはあるわ」
それは、天才科学者である彼女が、自らの全ての言葉を尽くして紡いだ、事実上の未来のプロポーズだった。
科学的な言い回しでカムフラージュしてはいるけれど、その根底にあるのは「ずっと一緒にいたい」という、剥き出しの、濁りのない好意だ。
僕の胸の奥が、熱い何かで満たされていく。この眩しい夜景も、触れ合う体温も、彼女の不器用で愛おしい言葉も、全てが奇跡のように思えた。この穏やかで満ち足りた時間が、永遠に続いてくれればいいのに。心の底からそう願わずにはいられない。
「……ああ。分かったよ、美鈴さん」
初めて、その名前を口にした。敬語も自然と使わなくなっていた。
僕は美鈴の小さな背中に優しく、でも離さないように両手を回し、強く抱きしめ返した。
「ずっと傍にいるよ。美鈴さんが望むなら、何年でも、何十年でも、僕があなたの隣であなたの人生を最適化する」
「――っ」
美鈴は小さく息を呑み、それからさらに深く、僕の胸に顔を押し付けてきた。赤くなった耳を夜風に晒しながら、彼女は満足そうに、小さく身体を委ねてくる。
お互いの境界線が完全に消え去ったかのような、圧倒的な静寂と幸福。僕たちは夜空の星々に祝福されるように、いつまでもその温もりを確かめ合っていた。
抱擁の最中、美鈴がゆっくりと顔を上げる。夜景の光を受けて潤んだ瞳が僕を見据える。普段の冷静沈着な表情は微塵もなく、そこにあったのは純粋な求愛本能を宿した一人の少女の眼差しだった。
「……君の意志を確認したいわ」
震える指先が僕の唇の縁をなぞる。その動作は極めて正確で精密、まさに科学者のそれだ。だが触れた瞬間、指先がわずかに震えているのが見て取れた。
「現状における私たちの物理的距離は6センチメートル弱。これ以上接近すると予測不能な反応が生じる可能性があるわ」
彼女は科学的に分析するふりをしながらも、自身の鼓動が早鐘のように打っていることを隠しきれていなかった。吐息が熱く僕の鼻先を撫でる。
「君の選択肢を提示するわ。この距離を保つか、あるいは……」
言葉が一瞬途切れた。理屈で武装しようとする理性が、生物としての原始衝動に圧倒された瞬間だった。銀色の睫毛が揺れ、紅潮した頬が夜の闇でも鮮やかに映える。
「……キス、する?」
僕は答える代わりに、一歩前に踏み出した。美鈴の肩がピクリと跳ね上がるが抵抗はない。6センチという距離はもはや意味を持たず、互いの吐息が混ざり合う領域まで侵食した。
「ここからは……データには存在しない未知の領域ね……」
最後の抵抗のように呟いた彼女の言葉は、次の瞬間に途切れた。僕の唇が彼女のそれを捕らえた瞬間だった。
想像以上に柔らかい感触。滑らかでありながら弾力を持った質感が、脳髄を直撃する麻薬のような刺激を与える。彼女の唇は薄く整った形を保ちつつ、重なる瞬間には僕を受け入れるように緩やかに開いていった。
「ん……っ」
美鈴の喉から漏れた微かな声は、計算されたものではない本物の喘ぎだ。初めて聞くその音色が僕の興奮を一層煽った。銀色の髪が月光を反射しながら僕の頬をかすめる。
接吻は最初こそ接触点だけの軽いものだった。しかし触れ合った瞬間、互いの欲求が堰を切ったように溢れ出す。角度を変えながら唇を食み合い、時折舌先が見え隠れするほどの深さへと進行した。
「……これが……キスなのね」
まだ理性的な部分を残しているのか、美鈴が口付けの合間に途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「心拍数が上昇して……さらに血中アドレナリン濃度が……」
だが、彼女のその解析作業さえも次第に乱れていく。
「……好き……玲於奈、好き……」
唇が離れた隙間から漏れる吐息は激しくなり、彼女の小さな舌が僕の下唇を舐めるように這う。その瞬間、僕の理性が音を立てて崩れた。
「……美鈴さん。今までずっと我慢してきたからちょっとヤバいかもです」
「もう我慢なんてしなくていいから。……私を、君の好きにして」
短く放たれた言葉と共に再び唇を重ねようとした、その時だった。 静寂を切り裂くように、マンションのインターホンが鳴った。
美鈴の指が躊躇いがちにゆっくりと動き、タブレット端末に玄関カメラの映像を表示させる。そこには、荷物を抱えた配達員の姿が映っていた。
僕は小さく溜息を吐く。
「……宅配便みたいですね。受け取ってきます」
せっかくの甘い雰囲気に水を差されたような気持ちで玄関へと向かう。荷物はどうやら美鈴宛てのようだった。手早く受け取った僕はリビングに戻る。
「ネット通販だ。何か頼んだんですか?」
「開けてもいいわ。今後の私たちの生活に必要不可欠なものよ」
「何だろう。またお揃いの家具とか……?」
僕は不思議に思いながら段ボール箱を開ける。その中に入っていたのは個包装された大量のゴム製品――俗に言うコンドームだった。
コンビニでバイトしていた時に棚に陳列したことはあるが、こんなに大量の数を目にしたのは初めてだ。業務用だろうか。すごいなぁ――などと思わず現実逃避をしてしまう。
遅れて思考が追いついてくると僕はそれを手にしたまま膝から崩れ落ちた。
「何を……何を買ってるんですか……!?」
動揺を隠せない僕をよそに美鈴は以前として涼しい顔だ。
「必要になってくるでしょう。私たち、正式にカップルになったんだから」
「だからって思い切りがよすぎるんですよ! なんでそう、無駄に行動力があるんですか……!」
「玲於奈。もしかして君――」
何やら考え込んでいた美鈴はとんでもない事実にでも気づいたような顔で後退った。
「――避妊具を使わないつもりなの? それは、さすがに私もどうかと思うわ」
僕は項垂れて顔を覆うしかない。
「濡れ衣でドン引きするのやめてもらえます!? もう嫌だ、この人……!!」
マンションのリビングに僕の絶叫が響き渡った、その時だった。不意に玄関のドアが開き、秘書の春崎が入ってくる。
「突然すみません、先生。ご報告したいことが――」
いつも通りの綺麗に整ったスーツ姿だ。落ち着き払った様子でリビングに踏み込んでくる敏腕秘書。だが、眼鏡の奥の視線が僕の手元のコンドームに気づいた瞬間、彼女はその場で硬直した。
常に冷静だった春崎の手が小刻みに震え出す。
「……そうか。残念だよ、高丘くん。君のことは信頼していたんだが」
リビングの中央を猛然と突き進んでくる春崎。冷徹な殺意を向けられているのがハッキリと分かった。
「ま、待って! 待って! 違うんです、春崎さん!」
春崎は僕の制止も聞かず、胸ぐらを掴んできた。視界が反転する。背中に鈍痛が走った。上手く呼吸することができず激しく咳き込む。
いつの間にか僕はリビングの床に転がっていた。あっという間に彼女に投げ飛ばされたのだ。
血走った目をした春崎はそんな僕を見下ろし、拳を振りかぶる。
「やめて、春崎!」
春崎の足元に美鈴がすがりついた。
「双方の合意の上なの!」
「そ、双方の合意の上!?」
「そうよ! だから彼に乱暴しないでちょうだい!」
振り抜かれる寸前、僕の顔のすぐ目の前で春崎の拳は静止した。
「……く、詳しく説明してください。今、私は冷静さを欠こうとしています」
既に冷静さを欠いているだろう、などとは到底ツッコめない空気だった。
***
タワーマンションのリビング。僕と美鈴は、春崎に向き合って正座をしていた。
僕たちは懸命に説明をした。お互いに相手への好意を抱いていること、自分たちの気持ちを打ち明けて正式にお付き合いを始めたこと、僕たちが深く愛し合っていること。
初めは渋い顔をしていた春崎だったが、最終的にはなんとか納得してくれたようだった。
「……高丘くんを連れてきた私にも責任はありますからね。お二人が話し合って決めたことであれば私はもう何も言いません」
春崎が眉間を押さえて大きな溜息を吐く。
「ただし、お二人とも成人するまでは節度を持ったお付き合いをしてくださいね」
「……分かりました」
「分かったわ」
僕たちは並んで頭を下げる。隣で正座する美鈴が弱々しい声で言った。
「……春崎。あなたにお願いがあるの。今まであなたには自由にこの部屋に出入りする権限を与えていたわ。でも、今後は入室する前に必ずインターホンを鳴らして欲しいの……」
「お願いだなんて、そんなの止してください。業務命令で構いませんよ」
春崎は穏やかに微笑む。
「分かりました、先生。……なんだか思春期の娘を持ったような不思議な気分です」
美鈴は顔を上げると春崎をじっと見つめる。その瞳は微かに揺れていた。
「……春崎。今まで本当にありがとう」
「何ですか、急に今生の別れのような」
「あなたには今まで色々と迷惑をかけてきたから」
「苦労はしましたが、迷惑とは思っていませんよ。……先生、私が初めてお会いした時よりも随分と笑顔が増えましたね。良い傾向だと思います」
二人はそう言って笑い合う。見ていると僕まで胸が温かくなった。春崎は眼鏡の奥の瞳をわずかに潤ませる。
「高丘くん、これからも先生のことをよろしくお願いします。たまに監査には来ますので、あまり羽目を外しすぎないでくださいね」
その言葉に僕は深く頷いた。
春崎が去るとマンションのリビングにはまた静寂が戻ってくる。しかし、ベランダで美鈴と二人きりで過ごしていた時のあの濃密な空気は既にどこかに行ってしまっていた。
「なんだか変な感じになっちゃいましたね」
「そうね。……今日はもう寝ましょうか」
無性におかしくて僕も彼女も自然と笑みがこぼれる。
その夜、僕たちはこれ以上ないほど穏やかな気持ちで、同じ屋根の下、一つのベッドで深い眠りへとついたのだった。
真夜中、ベッド脇に置いたスマートフォンが不穏な『非通知』の表示とともに静かに震えていることにも僕は一切気がつかなかった。
第2章「甘すぎる日常と学校生活編」 完
第3章「過去との決別編」に続く




