第45話:真夜中のシステムアップデートと、偉大なる共同研究の始まり
タワーマンションの静謐な深夜。密着した僕と美鈴の間に、どくどくと不規則な鼓動が響き渡る。
胸板越しに感じる彼女の鼓動が異常に速い。白衣の下で押し潰されそうになる乳房の柔らかな圧迫が、僕の思考を麻痺させる。
「高丘くん。今から、君という存在を私で徹底的に上書きするわ」
美鈴の指が僕のTシャツの襟をそっと引っ張り上げ、鎖骨をなぞった。ひやりと冷たい指先が皮膚に食い込む。
「やめてくださいってば……くっ……!」
「黙りなさい」
低く唸るような美鈴の声に続いて――熱く湿ったものが首筋に触れた。彼女の舌だ。
「ひっ……!?」
予想外の感触に全身が硬直する。彼女の小さな舌がまるで蛇のように這い回る。襟足から首の付け根へ、鎖骨のくぼみへ。時折小さく吸われるようにして点々とした熱い感覚が刻まれていく。
「ねえ、高丘くん……どこにも行かないで……」
独りごとのように呟きながらもその舌は止まらず、さらに大胆になる。耳朶の裏側までねっとりと舐め上げられ、生温かく濡れた感触が襲う。思わず喉が引き攣った。
「天ノ川さん、これ以上はマズいですって……! 僕の理性がもちません!」
必死の抵抗としてそう告げると、美鈴は僕の首筋に顔を埋めたまま、さらに腕の力をギュッと強めて、どこか艶っぽい声で呟いた。
「……失くしちゃったらいいのに。理性なんて」
彼女が顔を上げる。目と鼻の先、触れ合いそうなほどの至近距離に、耳まで真っ赤に染まりきった美鈴の顔があった。彼女の熱い吐息が、僕の鎖骨のあたりに直接吹きかかる。
「……高丘くん。する?」
「するって、何を……」
「えっちなこと。……そうすれば君は、私だけのものになってくれるのよね」
その言葉に、頭を打ち付けられたような衝撃が襲う。
しばらくは何も言葉にすることができず、ただ悶えるしかなかった。
だが、やがて僕は震える手で彼女の体をそっと引き剝がすと、その瞳を真っ直ぐに見据えた。
「……やめましょう。天ノ川さんのことは大好きだし、いつか、その……そういうことをしたいって気持ちはあります。でも、そんな目的のためにするのは違うと思います。今は、やめておきましょう」
その言葉を聞いた美鈴は何度か瞬きする。
次の瞬間、彼女の綺麗な瞳の端から、大粒の涙がポロポロと、堰を切ったように溢れ出し、彼女の頬を伝って零れ落ちた。
「……天ノ川さん!? な、なんで泣くんですか!」
大粒の涙をぼろぼろと溢れさせる美鈴を見て、僕は熱っぽい頭のまま、完全に狼狽してしまった。
「ごめんなさい、天ノ川さんを傷つけてしまいましたか!? 僕の言い方が良くなかったですね!? 」
「……違うわ。悪いのは私よ」
美鈴は涙で濡れた睫毛を震わせ、小さな頭を横に振った。
「……私、もうどうしていいか分からないの」
美鈴は、手で顔を覆いながらぽろぽろと涙を流し続けた。
「……怖いのよ」
「天ノ川さん……?」
「怖いのよ、高丘くん……。君が他の女子と遊びに行くと聞いて、私の脳内CPUが恐怖の過負荷で、完全にハングアップしたわ。その子みたいにお菓子を作ってプレゼントしたり、休みの日に何の理屈も付けずに一緒に遊びに行ったり……。そんなこと私には到底できないから。どんな数式を並べても、どんな論理を組み立てても、君を私のものだけにする最適解が導き出せなくて……不安で、身体の震えが止まらなかったのよ」
頬を涙で汚しながら、美鈴はただ嗚咽を漏らしていた。
「私、嫌な女よね。君がもらったお菓子を取り上げたり、冷たく当たり散らしたりして……」
その口から溢れ出るのは、もはや科学的ワードで武装することすら諦めた、むき出しの少女の本音だった。
「月収五十万円の雇用契約? 生活基盤の最適化? そんなの、今の私にはどうでもいいわ……。もし君が他の誰かのものになって、私の前からいなくなってしまったら、私の世界はそこで完全に終わりよ。……君がいない世界なんて、この世の全ての数式や物理法則が消滅するより、何億倍も、何兆倍も恐ろしいわ……っ!」
目の前で、子供のように大声を上げて泣きじゃくる主人の姿に、僕の胸は激しく締め付けられた。
彼女にとって、僕の存在はとっくに有能なライフマネージャーという都合のいいリソースなどではなかったのだ。契約という名の建前を、彼女自身の純粋で、あまりにも巨大な感情が完全に凌駕していた。
「……天ノ川さん」
僕は熱っぽい左手をゆっくりと動かし、目の前で泣いている彼女の頭へとそっと置いた。少し寝癖のついた、いつも綺麗な銀髪を、優しく愛おしむように撫でる。
「僕が他の人のものになんてなるわけないじゃないですか。さっきは話が途中になっちゃってごめんなさい」
「……途中?」
僕は彼女を安心させるように穏やかに囁く。
「今日、クラスの女子に遊びに行かないかって誘われたんですけど、僕は断るつもりでいます。……さっきはそう言うつもりだったんですよ」
「……そう、だったの」
美鈴は僕の顔を見て数度瞬きする。
「私、そんな、とんでもない勘違いを……本当にごめんなさい……」
「勘違いさせるような言い方をした僕も悪いですから。僕の方こそごめんなさい」
罪悪感と羞恥心の入り混じったような顔をしていた彼女はやがて頬を小さく膨らませて言った。
「……高丘くん。撫でる手が止まっているわ」
どこか甘えるような声。僕は促されるまま彼女の髪を撫でる。
「……ん」
美鈴は、顔を耳の付け根まで真っ赤に染め上げながらも、拒むような真似は一切しなかった。それどころか、もっと撫でてほしいと言うように、僕の手のひらに小さく頭をこすりつけてくる。
「……高丘くん。私、天才科学者なんかじゃなくて普通の女の子だったらよかったわ。普通の家に生まれて、普通に学校に通って。そうすればもっと早く自分の気持ちを理解できて、君と一つになれていたんじゃないかしら」
「もしも天ノ川さんが天才科学者じゃなかったら僕と出会うこともなかったと思うし、たぶんこうして一緒にいることもなかったですよ。だから、僕は天ノ川さんが天ノ川さんでいてくれてよかったと思います」
そう言うと彼女は安堵したようにゆっくりと頷いた。今の僕たちは雇い主と家政夫という契約関係であり、そこから一歩踏み出すことができていない。彼女はきっと今のどっちつかずの状況が不安で堪らなかったのだろう。
そんな彼女のために、僕にもしてあげられることがあるはずだ。覚悟を決めた僕は、真剣な声で言った。
「……天ノ川さん。僕、ずっと考えていたことがあるんです。僕たちの業務委託契約書の内容を少し変更しませんか?」
「契約内容の変更……?」
彼女の表情に不安の影がよぎる。
「はい。今の業務委託契約書の『生活基盤の最適化』って内容は、あくまで私生活を前提としたものじゃないですか。でも、最近は学校で天ノ川さんと関わる機会も増えてきましたよね。だから、ここに『学校限定の新規規約』を追加しましょう」
「追加規約って……?」
彼女の声が微かに震えた。
「天ノ川さんみたいに難しい言い方はできないんですけど……。いいですか、言いますね」
僕は彼女を安心させるようになるべく明るく微笑んで言った。
「今後、僕は学校でもできるだけ天ノ川さんの傍にいるようにします。クラスの他のみんなとは必要最低限のやり取りだけにするし、女子には決して近づきません。それに天ノ川さんの許可なく連絡先の交換もしません。……これを業務委託契約書の内容に新しく盛り込みましょう」
ずっと考えていたことではあった。だが、実際に言葉にしてみるとなかなかに重い。それを聞いた途端、美鈴の瞳が驚きで見開かれた。
「そ、そんなことをしたら……君が、学校で孤立してしまうわ」
「問題ないですよ。世界最高峰の知性である天ノ川さんが僕の傍にいてくれるんですから。それでも天ノ川さんが気になるようなら、この追加規約は僕たちが正式にお付き合いを始めるまでの期間限定にしましょう」
美鈴は顔を耳まで真っ赤にして、潤んだ瞳でこちらに視線を向けてくる。
「……そんなの、本当にいいの?」
「何度も同じことを聞くなんて非効率的ですよ」
僕は冗談めかして言う。それを聞いた彼女は僕の体からゆっくりと手を離し、自分の胸元をそっと押さえた。
「……高丘くん。私、頑張るから。必ず自分のこの感情を証明して、君の彼女になる」
美鈴はふっと安堵したように、小さく、本当に小さく口角を緩めて微笑んだ。真っ赤な顔のまま、嬉しそうに視線を彷徨わせるその姿は、学校での『氷姫』のあだ名からは程遠い、ただの恋する少女の表情だった。
彼女の可憐な微笑みを見ながら、僕はぽつりと漏らした。
「天ノ川さん、そのことなんですけど」
「……どのこと?」
「天ノ川さんの証明のことです。僕、少し気になってはいたんですけど……」
僕は慎重に言葉を選びながら話し始める。
「僕も誰かとお付き合いをしたことはないんですけど。人と人が付き合うのってどちらか一人の意思で決めることじゃないと思うんですよ」
彼女は小さく頷く。
「だから、その。天ノ川さんの証明を、あなた一人に任せきりにしていたのは良くなかったんじゃないかなって思うんです。そのせいで天ノ川さんに負担をかけすぎていたんじゃないかなって。……これから僕に何か手伝えることはありませんか?」
美鈴は一瞬、ぱちくりと瞬きをしてフリーズした。
「……手伝える、こと?」
「はい。天ノ川さんの証明はどこで詰まってるんでしょうか。天ノ川さんの中で思考の整理が済んでからでいいんですけど、僕に教えてもらえませんか。何か手伝えることがあったら手伝わせて欲しいんです。どんなことでも遠慮なく言ってください。これからは――」
僕は手を伸ばし、彼女の細い手を優しく握る。指と指が絡み合い、いわゆる恋人繋ぎのような格好になる。
「――これからは、天ノ川さんの恋心を二人で一緒に証明していきませんか?」
彼女は、顔をほころばせると僕の手に自身のもう片方の手も添えて両手で握り締めた。そして、僕の肩に額を預けると、耳まで真っ赤にして震える声で囁いた。
「……高丘くん。君、自覚はあるのかしら。それ、すごいプロポーズよ」
「一度、天ノ川さんが寝ていると思って不意打ちで告白紛いのことをしてしまいましたからね。これくらいは……します。させてください……」
顔が火照るように熱い。美鈴はそんな僕を見て小さく微笑んだ。
「……答えはイエスよ。高丘くん。君を、私の途方もない研究の助手に任命するわ」
「身に余る光栄です、天ノ川博士」
そう言うと僕たちは一緒になって笑い合った。
やがて、極限の緊張による疲労が限界に達したのだろう。美鈴は僕の右手を両手でぎゅっと握りしめたまま、僕にその細い体を預ける形で、すうすうと小さな寝息を立て始めた。
僕もまた、彼女の温もりに包まれながら、深い、心地よい眠りへと落ちていった。
――翌朝。遮光カーテンの隙間から、眩しい朝の陽光がリビングに差し込む。
「……ん。非常に快適なレム睡眠だったわ」
ソファの上でパチリと目を覚ました美鈴は、これまでにないほど肌がツヤツヤで、完全にリフレッシュした表情を浮かべていた。脳内のバグは見事に一掃されたらしい。
「よく眠れたなら何よりです……」
一方、僕はその下で一晩中『人間抱き枕』として抱きかかえられ続けていた。美鈴の寝返りによって深夜に一度目を覚ますと、彼女の身体の柔らかな感触のせいでその後は全く眠ることができなかった。果たして今日一日このまま居眠りせずに過ごすことができるだろうか。
「高丘くん。今日の朝食はパンケーキがいいわ。サラダとスープも付けてちょうだい」
機嫌が良くなったご主人様は、白衣の裾をパタパタと揺らしながら、軽快な足取りで洗面所へと向かっていった。まあ、彼女の機嫌が直ったのなら、こんな寝不足くらいは安いものである。
そんな美鈴の背中を見つめながら僕は考えていた。
昨夜は本当にとんでもない告白をしてしまった。だが、自分で言ったことだ。その責任は果たさなければならない。今日、学校に行ったらまずは渡辺からの遊びの誘いを断る。そして、学校にいる間は美鈴が少しでも安心して過ごせるように振る舞っていこう。一緒に登下校するのもいいかもしれない――。




