第34話:恋心を証明するという命題
放課後の静まり返った調理実習室に、スポンジで食器を洗う音だけが響く。
結局、あの騒動の後で僕は担任からこっぴどくお叱りを受けた。必死に弁明して不純異性交遊の疑いはなんとか晴らすことができたが、授業中に騒ぎを起こした罰として調理実習の後片付けをやらされることになったのだ。
美鈴はいつもの特別扱いで居残り片付けを免除されることになったため、僕は一人で大きなシンクに向き合っていた。
理不尽に感じなくもないが、あの生活力のない天才少女に任せたら食器を何枚割られるか分かったものではない。結局、僕が引き受けた方が効率が良かったのだ。
オレンジ色の夕陽が窓から差し込み、誰もいない室内を木目調の温かさで満たしている。
突然、調理実習室のドアが静かに開いた。振り返ると、そこには既に制服のブレザーを羽織り、スクールバッグを肩にかけた美鈴が立っていた。
「……天ノ川さん? もう迎えの車が来てる時間じゃないですか。もしかして手伝いに来てくれ――」
「忘れ物の回収よ。実習のレポート用メモをこの部屋のどこかにドロップした可能性が高かったから、再探索しにきたの」
「手伝いに来てくれたわけじゃなかったか……」
それはそうだ。彼女は家事に関しては僕に任せきり――もとい全幅の信頼を置いている。わざわざ手伝うようなことをするはずがない。
美鈴はツンと澄ました顔で、僕のいるシンクの方へと歩いてくる。僕は濡れた手をタオルで拭きながら、小さく首を振った。
「天ノ川さん、昼間は本当に大変でしたね。これからはお互いに学校での発言は気をつけましょうね」
「……他個体の認知の歪みなど、私の知ったことではないわ」
美鈴はそこで一度言葉を切り、僕をじっとりとした目線で睨みつけてきた。
「それよりも高丘くん。昼間の君の振る舞いには、管理責任者として看過できない問題点があったわ。染色体XXを持つ他個体たちに囲まれて、随分と楽しそうにホスピタリティを切り売りしていたようね」
「染色体XX……?」
「生物学上で言う女子のことよ。火加減のアドバイスだの、隠し味の開示だの、サービス精神が過剰だったわ」
「ただ質問されたから答えていただけじゃないですか。あれぐらいは別にクラスメイトとして普通の――」
言いかけた僕の言葉は、最後まで紡がれることはなかった。
不意に、美鈴が僕の背後に回り込んだかと思うと、ぎゅっ、と。エプロンをつけたままの僕の背中に、その小さな身体をそっと預けてきたのだ。
「……え」
「高丘くん。君のあの時の言葉、どこまで本当?」
背中に伝わる、柔らかくて確かな温もり。彼女の銀髪から香る、いつもの甘いシャンプーの匂いが、夕暮れの調理実習室にふわりと広がる。美鈴は僕の背中に両腕を回し、ブレザー越しに僕の腰のあたりをきゅっと強く抱きしめていた。
僕は震える声で問いかける。
「……あの時って、いつのことですか?」
「この前の夜。同じベッドで寝た時。私のことを……好きだって言った」
「天ノ川さん……起きてたんですか……!?」
あの夜。美鈴と同じベッドに入った僕は寝ている彼女に向かって「好きです」と告げた。聞こえているはずがないと思い込んでいたのだが、あの時の彼女は眠ってなどいなかったのだ。なんという過ちだろう。
予想外の事態に動悸が激しくなる。なんと答えるべきか思考が一気に錯綜する。
「あ、あれは……その……」
「もし、君のあの言葉が本当なら他個体……特に染色体XXを持つ他個体に優しくするのはやめて欲しい。君が……女子と親しげにしているのを見ると、胸が苦しくなるの。あの時からずっとよ」
背中越しに聞こえる声は、いつもの冷徹なトーンではなかった。どこか鼻にかかったような、熱を帯びた、いつになく甘えた、消え入りそうなほど小さな本音だ。
「……こんなことを言うのはおかしいわよね。明確に君の自由を侵害しているもの」
「おかしくはないと思います。でも、天ノ川さん。それって天ノ川さんも僕のことが……」
後ろを振り向こうとした時、彼女の華奢な手が伸びてきて僕の顔を押さえつけた。
「見てはダメ。今の私はきっと君に見せられないような顔をしてる」
「……わ、分かりました」
背中に押し当てられた彼女の顔が、どれほど真っ赤になっているか、見えなくても彼女のその言葉だけで容易に想像がついてしまった。トクトクと、僕の背中に伝わってくる彼女の鼓動が、驚くほど速くて愛おしい。
「高丘くん。証明する時間をちょうだい」
「……証明? 何のですか?」
「私は、自分には他人に対して親愛の情を抱く機能が欠落しているのだと思っていたわ。だから、本当に他人に好意を持てるかどうか自信がない。君に対して抱いている自分のこの感情が何なのかも理解できてない。それらの命題を、証明するための時間が欲しいの」
不器用だけど、どこまでも誠実な言葉。それが僕の心を真っ直ぐに打った。
「天ノ川さんがそう言うなら、僕はいつまででも待ちます。あなたの証明が完了したらその時は、あんな形じゃなくてもっとちゃんと告白させてください」
「……告白? 何の?」
「愛の告白です。プロボーズ」
その時、彼女が急に僕の背中を叩いてきた。力が弱いから痛くはないが、それでも驚きはする。
「な、何ですか、天ノ川さん。どうしたんですか」
「高丘くんの馬鹿。急に恥ずかしいことを言わないでちょうだい。愚昧。魯鈍。無知蒙昧」
照れ隠しの語彙がやたらと小難しい。背中を叩かれながら僕はただ苦笑いするしかなかった。
「ところで僕はいつまでこの姿勢でいればいいんでしょうか」
「……昼間のノイズのせいで、私の精神安定指数が著しく低下したわ。だから……この状態のまま今すぐ補填して。三分間、動かずに私のホメオスタシスを安定させなさい」
理屈で武装された彼女の我儘を聞いているといつもの調子が戻りつつあることが分かる。
結局、僕は彼女の心地よい重みを受け止めながら、夕陽が沈みゆく調理実習室で、ただじっとその贅沢な時間を共有するしかなかった。
****
約束の三分が経過した瞬間、美鈴は名残惜しそうに、けれどスッと僕の背中から離れた。
振り返ると、彼女は顔を耳の裏まで真っ赤に染めながらも、既にいつもの無表情を無理やり構築し直していた。
「……ふぅ。一応の回復は完了したわ」
「それは何よりです。……天ノ川さんの証明が完了するまでいつまででも待ってますからね」
「そういう余計なことは言わなくていいわ」
気恥ずかしさを誤魔化すためにタブレット端末をいじっていた彼女は、珍しく真剣な表情で僕を見つめてきた。
「高丘くん。君、今週末スケジュールを空けておきなさい」
「今週末? また何か買い出しですか?」
「違うわ。週末、私が特許を持つ次世代エネルギーに関する、国際科学レセプションがあるの。政財界の面倒な他個体が大量に集まる悪夢のような空間よ」
美鈴は嫌そうに眉をひそめ、それから、真っ直ぐに僕の目を射抜いた。
「私がその過酷な環境でパフォーマンスを維持するためには、君の帯同が不可欠だと判断したわ。……高丘くん、今週末、私の公式レセプションに同行しなさい。これは、月収五十万円の『専属ライフマネージャー』としての、初の外回り業務命令よ」
――学校での調理実習を終えた僕に、次は世界のビジネスの表舞台という、とんでもない戦場が用意されていた。




