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第42話:他個体の痕跡と、お互いの性的欲求

 ソファから立ち上あがろうとした僕の背中に突如としてぶつかってきたものがあった。


 そのあまりの勢いに、僕の身体は再びソファのクッションへと押し戻される。何事かと慌てて振り返ろうとしたが、それは不可能だった。


 僕の首回りに、白くて細い、しかし恐ろしく力のこもった両腕がぐるりと巻き付けられていたからだ。背中には、馴染みのある白衣の感触。その奥にある驚くほど華奢で柔らかい少女の体温が、直に伝わってくる。


 美鈴が、僕の背中に完全に顔をうずめる形で、後ろからギューッと力いっぱいに抱きしめてきていたのだ。


「あ、天ノ川さん? どうしたんですか。みんなもう帰りましたよ……?」

「……うるさいわ」


 僕の背中にこすりつけられた美鈴の頭から、くぐもった声が響く。


「他個体の匂いが、この空間の空気中にエラー成分として残留していて極めて不快よ。私の神聖なテリトリーが、不純物によって汚染されたわ。私の鼻腔が、君以外の個体の存在を感知するたびに、脳内の拒絶パラメーターが限界値を突破し続けているのよ」

「だからって、なんで僕をそんな力いっぱいに……痛い、締まる、ちょっと苦しいですって!」

「これは上書き(オーバーライト)のために必要な行為よ」


 美鈴は早口でまくし立てながら、さらに腕の力を込めて僕の背中にへばりついて離れない。


「他個体の痕跡を、私の成分で完全に上書きして消去する必要があるわ。我が家の最優先リソースである君に、他個体の視線や気配が残留しているなど、契約上の重大な瑕疵かしよ。今すぐ、私の固有データでシステムを再構築しなさい」


 科学的なワードをこれでもかと並べ立ててはいるが、背中から伝わってくる彼女の心臓は、まるで壊れた時計のように激しくトクトクと脈打っていた。


 ちらりと横目で盗み見ると、僕の肩口に覗く美鈴の白い耳が、これまでに見たことがないほど、真っ赤に染まりきっている。クラスの女子が僕に近づいたことが、抑えきれないほどの、強烈な、無自覚な独占欲のバグを引き起こしてしまったのだ。


「……だから、命令よ。高丘くん」


 美鈴は僕のシャツの生地をギュッと握りしめ、震える声で、しかし絶対に譲らないという強い意志を込めて告げた。


「他個体による汚染から私の精神安定指数を完全に回復させるため、毎日の定時メンテナンスを一時間延長……いえ。今夜は、このまま一晩中ハグし続けることを義務付けるわ。君に拒否権は存在しない。これは合理的生存戦略よ」

「一晩中って、僕、晩ご飯作れないじゃないですか……!」

「……非常食のゼリーがあるわ。今夜は、君の体温の方が優先度が上よ」

「晩ご飯の問題だけじゃないんですよ。一晩中この状態というのはかなりマズいというか……」

「……何がマズいの?」


 彼女は僕の首筋に顔を埋める。甘い吐息が触れ、僕の体がびくりと震える。


「天ノ川さん、一旦ストップ……!」


 耳まで真っ赤にした天才科学者によるあまりにも過激で甘すぎるマーキング。その体温を至近距離で感じながら僕は恐る恐る口を開いた。


「……天ノ川さん。かなり今さらですし、こういうことを言うと軽蔑されるかもしれないんですが……。どうしても今のうちに言っておきたいことがあるので、言わせてください」

「何かしら」


 僕たちは相手に対するお互いの好意を自覚しつつある段階だった。彼女の距離の近さがもたらす問題点については今だからこそ言っておかねばならない。これで、もし彼女に嫌われたとしてもその時はその時。出会ったばかりの頃の雇い主と使用人の関係に戻るだけだ。――そう覚悟を決める。


「天ノ川さんってもしかして僕のことを、女の子と()()()()()()をしたい欲求が全くない人間だと思ってません……? 僕も男子なので、あまりこう、距離が近いとですね……辛くなるというか……」


 覚悟はしたもののいざ伝えようとすると、どうしても照れ臭い。つい言葉を濁してしまう。


「言葉の定義が曖昧すぎるわ。()()()()()()、というのは?」

「女の子とくっついたり、キスしたり……そ、それ以上のことも、したくなるようなことです」


 実際に自分で言葉にすると死にそうなほど恥ずかしい。しかし、それを聞いても彼女は平然とした様子だ。やはり天才科学者は違う、などと思っていると――。


「ああ、性的欲求ということね。それなら逆に聞くけれど――」


 彼女は顔を近づけ、ソファに倒れ込んだままの僕の目を真っ直ぐに覗き込んできた。彼女の宝石のような瞳がすぐ目の前にある。


「高丘くんは、もしかして私が、男の子と()()()()()()をしたい欲求が全くない人間だと思っていたの?」

「……えっ」


 心臓がどきりと跳ねた。彼女が発した言葉に対して思考がまるで追いつかない。


「そ、それはどういう意味でしょうか……」

「そのままの意味よ。私、天ノ川美鈴には魅力的な異性とハグをしたりキスをしたり、……それ以上のことも、してみたいという欲求がある」


 彼女の目鼻立ちの整った可憐な顔が紅潮していく。


「……ああ、男女の行為についての名称はちゃんと知っているのよ。でも、それを言葉にしようとするのは想像以上に恥ずかしいわね。……ごめんなさい」


 思いがけない告白に脳がパンクしそうだった。


 彼女の今までの言動を思い返す。ハグを要求したり、ベッドに入り込んできたり。あれらは全て寂しさを紛らわすための行為で、結果として無自覚に距離が近くなっているのだとばかり思っていた。


 ――だが、それだけではなかったとしたら。


「高丘くん。今から私らしくないことを言うわ」


 僕は小さく頷く。


「私、君に対する自分の気持ちが何なのかはまだ完全に理解しきれていないわ。でもね――」


 美鈴がくすりと笑った。


「いつからか、君となら……別に()()()()()()になってもいいと感じていたわ。それどころか、心のどこかでその方が都合が良いとすら思っていたの。だって、もしそうなって、なし崩し的に関係性が変化したら、私は自分の感情という証明困難な命題に立ち向かわなくて済むようになるでしょう?」


 彼女の瞳は、どこか虚ろで悲しげだ。


「……卑怯よね。軽蔑した?」

「軽蔑なんか、しませんよ」

「もし嘘でもそう言ってくれると安心するわ」

「そんな嘘、きませんって」


 彼女はわずかに身を起こすと僕の背中に抱きつき直す。


「でも、君のせいで落ち込んでもいたのよ。いくら誘惑してもなびいてくれないんだもの。……私、そんなに女として魅力なかった?」

「そんなわけないじゃないですか。天ノ川さんほど綺麗な女の人、見たことないですよ。僕は理性が崩壊しそうになるのを必死に我慢してたんです」

「……嬉しい」


 彼女の声が上擦うわずる。


「理性、崩壊してもよかったのに」


 彼女の細い指が僕の頬を撫でた。柔らかくて、くすぐったい感触。


「僕は、一時の衝動に負けなくて本当によかったと思ってます」

「……どうして?」

「天ノ川さんって科学者だし、一度やると決めたことを途中で放り出すのは大嫌いな人じゃないですか。だから、たぶんその場では良くても後からすごく後悔したんじゃないですかね」

「……それは、そうね」

「悲しんでいる天ノ川さんを見るのは僕も嫌ですし」

「そう言ってくれるのは嬉しいけれど……」


 複雑そうな声色だ。背中越しで見えないが、きっとその声の通りの表情をしているのだろう。


「……でも、そうなると君とそういうスキンシップをするのは私の証明が完了するまでずっとお預けってことよね」

「……そうなりますね」

「辛くない?」

「辛いし、だからこそ今のこの体勢はとても良くないと思います。……一旦離れません?」


 美鈴の腕の力がほんの少しだけ緩む。ようやく離してくれる気になったのかと思った、次の瞬間。


 彼女の右手がするりと僕のシャツの裾から侵入してきた。


「天ノ川さん……!?」

「嫌よ。絶対に離さない。言ったでしょう。一晩中ハグし続けることを義務付ける、って」


 彼女の冷たい手が、直接僕のお腹の辺りに触れる。突然の感触にびくりとするが、すぐにその手はゆっくりと上昇し、僕の胸元を優しくまさぐった。そして、ある一点――心臓のある辺りをそっと包み込むように手のひらで覆った。


「……どくん、どくん、って。音が速くなってる。君に対する私の影響値が高い証拠よね。それなのにどうして離れるの?」


 美鈴の声はまだ少し掠れていたが、どこか嬉しそうな色を帯びていた。彼女の手のひらを通して伝わる鼓動は、確かにいつもよりずっと早く脈打っている。


「言ってるじゃないですか、天ノ川さんみたいな可愛い女の子にこんな風にくっつかれたら理性的でいられなくなるんです! だからもうやめてください……!」

「知ったことじゃないわ。もしそうだとしたら、それが君の責任の取り方なのよ」

「責任って何のですか……!」

「……私に、優しくした責任」


 彼女はぽつりとそう言うと、今度は僕の手を探り当てた。僕の指と自分の指を一本一本丁寧に絡ませ合う。実験器具でも扱うかのように慎重に、しかし一度組んだら決して離れることはないと言わんばかりに強く。


 指がしっかりと繋がれた瞬間、背中の美鈴が再び小さく身動みじろぎしたのが分かった。まるで、最後の防壁が崩れたかのように。そのまま、彼女の額が僕の背中にぴったりと密着する。


「……ねえ。キスも、……セックスも、してくれないんでしょう。だったら、いいじゃない。これくらい」

「……ッ」


 耳元で囁かれる彼女の熱っぽい声は、とんでもない破壊力だった。身悶えしそうになるのを僕は必死に堪えた。


 やがて僕は観念したように体の力を抜くと繋ぎ合ったままの彼女の手をそっと握り返した。


「……分かりました。責任、取ります。朝まで好きなだけくっついていてください」

「それでいいわ。……お腹が空いたら非常食のゼリーを食べましょうね。この間みたいにまた『あーん』してちょうだい。私もしてあげるから」


 美鈴は嬉しそうに笑うと、僕の首筋に顔をぐりぐりと押しつけてきた。彼女の髪からは甘いシャンプーの香りがふわりと立ち上り、僕の鼻腔をくすぐる。さらさらとした銀髪が首筋を滑るたびに、ぞくりとした感覚が背中を駆け上がった。


 この甘美な感覚を受け止め続けることこそが、僕の責任なのだ。そう自分に言い聞かせる。なんという甘すぎる地獄だろう。


 そこからは、お互いにもう一言も意味のある言葉を発することはなかった。吐息に混じって声を漏らしたり、たまに熱に浮かされたように相手の名前を呟いたりするだけだった。


 決して唇を交わすことはないけれど、もっと深い場所で触れ合っている気がした。


 僕の心臓の高鳴りも、美鈴の震える指も、背中に感じる乱れた呼吸も。まだ恋人同士ではない僕たちにとって、全てがキスに匹敵するくらいに甘く、苦しく、切ない時間だった。

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