第47話:天ノ川美鈴の証明②(美鈴視点)
大混雑のイベント広場。押し寄せる人間の波はさらに激しさを増し、私と玲於奈の物理的距離を容赦なく引き離そうとしてくる。
思考が完全にロックされ、空中で無様に震え続ける私の右手。
そんな私のみっともない挙動に気づいたのだろう。玲於奈は困ったように苦笑すると、今度は彼の方から、スッと大きな左手を差し出してきた。
「ほら、天ノ川さん。本当にはぐれますよ。掴まっていてください」
それは、かつて私がタワーマンションや学校の廊下で彼に対して行っていた動作と、全く同じ。あまりにも自然で、あまりにも無防備な救いの手だった。
「っ……」
目の前に提示された、玲於奈の手のひら。
その皮膚の質感や、私より一回り大きな骨格が網膜を通じて脳に伝わった瞬間、私の脳内CPUは完全に限界突破のショートを起こした。
今までの私なら、ノータイムで屁理屈の弾幕を放っていたはずだ。オキシトシン分泌によるストレス軽減のための肉体ホールドだとか、重要資産の物理的確保だとか。いくらでも科学的な大義名分を捏ね上げて、彼のその手を力強く掴んでいただろう。
なのに。今の私の脳内データベースには、言い訳に使える数式や論文のデータが、何一つとして浮かんでこない。
代わりに、処理領域の全てを埋め尽くすのは、ただ一つの恐ろしい仮説。
(私は……科学的な根拠なんてどうでもよくて、ただ、玲於奈の手に触れたいだけ……?)
自らの内側に芽生えかけた、あまりにも純粋で生々しい私の下心。
それが、演算回路を完全にフリーズさせていた。科学的根拠という最強の防壁を失った私は、もはや完全に剥き出しの、脆弱な個体――ただの女に過ぎなかった。
「天ノ川さん……?」
「あ、う、うう……」
玲於奈が怪訝そうに私の顔を覗き込む。私は顔面を限界まで赤く染めながら、もじもじと指先を震わせることしかできない。
手を繋ぐ。生物学的にはただの皮膚の接触行動。それだけの行為が、急に世界で一番難解な超ひも理論の数式のように思えて、どうしても玲於奈の手のひらを正面から握ることができなかった。
激しい葛藤と処理遅延の末、私の右手がようやく選択した妥協案は――。
ちょこん、と。
彼の手ではなく、玲於奈の制服のジャケットの『袖口』の生地を、まるで触れたら壊れる精密機器でも扱うかのように、二本の指先で小さく摘むことだけだった。
「……これで、位置情報の同期は十分よ」
私は蚊の鳴くような声でそれだけ言い放つと、ふいとそっぽを向いた。隠しきれない熱量が耳の付け根まで伝わり、苺のように真っ赤になっているのが自分でも分かる。
玲於奈が少し驚いたように息を呑んだ気配がして、なぜか私の心臓が切なく締め付けられた。
「それじゃあ行きますか」
彼はそれ以上あれこれ言うこともなく、私の不格好な歩調に合わせて、ゆっくりと歩き出してくれた。
なんとか予定していた文化祭の物品購入タスクをコンプリートし、私たちはショッピングモール内にある少し落ち着いた雰囲気のカフェへと避難した。
冷たいドリンクが喉を通り、オーバーヒートしかけた食道がようやく冷却されていく。
ふと、ストローを咥えたまま周囲を見渡すと、店内は休日前の夕方を楽しむ『他個体』たちで溢れ返っていた。一つのケーキを二人で突っついて無意味に笑い合ったり、お揃いのキーホルダーを眺めて顔を近づけ合ったりしている。
私はそれらの限定的交流行動を観察する。彼と出会った頃の私であれば『他個体』の行動を冷たく批難していただろう。
『不条理ね。他個体たちのあの「デート」と呼称される行動は、著しく時間対効果が低いわ。一つの糖質を分割摂取する栄養学的メリットもなければ、公共の場で相互のパーソナルスペースを無意味に融解させるなど、非効率の極みだわ。全く、理解に苦しむ――』
――そう、そんな風に。
だが、今の私はどうだろう。脳内で軽くシミュレートをしてみる。
もしも、今の私と玲於奈が、あの隣の席のカップルのようになれたとしたら。「生存維持の業務委託契約」なんていう簡素な建前などではなく、お揃いのマグカップを使うのにも「同一規格による動線の対称性」なんて言い訳が要らなくて、手を繋ぐのにも脳内ショートを起こさなくて済むような、そんな関係になれたとしたら――。
ああ――それは、なんて幸福で素敵なことなのだろう。
その時だ。隣の席のカップルが人目もはばからず顔を近づけてキスをした。以前であればそのような行為には強い嫌悪感を示していただろうが――。
私の脳内でシミュレートされたのは、彼らのように自分が玲於奈と唇を重ねる情景だった。ふわりと、熱い唇の錯覚に囚われる。
「っ!?!?!?!?」
私の身体が激しく跳ね上がり、椅子とテーブルがけたたましい音を立てた。反動で手元のグラスが倒れかかり、玲於奈が咄嗟にそれをキャッチした。
「天ノ川さん!? どうしたんですか、急に……!」
「な、何でもないわよ。 何でもないわ」
私は反射的に両手で自分の顔を覆い隠した。しかし、指の隙間から覗く肌は、間違いなく爆発寸前の火山のように真っ赤に沸騰していた。ドクドクと、カフェの小洒落たBGMを完全に掻き消すほどの爆音で、心臓が警報を鳴らし続けている。
『恋人』。
そのあまりにも生々しく、あまりにも甘美な概念が、私の脳内メモリに初めて、明確な未解決コードとして定義されてしまったのだ。
(脳内メモリに、深刻かつ不可逆なシステムバグが……。 これじゃ、私はただの……ただの、どこにでもいる普通の女子高生じゃない……)
私の世界最高峰の天才科学者としてのプライドが、一人の男子高校生に対する制御不能な『恋心』によって、音を立てて完全にメルトダウンを起こそうとしていた。




