第43話:資産の流出危機、あるいはお裾分けのペナルティ
週が明けた月曜日の昼休み。
自分の席でのんびりお弁当を食べ終えた僕の前に、クラスメイトの渡辺が、可愛らしくラッピングされた小さな袋を差し出してきた。透明な袋の隙間から見えるのは、星やハートの形をした、いかにも手の込んだ手作りクッキーだ。
「はい、これ! この前の勉強会の時のお礼と、あと数学のノートを見せてくれたお礼!」
「え、クッキー? わざわざ悪いよ、渡辺さん」
「ううん。高丘くんはいつも色々優しくしてくれるし」
渡辺はそう言って、はにかむように笑った。彼女とは今まであまり話す機会はなかったが、先日の調理実習やタワーマンションでの勉強会をきっかけに向こうからよく話しかけてくれるようになった。クラス内でそれほど親しい相手もいなかったから単純にありがたいことだと思う。
「じゃあ、せっかくだしいただくね。家で食べさせてもらうよ」
「うん! お口に合うといいんだけど。……ねえ、高丘くん。あの噂って本当なの?」
「……あの噂?」
今度はいったいどんな噂が流れているというのだろう。僕が問うと、彼女は周囲の目を気にするような素振りを見せてから僕の耳元で囁いた。
「……高丘くんが、天ノ川さんとエッチしてるって噂」
心臓が飛び跳ねそうになる。思わず大声を出しかけたのを懸命に堪えた。
「い、いったい誰がそんな噂を……!」
「私は友達から聞いたんだけど、その子が誰から聞いたのかは分かんないや」
噂の出元はどうせ学級委員の長谷川あたりだろうか。調理実習の時の騒動に尾ヒレが付いたのだろうが、雇い主である美鈴にとってあまりに不名誉すぎる風聞だ。
僕は声を振り絞って否定した。
「……とんでもないデマだよ。天ノ川さんとはキスすらしたことないから」
それを聞いた渡辺は安心したように胸を撫で下ろす。
「そうなんだ、よかった。友達にもちゃんと言っておくね」
「そうしてもらえると助かるよ……」
「高丘くんも大変だよね。いつも天ノ川さんに振り回されて疲れちゃわない?」
「疲れることもあるけど、あれはあれで楽しいから」
彼女は明るくて素朴な笑顔を浮かべている。こんな風に周りから純粋に心配されるのも珍しいように思う。
「でもさ、高丘くん。たまにはちゃんと息抜きもしなきゃダメだよ。高丘くんって土日は外出できるの?」
「そこまで厳しい職場じゃないし、休みの日は普通に出歩けるよ。晩ご飯の支度があるからできれば夕方には帰りたいけどね」
「じゃあ、今度の週末どこか遊びに行かない?」
「いいよ。他には誰と一緒なの?」
「うーん。今のところ私と高丘くんだけかな」
「二人だけ?」
てっきり既に他の誰かと遊ぶ予定があってそこに誘われたのかと思ったのだが、どうやらそうではなかったようだ。
――クラスメイトの女子と二人きり。なぜだか即答するのが躊躇われた。単にクラスメイトと遊びに行くだけだから本来ならば何も問題はない。ない、はずなのだ。
しかし、僕の脳裏には美鈴の姿が浮かんでいた。僕が他の女子と親しげにしていると胸が苦しくなると、そう語っていた彼女の姿が。
渡辺は、そんな僕の心中を察するように薄く微笑んだ。
「……もしかして天ノ川さんに気を遣ってる?」
「いや、うん……」
「高丘くんって天ノ川さんに雇われてるだけで別に付き合ってるわけじゃないんだよね?」
「うん。付き合ってはない」
「じゃあ、何も問題なくない?」
「それはそうなんだけど……」
思わず視線を逸らす。渡辺の言っていることも尤もだ。尤もなのだが――。
彼女と二人で遊びに行くのを知ったら美鈴は酷く悲しむだろう。美鈴のそんな顔など見たくはない。
「……ごめん。ちょっと考えさせて」
「分かった。返事、期待してるね」
渡辺が少し頬を染めて手を振り、僕の席を離れていく。
僕は彼女からもらったクッキーの袋を眺めた。他人の手作りなんて久しぶりだ。本来であれば嬉しい贈り物のはずだったのだが、今となってはどうにも複雑だ。
こんなことになるならばこのクッキーも受け取らない方がよかったかもしれない。早くもそんな後悔に襲われていた。
――数時間後、夜のタワーマンション。
いつも通りに完璧な夕食を提供し、片付けを終えたリビング。
ソファに座って一息ついた僕は、ふと学校でカバンに入れたままだった渡辺のクッキーのことを思い出した。
「……渡辺さんからのお誘いは断るにしても、さすがにクッキーは一枚くらい食べた方がいいよな」
もしかすると明日学校で彼女と会った時に感想を聞かれるかもしれない。そうなった時に何も答えられないのでは申し訳ない。美鈴がリビングにいない今のうちにサッと一枚だけ食べてしまおう。
カバンからラッピングされた袋を取り出し、リボンに手をかける。甘いバターの香りがふわりとリビングに広がり、僕がクッキーを口元へ運ぼうとした、まさにその瞬間だった。
ふと気がつくと目の前に白い影が立ち塞がっていた。
「高丘くん。今、研究が山場なの。今夜、夜食の提供を――」
「うわっ!? びっくりした……天ノ川さん、いつの間に」
慌てて見上げると、そこには美鈴が立っていた。
「どうしてそんなに驚くのかしら」
彼女は僕の手元のクッキーに気づき、じっと視線を落とす。
「……高丘くん、そのお菓子は?」
「渡辺さんからもらったんです。ほら、この間の勉強会の時に来てた女子ですよ。それで、彼女から週末に二人で遊びに行かないかって誘われたんですけど――」
「遊びに行く? 高丘くんが他個体の女子と。……二人きりで?」
そう呟いたまま彼女は硬直した。
「は、はい。でも――」
でも、ちゃんと断ろうと思っている、と。その後の言葉を続けるよりも先に。美鈴は手を伸ばすと、僕が今まさに食べようとしていたクッキーを、袋ごと電光石火の速さで没収した。
「天ノ川さん、急にどうしたんですか……!?」
「没収よ、高丘くん。他個体が生産した未知の糖類および脂質の摂取は、私の管理栄養戦略に対する明白な規約違反よ。我が家の最重要資産である君の肉体に、成分分析の行われていない不純物を取り込ませるわけにはいかないわ」
美鈴はクッキーを胸元に抱え込み、冷徹極まりないトーンでそう言い放ったのだった。




