第49話:天ノ川美鈴の証明④(美鈴視点)
タワーマンションに帰宅し、玲於奈が作った完璧な夕食を済ませた後のリビング。部屋を包む空気の組成は、昼間のショッピングモールや夕暮れの公園での出来事を経て、不可逆的な変質を遂げていた。
私はソファの端に座り、膝の上に抱えたお揃いのクッションに顎を乗せて、じっと正面を見つめていた。視線の先にあるテレビの電源は入っていない。暗転した画面に映る自分の、酷く締まりのないだらしない顔を、私はただぼんやりと眺めていた。
(私は、高丘くんに恋をしている。それは、もう間違いない)
その事実を、私の脳内CPUはついに100%完全に自覚していた。
認めざるを得なかった。科学的な大義名分という名の堅牢なファイアウォールは全て瓦解した。今や私の胸の中で暴れ狂うこの熱い感情を説明できるコードは、世間一般でいう『好意』――いや、『愛』以外に存在しない。
一人の男性を、どうしようもないほどに欲している。その自覚が、私の頬をずっと淡い桜色に染め上げ、体温を異常値のまま固定していた。
(……問題は、私に彼を愛する資格があるのかどうか)
数日前。彼が言った言葉を思い出す。私の証明を手伝いたい、どんなことで悩んでいるのか分かったら教えて欲しい、と。
彼のその言葉を、信じてみてもいいだろうか。
ふと時計を見る。夜の定時メンテナンス時刻である、22時。
いつもなら傲然と命令を下すはずのタイミングで、私の口から出たのは、蚊の鳴くような掠れた声だった。
「……高丘くん」
「どうしました、天ノ川さん」
「……定時メンテナンスの、時間よ」
私はソファからゆっくりと立ち上がると、玲於奈の前へと歩み寄った。
だが、駆動プロトコルがバグを起こしているせいで、歩調がいつになくぎこちない。白衣の裾をぎゅっと両手で握りしめ、俯いたまま、おでこまで真っ赤にして彼の前に立つ。
「いつもなら真っ直ぐに抱きついてくるのに珍しいですね。オキシトシンがどうのこうのとかも言わなくていいんですか?」
玲於奈が少しからかうように意地悪く微笑む。私は一瞬だけ彼を睨みつけたけれど、すぐに言葉を失ってさらに顔を真っ赤にし、消え入りそうな声で本音を溢した。
「……言えないわよ、そんな建前」
「え?」
「ねえ、高丘くん。どうしても答えが出せないの。……君は、私の証明を手伝ってくれるって言ったわよね」
「はい、言いました。天ノ川さんはどんなことで悩んでるんですか?」
彼は強く頷いて肯定してくれる。私は何も言わず、意を決して一歩、彼との距離をゼロにした。体と体が完全に密着した状態だ。スッ、と私の細い両腕を玲於奈の腰へと回す。
今までの、どこか事務的で強引だった資産保全のためのハグとは全く違う。壊れ物に触れるかのような、それでいて私の愛おしさを全て閉じ込めるような、優しくて甘い抱擁。
私は玲於奈の胸元にそっと顔を埋め、衣服の繊維越しに、ドクドクと跳ね上がる私の激しい心音を伝えるように、強く、強く密着した。
「私は、君のことが好き。……でも、もう一つの命題についてはいまだに解決していないの」
「もう一つの命題……?」
「……高丘くん、今は静かに抱きしめなさい。……私は、これから重大な話をするわ。そのためには、君の体温と、君の心拍データだけが、唯一の安定剤なのよ……」
耳元で囁く自分の声が、信じられないほど甘ったるくて、自分自身で脳がとろけそうになる。科学者としての武装を捨て去った私の恋心が、ダイレクトに玲於奈の胸へと伝わっていく。
すると、玲於奈が小さく息を呑んだ気配がした。直後、彼の大きな両手が私の華奢な背中に回され、今度は彼の方から、私を壊さないように強く、優しく抱きしめ返してくれた。
「っ……」
抱きしめられる圧迫感が、こんなにも心地良いなんて聞いていない。私は嬉しさに胸を熱くしながら、彼のシャツの生地をギュッと掴み返した。
静かなタワーマンションのリビング。お互いの心臓の音が重なり合い、驚くほど速いテンポで、綺麗にシンクロしていくのが分かる。
彼ならば、きっと大丈夫だ。私の苦悩にもきっと答えを与えてくれる。根拠もなくそう思えた。
「……高丘くん。まずは私が今までどんな人生を歩んできたか説明するわ。聞いてくれる?」
「分かりました。聞きます」
彼は小さく頷いた。私は彼の胸に顔を埋めたまま、ぽつり、ぽつりと話し始めた。
子供の頃の自分のこと。自身の研究とそれによって得た功績。周りからの反応。孤立。今はほとんど交流がない両親のこと。一人ぼっちで生きてきた人生。順を追って淡々と話した。
彼は相槌を打ちながら黙って話を聞いてくれた。たまに私が言葉に詰まると優しく背中をさすってくれる。
話を終えると小さく息をついてから彼を見上げた。
「……ここまでが前提条件よ。話を聞いて分かったと思うけれど、私は今までの人生で誰かを愛したことも、誰かに愛されたこともない。周りの人間にも、実の両親にすらも」
躊躇いがちに彼を見つめる。
「そんな私に誰かを……君を愛する資格があると思う? 一人でどれだけ悩んでもこの問いの答えが出なかったの。君の考えを聞かせてちょうだい」
彼は真剣な顔をしたまま私の髪を撫でた。少しくすぐったいが、心地よい。
「……天ノ川さん。僕には、天ノ川さんの気持ちが痛いほどよく分かります。僕も、親からの愛を知らないで生きてきたから」
彼は、真っ直ぐに私の瞳を見つめ返してくる。
「結論から言いますね。天ノ川さんはもう愛を知っていると思いますよ。あなたは人を愛せます」
「え……?」
予想外の言葉に思わず呆けたような声が出る。
「少し前までの僕は、自分の居場所もないのに、他人のことも信用していなくて、相手からの好意を素直に受け取ることもできないような空っぽな人間でした。そんな僕を天ノ川さんが変えてくれたんです」
「……私が?」
「ここで暮らすようになってから一週間くらい経った頃、なんとなく昔を思い出して暗い気持ちになっていた僕に天ノ川さんは言ってくれたんですよ。僕のことを重宝してる、僕のことが大切だって」
話しながら彼の瞳が段々と潤んでいく。
「それから初めてのお給料日。自分はここにいていいのかって悩んでいた僕に、天ノ川さんは僕のことが必要だって。僕が望むなら好きなだけここにいていいって言ってくれました」
一つ一つの出来事をゆっくりと思い返すように彼は言葉を紡ぐ。
「他にもたくさん。抱きしめてくれたり、雨の日に迎えに来て濡れた髪を拭いてくれたり、僕のためにクラスメイトに腹を立ててくれたり。それから、僕の作るご飯を美味しいって言ってくれたり。天ノ川さんは僕にたくさんの愛をくれました」
「そんな……私はただ、自分がしたいからしただけで……」
「たぶんそれが愛なんですよ。他の誰かのために何かをしたいと思う気持ちが愛なんです。そうやって天ノ川さんがたくさんの愛をくれたおかげで……。他人を信用せずに生きてきた僕は、人を好きになるという気持ちを知りました」
彼は小さく息を吸うと真っ直ぐに私を見据えて言った。
「天ノ川さん。大好きです。僕は、あなたを愛しています」
驚きで思わず瞳を見開いてしまう。
「……貧乏でお腹を空かせた頭の悪い子供だった僕が、一人の人をこんなにも愛せるようになりました。全てあなたのおかげです。この僕という存在そのものが、天ノ川美鈴の研究成果ですよ。……これじゃあ、証明にはなりませんか?」
彼の言葉が私の胸を打った。何も言語を出力することができない。気がつくと私は静かに涙を流していた。雫が頬を伝っていく。
「……そっか」
声が震える。
「私は自分のことを、他者を愛する機能が欠落したエラー個体なのだと思っていたわ。……でも、そんな私にも誰かを愛することができるのね」
自然と笑みがこぼれた。
「高丘くん。私、君のことが好き。これからもずっと君のことを愛しているわ」
私は彼の胸に顔を埋めると、くすりと小さく微笑んだ。
「Quod Erat Demonstrandum」
「……え。今、なんて言ったんですか? 英語?」
「ラテン語よ」
「……どういう意味です?」
「証明終わり、って意味」
私は、悪戯っぽく笑うと少し背伸びをし、彼の頬にキスをした。彼の驚く顔を見ると胸の内から幸せがこみ上げてきた。
ここに、私の人生において最も困難な証明は終了した。
これが『恋』という名の、システムアップデートの完成形だ。もう二度と、ロールバックさせるつもりもない。科学的な語句による言い訳も理論武装もいくらでも頭に浮かんだが、口にする気は起きなかった。今はただ私の胸にあるこの100%の純愛を味わっていたかった。
部屋を優しく照らす間接照明の下で、私たちはどちらからともなく、この心地よい温もりを確かめ合うように、いつまでも、いつまでも抱き合い続けたのだった。




