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第35話:スーツの苦労人と、借りてきた猫の天才

 週末の午後。タワーマンションの広大なリビングに秘書の春崎が現れた。彼女は、大真面目な顔でいかにも高級そうな黒いガーメントバッグを僕に差し出す。


「高丘くん、これに着替えてください。『社交界』という名の魑魅魍魎ちみもうりょう跋扈ばっこする戦場に先生を送り出すための、あなた専用の戦闘服です」


「戦闘服って……これ、スーツですよね。実は防弾チョッキみたいになってるとかですか?」

「あくまでもものの例えですよ。これは英国サヴィル・ロウの仕立て職人に、あなたの体型データを極秘裏に送って突貫で作らせた、最高級のオーダーメイドスリーピースです。今日のレセプションは、先生の持つ特許を狙うハイエナどもの巣窟。あなたにも相応の格好をしてもらう必要があります。頼みましたよ、高丘くん」


 相変わらず春崎の僕に対する期待が重い。月収五十万円の業務委託契約書に「社交界での盾になること」なんて項目はなかったはずだが、生活基盤の維持には主人の精神安定も含まれるのだから仕方がない。


 僕は溜息をつき、ゲストルームでそのスーツに着替えることにした。


 仕立てたばかりの白いシャツに袖を通し、ネクタイを締め、ベストとジャケットを羽織る。


 鏡を見ると、そこに映っていたのは、いつもスーパーのタイムセールに並んでいる極貧苦労人の僕ではなかった。肩のラインから腰回りまで、一ミリの無駄もなく身体にフィットした、どこかの若き実業家かと思うような洗練された男が立っていた。


「……服の力ってすごいなぁ」


 苦笑しながらリビングへと戻ると、ソファに座ってタブレット端末を操作していた美鈴が、音もなくこちらを振り向いた。


 そして――。


 ガタン、と、彼女の愛用するタブレットがテーブルの上に滑り落ちた。


 美鈴はそのまま微動だにしない。宝石のような瞳を限界まで見開き、僕の頭のてっぺんからつま先までを何度も往復させている。


「……天ノ川さん、どうしました。そんなに似合ってませんでしたか?」

「……ッ」


 三分ほど精密機械のシステムエラーのように固まっていた美鈴は、突如として顔を耳の付け根まで真っ赤に染め上げ、早口でまくし立てた。


「違っ、違うわ。似合っていないどころか、その……視覚的パラメーターのバグよ。衣服によるシルエットの補正効果が、私の脳内の高丘くんデータと著しい乖離を起こして、一瞬、処理回路が熱暴走オーバーヒートしただけよ」

「語彙を失っているのにやたらと語彙が豊富だ……」


 照れ隠しの理屈がいつも以上にガタガタな美鈴を見て、僕は思わず笑ってしまった。


 だが、そんな僕も、今度は美鈴の姿を見て言葉を失う番だった。


 美鈴が動揺しながらもソファから立ち上がる。その姿は、いつものボサボサ髪にパジャマの上から白衣を羽織ったスタイルではなかった。


 

 夜空を切り取ったかのような深い紺色の、シルク製のイブニングドレス。細い首元には控えめながら気品のある真珠のチョーカーが光り、綺麗に整えられた銀髪が夕陽を浴びて淡く輝いている。


 その圧倒的な美しさに、僕の方が思わず気圧けおされそうになった。


 普段は生活能力皆無の自堕落な少女だというのに、こうして着飾ると、世界的な天才科学者にして数百億の資産を持つ『本物の令嬢』なのだと思い知らされる。


「……天ノ川さんこそすごく綺麗ですよ。ドレス、似合ってます」

「君は、何を、サラッと、不可解な言語出力を……っ」


 美鈴は両手で顔を覆い、今度は物理的に視界をシャットダウンしてしまった。先が思いやられる。


 ――それから一時間後。


 高級リムジンに揺られて到着したのは、都内の一等地にある超高級ホテルの大宴会場だ。一歩足を踏み入れた瞬間、そこは別世界だった。


 まばゆいクリスタルのシャンデリアが輝き、クラシックの生演奏が流れる中、高価なジュエリーを身につけたドレス姿の女性や、お堅い表情をしたスーツ姿のシニア男性たちが、あちこちでワイングラスを片手に談笑している。政財界の大物や、名だたる企業のエリート研究者たちが集まる、文字通りの『社交界』だ。



 その瞬間、僕の隣を歩いていた美鈴の身体が、目に見えてビクッと硬直した。


 タワーマンションに引きこもり、他者との接触を極限まで嫌う天才科学者にとって、この空間は言わば『最も非効率的で有害なノイズの塊』でしかない。


 美鈴の表情からさっきまでの照れは完全に消え去り、周囲を激しく睨みつけるような完全威嚇モード――いや、もはや怯えて固まっている『借りてきた猫』状態になっていた。


「天ノ川博士! お待ちしておりました!」

「こちらの、次世代エネルギーの論文の件ですが――」


 美鈴の姿を認めるや否や、ハイエナのような大人たちが、一斉にこちらの様子を伺い始める。押し寄せるドレスとスーツの波、そして無数の欲深い視線。その時、僕のジャケットの袖が、下から無言でギュッと強く掴まれた。


「……高丘くん」


 見下ろすと、美鈴が今にも泣き出しそうな、それでいて必死にプライドを保とうとする複雑な表情で、僕のスーツを握りしめていた。


「この空間の人口密度、および発せられる他個体の思惑ノイズは……私の精神安定許容量を、完全に突破しているわ。……命令よ。私を、守りなさい」


 大富豪の天才少女が、すがるように僕を見上げてくる。


「了解です、ご主人様。お給料分の仕事はきっちりこなしますね」


 僕はネクタイを少しだけ直し、彼女を安心させるように微笑んでみせた。

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