第36話:華やかな戦場と、天才のハンガーストライキ
国際科学レセプションが正式に始まると、会場の空気は一変した。
「天ノ川博士! ぜひ我が社の開発チームと意見交換を――」
「博士、先日の論文にある熱力学の数式について、我が研究所の見解を……」
美鈴の姿を認めた有象無象の大人たちが、文字通りハイエナのように次々と群がってきたのだ。彼らの目的は同じである。美鈴が保有する『次世代エネルギー』や『最先端AI』に関する数千億円規模の特許権、そのおこぼれに預かることだ。
並の女子高生なら泣き出して逃げ出すような包囲網。しかし、僕のジャケットの袖をギュッと掴んだまま、美鈴は一歩も引かなかった。
それどころか、氷のように冷たい視線で彼らを見据え、マシンガンのような速度で難解な理数ワードを捲し立て始める。
「却下よ。あなたの会社のプレスリリースを拝見したけれど、熱効率の計算に初歩的なトポロジーの誤謬が見られるわ。私の知財をそんな低水準なシステムに組み込むのは、リソースをドブに捨てるようなものよ。完全に時間の無駄。次」
「な、何だと……っ!?」
「あなたもよ、そこの研究員。私の数式に口を挟むなら、最低でも多次元多様体における非線形偏微分方程式の解をシミュレートしてからにして。あなたの脳内メモリ、私の前で恥を晒すにしてもあまりに容量不足だわ。次」
冷徹、かつ容赦のない論理の刃。美鈴が口を開くたびに、エリートを自称する大人たちが顔を真っ赤にして退散していく。圧倒的な天才の防衛戦だ。
だが、隣にいる僕には分かっていた。僕の袖を握る美鈴の指先が、微かに、しかし確実に震えていることに。
早口なのも、難解な言葉を並べるのも、彼女にとっては防衛本能が限界まで働いている証拠なのだ。美鈴の精神的疲労のメーターは、既に危険域に達しつつあった。
「……天ノ川さん、一旦休憩しますか? あそこに豪華な料理が並んでますよ」
僕は会場の中央に設置された、きらびやかなビュッフェ台を指差した。超一流ホテルのシェフが腕を振るったローストビーフや、色鮮やかなオードブルが山のように盛られている。少しでも食べて血糖値を上げれば、彼女の脳のストレスも緩和されるはずだ。
しかし、美鈴はビュッフェ台を一瞥すると、露骨に不快そうな態度を示した。
「拒絶するわ。あの空間は不特定多数の他個体が往来し、くしゃみや発声による飛沫が対流している。さらに言えば、他個体が素手で触れた可能性のあるトングを経由した、出所不明な栄養素の摂取などリスクが高すぎるわ。あんな非衛生的な有機物の塊、私の身体には一ミリも取り入れたくない」
「いや、たぶんあれ世界最高峰のシェフの料理ですよ……?」
「私の生命維持を預かるのは君の仕事でしょう、高丘くん。……私は、君の作ったもの以外は、胃袋のチェックポイントを通過させないわ」
社交界のど真ん中で、とんでもない偏食を宣言してくれた。理屈をこねてはいるが、要するに「こんな緊張した状態では外のご飯なんて食べられない」と駄々をこねているのだ。
だが、頑なに補給を拒否したツケはすぐに回ってきた。
ドレスに身を包んだ美鈴の肌が、見る見るうちに青白くなっていく。もともと徹夜続きで生活リズムが狂っているのだ。そこへ極度の緊張とエネルギー切れが重なれば、結果は火を見るより明らかだった。
「……っ」
「天ノ川さん!?」
美鈴の膝が、カクンと折れそうになる。慌ててその華奢な肩を支えると、彼女は僕の胸元に小さく頭を預けてきた。ふわりと、シャンプーの甘い香りが鼻先を掠める。
「……脳内システムが、低血糖により一時的なスリープ状態に移行中よ。……視界のフォーカスが合わないわ……」
完全に限界だ。これ以上、この戦場に彼女を留まらせるわけにはいかない。僕が彼女を抱きかかえて会場の隅へ移動しようとした、その時。
「おや、天ノ川博士。随分とお疲れのようですな」
低く、ねっとりとした声が、僕たちの行く手を阻んだ。
振り返ると、仕立ての良いタキシードを着た初老の男が、怪しげな笑みを浮かべて立っていた。その背後には、いかにもやり手そうな秘書やSPが数人控えている。
会場の空気が一瞬で緊張に包まれた。男の胸元にあるバッジ――それは、日本の経済界の頂点に君臨する、超巨大複合企業のトップの証だった。
「我が社が提案している、次世代エネルギーの共同開発の件ですがね。博士のような若い才能には、やはり我が社のような『大人の後ろ盾』が必要不可欠だと思うのですよ。どうでしょう。これから別室で、じっくりと大人の契約を結びませんか?」
男の目が、弱り切った美鈴を鋭く見下ろす。それは親切などではなく、弱みに付け込んで特許を丸ごと買い叩こうとする、本物の捕食者の目だった。
美鈴は言い返そうと唇を震わせるが、低血糖の脳では言葉が上手く組み立てられないようだ。
そんな彼女を見ているうちに目の前の男に対する怒りがふつふつと沸き上がってきた。一目見れば彼女がまともに交渉などできる状態ではないと分かるはずだ。こんな弱り切った状態の少女を相手にどうして自分の利益を優先しようなどと思えるのか。
これ以上、美鈴にこの男の話を聞かせたくない。少しでも早く彼女を安全な場所に連れ出してあげたい。
僕は支えていた美鈴の身体をそっと自分の背後に隠すようにして、その巨大企業の社長の前に立ち塞がった。
「何だね、君は。今は大事な商談の真っ最中だ。邪魔をしないでくれないか」
不快そうに眉をひそめる社長と、その威圧感に気圧される周囲の大人たち。
そんな日本のトップを相手に、僕は一歩も引かず、オーダーメイドの高級スーツの襟を正して、冷徹に言い放った。
「失礼します。天ノ川博士の体調管理を任されている高丘と申します。これ以上の面会は、博士の脳に深刻な損害を与えます。――よって、ここからの交渉は、私の権限によって全て謝絶させていただきます」
秘書の春崎がこの高級スーツを『戦闘服』と呼んでいた意味がようやく分かった。普通のスーツなど着ていたらあっという間に場の空気に飲まれ、僕のちっぽけな自信は目の前の男によって簡単に打ち砕かれてしまっていたに違いない。
だが、今の僕は天ノ川美鈴の隣に立ち、彼女を支える人間だ。その強い自負とともに男を見据えた。




