第37話:銀のトレイに隠された「最適化栄養素」
巨大複合企業のトップたる男の顔から、営業用の笑みが綺麗に消え失せた。
「……なんだと。交渉を謝絶、だと? この私に向かって言っているのか?」
背後に控えるSPたちの空気が一変し、周囲の大人たちも「あの少年は何者だ」と色めき立つ。向けられるのは、数々の修羅場をくぐり抜けてきた本物の権力者による、鋭い威圧感の塊だ。
普通の高校生なら、その視線だけで足がすくんで言葉を失うだろう。だが、天ノ川美鈴の隣に立ち続ける限りはこれからもこの手の輩を相手にすることになるのだ。今、この場で腹を括るしかない。
僕は一歩も引かず、サヴィル・ロウの仕立てた高級スーツの襟を正し、大物社長の目を真っ直ぐに見据えて薄く微笑んだ。
「お言葉ですが。天ノ川博士の脳細胞は、現在、秒単位で価値を創出する国家レベルの重要資産です。事前に秘書の春崎を通したアポイントメントのない突然の交渉は、我が方のリスクマネジメントに抵触します。博士の研究に正当な価値を見出されているのでしたら、後日、正式な席でお話を伺います」
なんとか淀みのない、完璧なビジネスライクの対応ができた。自分でも心の中で安堵する。日頃から美鈴の理屈っぽい言い回しに晒されてきたおかげだろう。
向こうもまさか一介の少年にこれほど隙のない論理で返されるとは思っていなかったようだ。大物社長は一瞬だけ目を見張り、僕の仕立ての良いスーツと堂々とした佇まいに、わずかに気圧されたように身を引いた。何か巨大な裏の組織の影でも感じ取ったのかもしれない。
「……フン、随分と優秀な盾を飼っているようだ。いいだろう、本日はここまでにしておく」
男が身を翻し、ハイエナたちの包囲網が一時的に瓦解する。
僕はその隙を見逃さず、限界を迎えていた美鈴の腰をそっと支え、会場の喧騒から逃れるように鮮やかに避難した。目指すのは会場奥のガラス扉の先にある静かなテラス席だ。
――夜風が心地よく吹き抜ける静寂の中、美鈴は貸し切り状態のソファへ、糸の切れた人形のようにどさりと倒れ込んだ。彼女はドレスの裾が乱れるのも気にせず、長椅子にしがみついている。
「……脳内メモリが、完全に枯渇したわ。他個体の悪意あるノイズがシナプスに過負荷を与え、呼吸機能すら阻害されている……」
「お疲れ様でした。よく頑張りましたね、天ノ川さん」
「……高丘くん。私は、もう、一歩も、動けないわ。このまま、ここで餓死して、ただの綺麗な有機物の塊になるのよ……」
完全に幼児退行した天才科学者に、僕は苦笑しながら保冷バッグを開けた。あらかじめ春崎に頼んでホテルのバックヤードに搬入しておいてもらったものだ。
「こうなると思ってました。ほら、我が家の特製メニューです」
ホテルのウェイターから借りておいた銀のトレイの上に保冷バッグから取り出したものを手早く並べる。それは、きらびやかな会場の料理とは似ても似つかない、どこか素朴な二つの皿だった。
一つは、厚焼きのだし巻き卵を、からしマヨネーズを薄く塗った食パンで挟んだ、上品な『卵サンド』。
もう一つは、美鈴の小さな口でも汚さずに食べられるよう、小さな球状に丸められた『ひとくち塩おむすび』。
どちらも、ドレスを汚さないよう水分量を極限まで計算し、かつ外の人間が一切触れていない、僕の手だけで作られた完全オーダーメイドの最適化栄養素だった。
「これは……この分子構造のアロマは……」
銀のトレイに乗せられた我が家の味を前にして、美鈴の瞳がハッと見開かれる。と、同時に。
ぐぅぅぅぅうう……。
静かな夜のテラスに、美鈴の小さなお腹の音が、なんとも可愛らしく鳴り響いた。美鈴は一瞬で顔を真っ赤にし、両手でお腹を押さえてソファに丸まる。
「……今の音は、私の胃壁が物理的な収縮運動を起こしたことによる、不可避のアコースティック・エラーよ。私の意志ではないわ」
「はいはい。エラーを修正するために、早く食べてくださいね」
「……食べるわ。今すぐ、補給する……」
美鈴は這い上がるようにして、卵サンドへと手を伸ばした。
しかし。あまりの低血糖と緊張の反動のせいで、彼女の白く細い指先は震えてしまい、サンドイッチを上手く掴むことができない。指先が空を切る。
「……っ、指先の、運動機能が、著しく低下……。エネルギー補給プロトコル、失敗……。高丘くん、私はもうダメよ……。やはりこのまま餓死して、ただの綺麗な有機物の塊に……」
大富豪の天才科学者が、サンドイッチを掴めないだけでこの世の終わりのような絶望的な顔をして力尽きそうになっている。
僕は小さく溜息をつき、膝をついて美鈴の目線に合わせると、銀のトレイから卵サンドをそっとつまみ上げた。
「……本当に手がかかるご主人様ですね。口、開けられますか。あーんしてください」
こんなことは家でもしたことがないのだが、状況が状況だ。もう仕方がない。僕は意を決し、サンドイッチを美鈴の小さな唇の前へと優しく差し出した。




