第44話:天才科学者のフリーズと、解けない数式
クッキーを没収された後の我が家は、恐ろしく冷え切った空気に達していた。
美鈴は渡辺の手作りクッキーが入った袋を、まるで危険な放射性物質でも扱うかのように厳重にジップロックに封印すると、そのままリビングの大型冷蔵庫の最奥へと隔離した。もちろん僕に食べさせる気は一切ないらしい。
「あの、天ノ川さん。そんなに怒らないでくださいよ。話、聞いてくださ――」
「怒ってなどいないわ」
美鈴は感情の起伏が一切感じられない平坦な声で、しかしキーボードを親の仇かという強さで叩きつけながら言った。
「私はただ、重要資産である君の健康管理において、不確定要素を排除するという合理的なプロトコルを実行したに過ぎないわ。不機嫌に見えるなら、それは君のニューロンが錯覚を起こしているだけよ」
「天ノ川さん、聞いてくださいって。さっきの話なんですけど。渡辺さんから遊びに行かないかって誘われはしたんですが――」
「行けばいいでしょう。君が誰とどこに行こうが、私の研究には一切影響を及ぼさないわ」
ノートパソコンを乱暴に閉じると、美鈴は白衣の裾を翻してワークスペースの奥、サーバーラックに囲まれた彼女の牙城へとこもってしまった。
(絶対に怒ってるじゃん……。せめて話くらい聞いてよ……)
僕は深い溜息をつき、お茶の片付けを続けた。
だが、それから一時間、二時間が経過しても、奥の研究スペースからは、いつも聞こえてくるはずの軽快なタイピング音が一切聞こえてこなかった。聞こえるのは、数分おきに漏れ聞こえてくる美鈴の小さな苛立ちの呟きだけだ。
時刻は深夜に差し掛かろうとしている。いつもならとっくに、新しいエネルギー理論のコードを何千行も書き換えている時間だ。さすがに心配になった僕は、マグカップを片手に彼女のデスクへと近づいた。
「天ノ川さん、コーヒーでも飲みますか?」
そこにいたのは、最新のホログラフィックディスプレイに映し出された複雑な数式を前に、綺麗な銀色の髪を両手でめちゃくちゃにかきむしりながら、深々と頭を抱え込んでいる世界最高峰の天才科学者だった。
画面に表示されているのは、彼女がここ数ヶ月没頭している次世代エネルギーの基礎方程式のようだが、カーソルは同じ場所でずっと点滅したままだ。
「……解けない」
美鈴はデスクに突っ伏したまま、消え入りそうな声で呻いた。
「解けないわ、高丘くん。私の脳内演算機能が、さっきから著しいパフォーマンスダウンを起こしているのよ。原因不明の重篤なエラーバグのせいで、論理の接続がミリ単位で噛み合わないわ。頭の中で数式が滑るのよ」
「数式が滑るって……。天ノ川さんがそんな状態になるなんて珍しいですよね」
いつもは傲慢なまでの自信に満ち溢れている彼女が、子供のように無防備に頭を抱えている。僕は仕事としての義務感、そしてそれ以上に一人の同居人としての純粋な心配から、デスクの横に膝をつき、彼女の顔を覗き込んだ。
「本当に大丈夫ですか? どこか体調でも――」
その瞬間、美鈴が弾かれたように顔を上げた。至近距離で視線が交差する。
「っ……!」
美鈴の宝石のような瞳が、小刻みに揺れていた。驚いたのは、彼女の顔の赤さだ。おでこから頬、そして白衣の隙間から覗くデコルテや耳の付け根に至るまで、まるで沸騰したかのように真っ赤に染まりきっている。
「もしかして熱でもあるんじゃ――」
「うるさいわ。高丘くんの馬鹿」
美鈴の細い両手が、僕の私服のTシャツの胸ぐらを強引に掴んだ。
見た目からは想像もつかない強い力で、僕の身体が美鈴の方へとぐいっと引き寄せられる。僕の鼻先と、苺のように赤くなった彼女の整った顔が、わずか数センチの距離まで急接近した。
美鈴の熱い吐息が、僕の唇のあたりに直接かかる。心臓が跳ね上がった。
「天ノ川さ、ん……?」
「バグの原因なら、とっくに特定できているわよ」
美鈴は僕の胸ぐらを掴んだまま、悔しそうに、そして今にも泣き出しそうなほどに唇を噛み締めて、僕を睨みつけてきた。その瞳の奥には、科学的な論理などでは決して説明できない、生々しい感情の嵐が渦巻いている。
「さっきから、私の嗅覚受容体が、一向に正常な数値を検知しないのよ。……不快だわ。極めて不快で、有害なエラーノイズよ」
早口で捲し立てる美鈴の声が、微かに震える。
「……高丘くんから、私以外の個体の匂いがするわ。あの他個体の女が作った、安価な小麦粉とバターの不純な香気成分が、君の衣服の繊維に残留しているのよ。……私の、大嫌いな匂いがするの」
それは、世界で唯一、自分だけが独占しているはずの重要資産に、外の世界の他人が触れたことに対する――天才科学者・天ノ川美鈴の限界を超えた嫉妬の証明だった。
胸ぐらを掴まれたまま焦る僕を、美鈴は耳まで真っ赤にした怒り顔で見つめ、それから鼻息を荒くした。
「……天ノ川さん、あの、本当に匂いなんて残って――」
「残っているわ。私の精密な嗅覚センサーを舐めないで」
その瞳には、既に科学者としての冷徹な思考など微塵もなく、ただただ目の前のエラーを力ずくで排除しようとする執念だけが宿っている。
「脳内演算のフリーズ、および情緒機能の致命的なエラー。この未曾有のシステムダウンを回避するための解決策を、私の天才的な脳がたった今、導き出したわ」
「解決策って、どんな――わっ!?」
美鈴は掴んでいた僕の胸ぐらをそのままに、驚くべき推進力で突進してきた。
完全に不意を突かれた俺の身体は後ろへと傾き、そのままリビングの大きなソファへと押し倒される。ドサリ、と柔らかなクッションに背中が沈んだ瞬間、僕の上には白衣を羽織った美鈴が馬乗りになる形で重なっていた。
「ちょっと、天ノ川さん!? これどういうシチュエーション――」
「静粛に。ここからはシステムアップデートの時間よ」
美鈴は僕の言葉を強引に遮ると、そのまま僕の胸元へと自らの身体を投げ出してきた。
細くしなやかな両腕が、俺の首回りにこれでもかと固く巻き付けられる。
「他個体の痕跡を、私の成分で完全に上書きするわ」
耳元で、心臓に悪いほど可憐な声が早口で囁かれた。そのまま、美鈴は僕の首筋へと容赦なく自らの顔を埋めてくる。すりすりと、少し寝癖のついた銀髪が僕の顎のラインを撫で、彼女の体温が僕のTシャツ越しにダイレクトに伝わってきた。
「ねえ、天ノ川さん。衣服の繊維がどうとか言うなら、普通に洗濯すれば済む話でしょ……!」
「却下よ。 洗濯機の界面活性剤による洗浄プロセスでは、私の精神的ストレス値をリセットするのには不十分だわ。いいから大人しく私のナノ粒子を吸収しなさい。……ん、これよ。この固有の、いつもの高丘くんの匂いで肺を満たさないと、私の数式が完成しないのよ」
理屈はもうめちゃくちゃだ。だが、首筋に感じる彼女の小さな鼻腔が、すー、はー、と熱い息を吐き出すたびに、僕の心臓は限界突破のスピードで暴れ始めていた。




