第38話:システムリチャージ(あーん)と、大人たちの戦慄
目の前に差し出された、卵サンド。美鈴は顔を耳の付け根まで真っ赤に染め上げ、信じられないほど恥ずかしそうに視線を彷徨わせた。
「……あ」
普段、世界の縮図のような数式を前にしても眉一つ動かさない天才が、いまや完全にキャパシティをオーバーしているようだった。
「……高丘くん、これは公共の場における、著しくプライバシーを欠いた、かつ倫理的にも議論の余地がある、非常に……非常に非論理的な――」
「僕だって恥ずかしいですけど、今はそんなこと言ってる場合じゃないですよ。早く食べてください」
「うぐっ……」
抵抗は一瞬だった。低血糖で完全にエネルギーが切れていた美鈴は、観念したように小さく口を開けると、僕の手から直接、サンドイッチを一口で咥え込んだ。
彼女の小さな口が動く。その瞬間、彼女の脳内に黄金色の出汁の旨味と糖質が急速にチャージされていった。
「……っ!」
みるみるうちに美鈴の瞳にいつもの、いや、いつも以上の圧倒的な輝きが戻ってくる。
「――脳内システム、完全リチャージ完了よ。細胞の一つ一つが、高丘くんの調合したナトリウムとアミノ酸によって最適化されていくのを感じるわ」
背筋を伸ばした美鈴は、小さく鼻を鳴らすと、満足げに僕の指先を凝視した。いや、正確には僕の指が持っている、残りの軽食を見つめている。その目は、次の餌を今か今かと待ちわびる獰猛な――それでいて最高に甘えた小動物のそれだった。
「高丘くん、次よ。次はその『おむすび』の投入を要求するわ。私の噛み合わせのタイミングに合わせて、仰角三十度で精密にデリバリーしなさい。さもなければ君の指ごと噛んででも強制的に徴収するわ」
「分かったから、野生の獣みたいな目で見ないでください」
僕は苦笑しながら、今度はおむすびをつまんで彼女の口元へ運ぶ。美鈴は待ってましたとばかりに、嬉しそうに小さく口を開けた。
――だが。そんなタワーマンションでの日常と変わらない『我が家の餌付けタイム』が、ガラス扉一枚を隔てたレセプション会場の大人たちにどう映っているか、僕たちは完全に失念していた。
「……な、何だ、あれは……?」
美鈴を追ってテラスの近くまでやってきていた、先ほどの巨大複合企業のトップたる大物社長。そして、世界的なエリート研究者たちが、ガラス越しに繰り広げられる光景を見て、石のように硬直していた。
彼らが見ているのは、どんな巨万の富を積まれても首を縦に振らず、国家元首の誘いすら脳のメモリの無駄と一蹴してきた、あの冷徹無比な世界最高峰の天才・天ノ川美鈴だ。
その彼女が、一人の少年の前でだけは、まるで飼い慣らされた猫のように大人しくなり、頬を赤く染めていた。そして、その少年の手から直接、幸せそうに食べ物を口に運んでもらっている。
その衝撃の決定的瞬間を前に、大人たちの脳内で、恐ろしい勘違いの歯車が高速で回転を始めた。
「あの少年……ただの使用人などではないぞ……!」
「天ノ川博士という、国家最高機密にも等しい知性を、完璧に手懐けてコントロールしている……!」
「我が国の政財界を震撼させる天才の心臓を、あの若さで完全に握っているというのか。一体、どこの組織のフィクサーだ……!?」
テラスの夜風に吹かれながら、必死に「あーん」を繰り返す僕の背中に、大人たちの恐怖と戦慄の視線が突き刺さる。
「ヤバい……。なんかすごい視線を感じる……。天ノ川さん、一旦離れませんか?」
「ダメよ。まだ私の身体機能は完全には回復していない。ここで君が離れることは私の生命活動の停止を意味するわ」
「さすがにそうはならないですよね!?」
僕が声を張り上げてツッコむとガラス越しにこちらを覗き込んでいた大人たちが一斉にたじろいだ。
「あの少年、天ノ川博士を恫喝したぞ……!」
「やはり只者ではないらしいな……」
彼らにとっての僕は、迂闊に触れてはならない『謎の若き怪物』へと格上げされていく。
「なんかすごい勘違いされてる気配がする……!」
完全に誤解されてしまったというべきか、大成功というべきか。結果として、美鈴に近づこうとする者は、誰一人としていなくなっていた。
――何はともあれ、美鈴の価値と健康を無事に守り抜くことはできた。全ての業務を終えた僕と美鈴は、帰りの高級車の後部座席に揺られている。静かな車内。外の街灯の光がシートを照らしていた。
張り詰めていた緊張が完全に解けたのだろう。僕のすぐ隣に座っていた美鈴の身体が、スッとこちらに傾いてきた。
ストン、と、心地よい重みが僕の左肩にかかる。
「……天ノ川さん?」
「……ん。……外の世界は、ノイズが多くて、著しく非効率的ね」
美鈴は僕の肩にこてんと頭を乗せたまま、小さな声で、しかしどこか心底安心したように呟いた。
「やっぱり……高丘くんのいる、我が家が一番だわ。……定時メンテナンス、このまま帰宅するまで延長を……推奨……するわ……」
そのまま、美鈴は規則正しい小さな寝息を立て始めた。
ドレス姿で眠る彼女の顔は、学校での『氷姫』の面影など微塵もない、ただの無防備な少女のそれだった。僕は左肩を動かさないように気をつけながら、そっと車の窓の外を流れる夜景を見つめる。
その時、美鈴が目を閉じたまま静かに囁いた。
「……高丘くん。私、必ず証明するわ。君に対する、私のこの気持ちが何なのかを。だから、その時は絶対に――」
美鈴は甘えるように僕の肩に頬を擦りつける。
「私を、君の彼女にしてね」
蕩けるような吐息混じりの声。思わず心臓が高鳴った。
「……分かりました、天ノ川さん。僕も期待してますからね」
美鈴の頭を優しく撫でる。彼女は嬉しそうに小さく身動ぎするとまた穏やかに寝息を立て始めた。
初めての共同任務を終え、僕たちの絆は確かに、より深く、特別なものへと最適化されていた。
――しかし。そんな極上の甘い余韻に浸っていられたのも、この週末までだった。
翌週、学校へ戻った僕を待っていたのは、調理実習での一件で僕に目をつけたクラスメイトたちの、新たなる襲撃計画だった。
「なあ、高丘! 今度の定期テスト、天ノ川さんのあのタワマンで、みんなで勉強会やらせてくれよ!」
学校の教室で突きつけられた、波乱を予感させる爆弾発言。
二人の聖域であり、秘密の同棲場所であるあの空間に、ついに外の世界の他個体たちが突撃してくる――。




