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第46話:天ノ川美鈴の証明①(美鈴視点)

 定期テストが終わり、文化祭の時期がやってきた。放課後の校内はどこもかしこも、間近に迫った文化祭の準備で浮き足立っている。


 私は隣のクラスの廊下で腕を組み、視線を教室の中へと向けていた。


 周囲の有象無象が「氷姫アイスドールが睨んでる」だのなんだのと怯えているようだが、私の網膜が捉えているのは、学級委員のなにがしと話している玲於奈の姿だけだ。


 私たちはお互いのクラスの代表としてこれから文化祭の買い出しに行くことになっている。こんな時、今までならば「早くその会話を終わらせなさい」とでも冷たく言い放っていたことだろう。だが、それよりも先に玲於奈がクラスメイトとの会話を手早く打ち切り、私の方に駆け寄ってきた。


 あの夜、彼の提案に基づいて、私たちは業務委託契約書に期限付きの新規規約を追加した。


 ――校内における玲於奈のパーソナルスペース、すなわち半径二メートル以内における空間占有権は、私が最優先かつ常時保持するものとする。私の許可なく他個体をその領域内に侵入させることも、彼から連絡先を配ることも一切禁止する。今後、私と彼が正式に交際を開始した場合、この規約はその効力を失う。


 彼から言い出したこととはいえとんでもない内容だ。本当にそんな風に他人を束縛していいのだろうかと葛藤もしたが、彼はそんな私が作り直した契約書に迷いなくサインした。


 それ以来、彼は本当にその内容を忠実に守ってくれている。


 休み時間になるたびに私のクラスまで会いに来てくれるし、登下校も一緒にするようになった。他の生徒と話す時間も必要最低限にし、特に女子生徒とは決して二人きりにならないようにしているようだった。


 学校にいる間、彼は細かく気をつかってくれている。私が不安を感じないように。私となるべく一緒にいられるように。


 今回の「文化祭物品調達におけるロジスティクス効率化」という名目のクラス合同買い出し案も、文化祭の期間中に少しでも二人で過ごせるようにと彼が気を回して実行委員会と交渉してくれたものだ。


 初めてその話を聞いた時は思わず苦笑してしまった。クラス合同で買い出しをした方が効率的だなんて、まるで私のような屁理屈だ。さすがにそんな言い回しまで私に寄せる必要はないだろうと思う。


 だが、そんな彼のおかげで近頃の私は自分でも不思議なほど気持ちが落ち着いていた。余計なノイズもなく、ただ自分の研究に時間リソースを費やすことができる。その研究とは、ここ最近ずっと私が取り組んでいる最も証明困難な命題だ。


 ――私の玲於奈に対するこの気持ちはいったい何なのか。そして、私という欠落を抱えた人間は、本当に他者を愛することができるのか。


 私は、その答えにたどり着きつつあるという手応えを得てはいる。しかし、この研究には弊害もあった。必然的に彼のことばかり考えることになるから、彼のことを意識しすぎてしまうのだ。


 こちらに駆け寄ってきた玲於奈が私に微笑みかける。その笑顔に私の胸が弾んだ。


「お待たせしました、天ノ川さん。買い出し、行きましょうか」

「……遅いわ、高丘くん」


 本当はそんなことが言いたいわけではなかったのだが、照れ隠しのように素っ気ない口調になってしまった。最近は頻繁にこのようなエラーが起きる。彼と一緒にいると心拍数は高くなるし、思考と違う言葉が口をついて出る。


 彼は、そんな私を気にするでもなく横に立って歩き出す。


 私たちはこのまま制服姿で大型ショッピングモールへと向かうことになっていた。本来なら、こんな作業はいつもの買い出しとそう変わらない。彼と一緒に行う『ライフマネージャーの業務』の単なる延長線上。いつも通りのルーティン。


 それなのに――私の脳内CPUは、ショッピングモールへ向かう道中からずっと、原因不明の処理遅延を起こしていた。


 いや、原因の特定は、とっくに済んでいる。数日前、私が起こした人生最大のバグだ。


 玲於奈が他の誰かに取られるかもしれないと考えた時、私の世界から全ての数式が消え失せるような恐怖を覚えたこと。感情のままに彼をソファに押し倒し、あまつさえ彼に性行為を迫ったこと。今、思い返してもとんでもなく破廉恥な行いだったと思う。考えるだけで顔が熱くなりそうだ。


 さらには、情けなくも彼の前で涙を流し、その温かい手を引きちぎらんばかりに握りしめてしまったこと。あの時の、胸の奥が焼き切れるような熱さと、玲於奈の手の感触が、メモリーから一切消去できない。


「……高丘くん。何をぼうっとしているのよ。思考の処理能力が低下しているわ」


 ショッピングモールに入った瞬間、私は自分の動揺を隠すように、いつも通りタブレット端末を起動してツンと澄ました声を絞り出した。画面に表示されたフロアマップが、緊張で少しだけ震える。


「今回の物品購入タスクを最短時間でコンプリートするため、ショッピングモールのフロアマップから最も効率的な購買ルートを構築したわ。無駄な動線は一ミクロンも存在しないから、遅れずについてきなさい」

「わ、分かりました。頼りにしてますよ、天ノ川さん」


 玲於奈がいつものように、柔らかく、呆れたような、でも酷く優しい声で笑う。そして、そのまま私の顔を覗き込んできた。その瞬間、私の全システムが防衛本能的なエラー信号を検知し、身体が小さくビクッと跳ね上がった。


「な、何よ……っ」

「天ノ川さん、なんだか顔が赤くありません?」

「私自身には何の問題もないわ。ただ君が……君が、業務委託契約書の追加条項をあまりにも忠実に実行しようとするから。私の脳内ニューロンが……その、あの夜の、非論理的な生体データをフラッシュバックして……っ」


 ――そこまで一気に捲し立てて、私は猛烈な自爆に気づいて口をつぐんだ。


「……あ」


 これでは、あの夜のことを意識していますと自分で白状したようなものではないか。自分の発言による恥ずかしさの熱量が、一気に頬へと逆流していく。耳の付け根が熱い。沸騰しそうだ。


「とにかく、早く行くわよ。論理の接続が噛み合わなくなるから、私をあまり見つめないで」


 私は上手く回らない呂律を必死に誤魔化しながら、早足で歩き出した。


 おかしい。今までは科学的根拠という無敵の盾があった。どれだけ玲於奈に近づいても、抱きついたとしても、私は完璧なロジックで言い訳ができていたはずなのに。


 今は、彼と目が合うだけで脳内CPUがオーバーヒート寸前になる。私たちの距離感に、既存の数式では証明できない『何か』が混ざり合おうとしていた。



 ショッピングモールの中心部にある、巨大なイベント広場に差し掛かった時、玲於奈が呟いた。


「うわ、すごい人ですね……」


 休日前の放課後。広場は特設セールのせいで、立錐りっすいの余地もないほどの人混みと化していた。


 他校の生徒、家族連れ、そして楽しそうに腕を組むカップルたちの波。その無秩序な流動が、私と玲於奈の間に容赦なく割り込んでこようとする。


(……はぐれる。彼が、他個体の波に流されてしまう)


 焦燥感が脳裏をよぎった瞬間、私の右手は、思考よりも先にスッと動いていた。玲於奈の手を、捕まえなければ。今までの私なら、何のためらいもなかった。


 空間識失調の防止だとか、重要資産への物理的マーキングだとか、適当な科学的ワードをいくらでも並べ立てながら、彼の服の裾や手首を遠慮なく掴んでいたはずだ。それは私の、ライフマネージャーを管理するための『当然の権利』だった。


 しかし――。


「……っ」


 私の指先が、玲於奈の制服の袖に届く、ほんの数センチ手前。


 私の脳内を、突如として強烈な、未だかつて観測したことのない羞恥心の嵐が直撃した。


(違う。私は今、迷子になりたくないから手を伸ばしたんじゃない……)


 ただ、彼の手を、握りたい。


 自分の中に芽生えかけた、科学的な大義名分を一切伴わない、純粋で生々しい私の下心。それが、私の全思考回路を完全にロックした。


 言い訳の言葉が、何一つとして思い浮かばない。もし今、玲於奈に手を繋ぐ理由を聞かれたら、私はもう、「君が好きだから」以外の回答コードを出力できない。


 私の白く細い指先は、繋がれるはずだった彼の左手のすぐ手前で、まるで時間が止まったかのようにピタリと硬直したまま小さく震えていた。

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