第48話:天ノ川美鈴の証明③(美鈴視点)
両手に文化祭の買い出し用具が詰まった大きな袋を抱え、玲於奈が私の隣を歩いている。あたり一面を包み込むオレンジ色の夕日が、私たちの影を地面に長く引き延ばしていた。
カフェを出てからというもの、私の意識の99.9%は、目の前の歩行ルートではなく、脳内で発生している未曾有の熱暴走に占有されていた。いつもなら「歩行速度が予定より3%遅延しているわ」などと容赦なく指摘するはずなのに、今の私は四肢の駆動プロトコルをただ淡々と繰り返すことしかできない。
それほどまでに、カフェで不時着したあの仮説は、私の精神世界を震撼させていた。
(私は、高丘くんを……こんなにも一人の『男性』として認識している……)
一歩一歩とタワーマンションに近づくたびに、脳内の演算回路は、その仮説を否定できない事実として冷酷に補強していく。
私の世界から数式が全て消え去るよりも、玲於奈という存在が消えることの方が圧倒的に恐ろしい。学校で他個体の女子が彼に触れようとするだけで、胸の奥のコアが引き裂かれそうになる。
どれだけ科学の専門用語で装飾しようとも、どれだけ論理の鎧で防衛しようとも――これは、世間一般でいう『恋』そのものではないか。
世界最高峰の天才科学者としてのプライドが、その非論理的な事実を認めることに激しい恐怖を発している。しかし、それと同時に、胸の奥からドクドクと湧き上がる、今までに味わったことのないほど甘く熱い高揚感に、私の全システムが激しく揺さぶられていた。
「……高丘くん」
タワーマンションの手前にある、夕暮れの無人の公園に差し掛かった瞬間。私の唇は、自分の意志を無視して、消え入りそうな声で彼の名前を口にしていた。
「どうしました、天ノ川さん。荷物、重いですか?」
玲於奈が立ち止まり、振り返る。夕日に照らされた彼の瞳と視線が真っ正面から交差した瞬間、私の顔面細胞の温度は一気に限界値を突破した。おそらく今、私の顔は真っ赤に染まっているはずだ。
「……私の、心拍数と、末梢血管の血流量を測定しなさい」
「へ? 心拍数と……何ですか?」
「いわゆる検脈よ。……現在の私の生体データは、異常極まりないわ。自律神経系の制御が完全に麻痺している。どの医学論文の定義にも、どの生物学的モデルにも当てはまらない、完全に未知のフェーズに突入しているのよ。だから……ライフマネージャーとして、速やかに検脈を要求するわ」
私は小さく震える右手を、スッと彼の前に差し出した。自分でも何を言っているのか分からない。ただのめちゃくちゃな屁理屈だ。
けれど、私の網膜に映る玲於奈の瞳はあまりにも優しかった。私自身がどうしようもないほど必死な様子だったからというのもあるだろう。彼は荷物を片手に持ち替え、私の細い手首に触れてくれた。
「よく分かりませんけど、脈を測ればいいんですね?」
玲於奈の指先は、少しだけ冷たい。でも、そこから伝わる私の奥の拍動は――。
彼の指先が、私の手首の皮膚に接触した、その刹那だった。私自身ですら恐怖を覚えるほどの速度で、脈拍が、まるで壊れたメトロノームのようにドクドクドクドクと超高速で跳ね上がった。
「天ノ川さん、すごい速さですよ!? やっぱりどこか体調が――」
「体調は、万全よ……っ」
手首を彼の大きな手にホールドされたまま、私の顔面はさらに赤く沸騰し、視線を斜め下へと強制スクロールさせることしかできなくなる。
夕暮れの不気味なほどの静寂の中、衣服の繊維を震わせて、私の激しい鼓動が玲於奈の耳にまで伝わっているのではないかと、そればかりが恐ろしかった。
「これで一つ目の命題については証明された、と思う。……君という存在が私の視界に入り、君の指先が私の皮膚に接触するだけで、私の全身の全リソースが、強制的に君だけに一極集中されるのよ」
私は、ゆっくりと顔を上げた。
夕日に照らされた私の視界が、微かに潤んで歪む。それでも、私の目は真っ直ぐに玲於奈の瞳を射抜いていた。
今まで私を都合よく守ってくれていた「オキシトシン」だの「一時的なエラー」だのという建前の防壁が、熱い吐息とともに、私の唇から音を立てて崩壊していく。もう、ロジックで武装する意味などない。
「これは……オキシトシンの分泌でも、一時的な脳内エラーでもないわ。……私は、ただ君に――」
科学の壁を完全に突き破り、私の口から本物の『恋』の定義が出力されようとした、まさにその刹那だった。
不意に思い起こされたのは私自身の幼少期の記憶。
――幼い頃から、私は。
私は、他の子供とは違うと言われてきた。天才だとか、神童だとか。
自分では、できることをできるようにやっているだけだった。重力が働いている限りリンゴは木から落ちるものだし、孤立した系においてエントロピーは増大するものだ。それと同じくらい私には当たり前のことだった。
だが、周りの人間にとってはそうではなかったらしい。私が何かするたびに周りの人間たちは狂ったように褒め称えるか、恐れ忌み嫌うかのどちらかだった。
家にいる時でも私はいつも一人だった。広い部屋にたった一人。両親は研究機関や企業に私を売り込むのに忙しかったようで家にいることは少なかった。
幼い私には、玩具の代わりに最先端の研究器具とパソコンが与えられた。
研究するのは好きだったから苦にはならなかった。
私は六歳で高等教育を全て学び終え、それから瞬く間に成果を上げた。
ほんの数年だった。私の書き上げた子供の落書きは画期的な理論と称賛され、いくつもの特許、数百億円の資産、そして世界最高峰の科学者としての地位を生み出した。
だが、私がどれだけのものを築き上げても両親は決して私のそばには寄り付かなかった。
それどころか日頃のハードワークが祟って倒れ、長期の入院をすることになった時、彼らは後見人を立てて私のもとを去った。私の相手をするのが面倒になったのか、相互理解のできない化け物と縁を切る良い機会だと思ったのか。それは定かではない。
後見人になった春崎という女はよく働いてくれたし、資金だけは潤沢にあったから何も困ることはなかった。私は、ますます研究にのめり込むようになった。
研究をするのは好きだ。苦にはならない。苦にはならなかったけれど――。
たまに思うことがある。私の十六年の人生は何のために存在したのだろう。
私は、いったい何が欲しくてこんなことをしてきたのだろう。
誰かに愛されたことも、誰かを愛したこともない私に、人を好きになる資格などあるのだろうか。
目の前には、穏やかに微笑む玲於奈の顔がある。
私は、彼のことが好きだ。それは、もう間違いない。
だが、もう一つの命題は、どうすれば証明できるのだろう。私のような人間が、本当に彼を好きになってもいいのだろうか。その答えが、どうしても出せない。
「天ノ川さん……?」
玲於奈が不思議そうに私を見つめる。彼を恋しく思う私の気持ちは、喉の奥で固まったまま、とうとう言葉になることはなかった。
「……帰りましょうか、高丘くん」
本心を包み隠し、当たり障りのないことを言う。そのまま彼の手をゆっくりと握った。伝わってくる手の温もりが今はただもどかしい。
私たちは、それ以上言葉を交わすこともなく家路に着いた。




