第41話:絶対零度の超高速講義、あるいは早く帰れオーラ
キッチンへ向かおうとした渡辺が、短い悲鳴を上げてその場に凍りついた。
「ひっ……!?」
無理もない。目の前に立ちはだかった美鈴の全身から放たれる拒絶のプレッシャーは、近づく者全てを塵にしてしまうような絶対零度の暴風雨だったからだ。
美鈴は渡辺を一瞥すらしないまま、鋭いステップで僕との距離をゼロに詰めた。そして、僕が何か言う前に、その手首を力強く掴んだ。
「え、天ノ川さん……?」
「キッチンの立ち入りは許可しないわ、他個体。そして高丘くん、君の離脱も認めない」
「彼女の名前は渡辺さんです。そろそろ覚えてあげ――」
美鈴は僕の手首を掴んだまま、ぐいぐいと強引な力で僕をワークスペースの椅子へと引き戻した。そのまま、自分のすぐ隣の席へと僕をガッチリ固定する。
僕の腕に、美鈴の華奢な肩が密着していた。普段の定時メンテナンスのハグに近い距離感だ。美鈴の小さな手のひらから、ドクドクと速い脈拍が伝わってくる。
「ねえ、天ノ川さん。みんな見てますって……!」
「静粛に。私の計算によると、現在この空間内における他個体の存在自体が、私の脳に多大なストレスノイズを与えているわ」
「だ、だから前もって言ったじゃないですか! すごいストレスなんじゃないかって! 自分の繊細さを甘く見過ぎです!」
「ええ、完全に予測を見誤ったわね……。この不快指数を相殺するためには、ライフマネージャーたる君の肉体的接触が不可欠よ。高丘くんの肉体は、私の空間識失調を防止する精神的触媒。一ミリの離脱も、他個体による接触も許可しないわ」
掴んだ僕の手首を自分の膝の上に抱え込むようにして、美鈴はソファの面々をジロリと睨みつけた。家に他人が入り込んでくるというこの状況が自分で想像していた以上に嫌だったのだろう。だからといって、さすがにこれはやり過ぎというものだ。
三人の男子生徒、そして席に戻った渡辺は、完全に確信していたことだろう。やはりこの二人はビジネスなどではなく、絶対に何かあると。
誰の目から見ても、今の美鈴はお気に入りの玩具を奪われそうになって威嚇している猫そのものだった。
しかし、誰もその強烈な疑惑を口にすることはできなかった。なぜなら、美鈴の背後に敵対者を抹殺するかのような凄まじいオーラが渦巻いていたからだ。
「……っ、コ、コホン! あー、それじゃあ、天ノ川さん。早速だけど、数学Ⅱの微積分の範囲を教えてもらえるかな……?」
長谷川が引きつった笑みを浮かべ、必死にノートを開いて空気を変えようとする。
「いいわ。時間の無駄を極限まで省くため、一度しか言わないから脳細胞をフル稼働させなさい」
「あ、あの……天ノ川さん、せっかくクラスのみんなが来てくれているのでせめてお茶を淹れてきてもいいでしょうか……」
「ダメよ」
僕が恐る恐る口にした提案も美鈴は一蹴した。左手で僕を抱きしめたまま、彼女は右手でホワイトボードのマーカーを掴む。そして、ここからクラスメイトたちにとっての真の地獄が始まった。
「まず、この関数の極限における連続性の定義だけど、通常の高校数学におけるアプローチは非効率的よ。多次元空間における写像として捉えれば、この数式は一瞬でこの形に変形できるわ。はい、次」
信じられない速度でホワイトボードに数式が書き殴られていく。一秒間に三行。いや、それ以上のハイペースだ。美鈴の解説は、常人の理解の範疇を遥かに超えた超高速講義だった。
「待って、天ノ川さん!? 早すぎてノートが追いつかないんだけど!」
「それは君のシナプスの伝達速度が遅すぎるからよ。この程度の基礎論理、一分で理解しなさい。私の貴重なリソース――つまり、研究時間と、高丘くんが夕飯の仕込みに入るための時間をこれ以上消費するのは、重大な機会損失よ。早く書き写して、次に行くわよ」
容赦のないスパルタ。いや、これはもはやただの「早く帰れ」というメッセージの弾幕だ。こんな状態になるなら本当にどうしてクラスメイトを家に呼ぼうと思ったのか。
美鈴はホワイトボードの前に立ちながらも、視線は常にクラスメイトたち――特に女子生徒の渡辺が僕に近づかないかを監視している。僕が少しでも動こうとすると、繋いだ手にキュッと力が込められた。
質問することさえ許されない圧倒的な天才の暴走講義。そして、部屋全体を支配する絶対零度の威圧感。
「う、嘘でしょ……何このスピード……」
「助けて、もう頭が破裂する……」
クラスメイトたちはノートを取る手もガタガタと震え、渡辺に至ってはあまりの恐怖と疲労で目が潤み始めていた。四人は涙目になりながら、心の中で完全に限界を迎えているようだ。
(天ノ川さん、僕との親密さをみんなに見せつけたいって言ってたけど、これそう見える? 独裁的な恐怖政治にしか見えなくない……?)
僕は美鈴に抱きつかれたまま呆然とその惨状を見守るしかなかった。
――夕飯の時刻より少し前。美鈴による二時間のスパルタ講義によって疲労困憊しきった男子たちが、ゾンビのような足取りで玄関へと向かっていく。
「あ、ありがとうございました……さようなら……」
「お邪魔、しました……」
女子生徒の渡辺に至っては、もはやノートを抱えたまま放心状態で、僕が誘導してあげてようやく歩けるような状態だった。まさに、這這の体での退散。
靴を履き終え、最後に残った学級委員の長谷川が、重苦しい表情で僕の肩を強く掴んできた。その目は、部屋に入ってきた時の犯人を追い詰める刑事の目では決してなかった。
「天ノ川さんってあんな美少女なのにプライベートだとこんな織田信長みたいな人だったんだな……。高丘……お前、毎日こんな怪物と暮らして……いや、働かされているのか……」
「え? あ、まあ、そういう契約だからね……」
「今までお前に不躾な疑いをかけて本当にすまなかった。お揃いのクッションもマグカップも、天ノ川さんのあの異常な圧迫感の中で正気を保ち、業務効率を維持するための防衛策だったんだな。月収五十万円なんて、この精神的労力を考えたら安すぎるくらいだ。……高丘、命を大事にしろよ」
長谷川はまるで、過酷なブラック企業で働く戦友を労うかのような同情の視線を僕に投げかけてきた。
「……うん、ありがとう。長谷川くんもテスト頑張ってね」
こうして、当初の同棲カップル疑惑は、美鈴の放った尋常でない威圧感と常軌を逸したスパルタ指導により、『ただの哀れで過酷な労働環境』という方向へ綺麗に百八十度強制転換された。怪我の功名と言うべきか。何はともあれ僕たちの秘密は完璧に守られたわけだ。
重厚なドアが閉まる。クラスメイトたちの足音が遠ざかり、最上階のタワーマンションに、ようやくいつもの心地よい静寂が戻ってきた。
「はぁぁぁーーーー……疲れた……」
僕はリビングに戻るなり、ソファへと深く腰掛けた。
生きた心地がしなかった。学校のクラスメイトが来るというだけでも心臓に悪いのに、隣にいるご主人様は片時も僕を離そうとしないし、女子を威嚇しまくるし、本当に寿命が縮むかと思った。
「さてと……。とりあえずグラスとホワイトボードを片付けて、夕飯の仕込みをしなきゃ。いや、お茶を淹れることも許されなかったからグラスは出てないか……」
どっと押し寄せる疲労を気合いで振り払い、僕が片付けをしようと腰を浮かせた、まさにその瞬間だった。
背後から、無言で、かつ容赦のない強い衝撃が僕の背中にぶち当たった。
「わっ!?」
馴染みのある白衣の感触。その衝撃の発生源は――天才少女、天ノ川美鈴だった。




