第32話:ライフマネージャーとしての意地
調理実習が始まってわずか十分。我が四番テーブルは、予想通りの、いや予想を遥かに超える阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。
「うおっ、目が、目がぁああっ! 何だこれ、玉ねぎの攻撃力が想定外に高すぎるっ!」
「長谷川くん、涙拭いて! って、そっちのボウル、塩コショウの量おかしくない!? なんか白黒の砂漠みたいになってるよ!」
「小さじと大さじって……もしかして別物なのか!?」
普段は規律がどうこうと言っている学級委員の長谷川も、包丁を持たせればただの不器用な破壊神だ。他の男子二名も料理経験は皆無らしく、手際の悪さは長谷川と似たり寄ったりだった。
「はぁ……」
僕は小さく溜息をつき、調理台に置かれたデジタル時計を見た。残りは四十分。
このまま彼らに任せておいたら、ハンバーグではなく『黒焦げになった謎の肉塊の塩漬け』が錬成されるのは火を見るより明らかだった。
調理実習室の一番奥のテーブルにいる美鈴の姿をそれとなく盗み見る。彼女は今も変わらず冷たい目つきでこちらを睨んでいる。だが、その冷徹な表情が僕の料理を食べた時にはいつも幸せそうな笑顔に変わるのだ。それを思うだけで胸の奥が温かくなった。
あの人に――天ノ川美鈴という、総資産数百億の天才科学者に、僕は月収五十万円で『生活基盤の最適化』を委託されている。それが、学校の調理実習だからといって出来損ないの美味しくもない料理を作らねばならないというのか。
僕の中で、奇妙なプライドが鎌首をもたげる。
僕にだって天ノ川美鈴のライフマネージャーとしてのちっぽけな意地はあるのだ。なるべくなら料理は美味しく仕上げたいし、食材だって無駄にはしたくない。それに班が違うとはいえ、どうせなら彼女にも一口くらい食べてもらって美味しいと言ってもらいたい。
(……しょうがない。やるしかないな)
これ以上被害が拡大する前に、僕は小さく溜息をついて腕まくりをした。
「……ちょっとそこどいて。僕がやる」
クマ柄のエプロンの紐をきゅっと結び直し、まな板の前に立つ。
「おいおい高丘、無理すんなって。お前、家じゃあ天ノ川さんにこき使われてるだけなんだろ? ここは俺たちが――」
その時、家庭科室に、軽快で、かつ恐ろしいほど一定のリズムの金属音が響き渡った。長谷川の言葉は、その音によって遮られる。
僕の握った包丁が、長谷川を泣かせた玉ねぎを瞬く間に規則正しい、美しいみじん切りへと変えていく。刃先がまな板を叩く音は一定のピッチを刻み、残像すら見えるほどの手際だ。
「え……?」
長谷川を初め、班の男子たちの動きがピタリと止まった。僕は硬直した彼らを無視して、次々とタスクを処理していく。
みじん切りにした玉ねぎをフライパンで飴色になるまで手早く炒め、粗熱を取るためにバットへ広げる。その間に、塩コショウで砂漠化していたひき肉のボウルから余分な調味料をスプーンで削り取り、牛乳に浸したパン粉と卵、そして秘密の隠し味としてマヨネーズを微量投入。
手の熱が肉に移って脂が溶けないよう、ボウルの底を氷水で冷やしながら、電光石火の手つきで肉を捏ね上げていった。
「な、なあ、高丘……お前、その手際の良さはなんだ? 並行して副菜の野菜まで切り進めているように見えるが……」
「無駄な待機時間を作るな、っていうのが口うるさい雇い主の流儀だからね。長谷川くん、悪いんだけどそのボウル洗っておいてもらってもいい?」
「は、はいっ!」
クラスの権力者であるはずの学級委員が、条件反射で直立不動の返事をした。
パン、パン、と両手の間で肉の空気を抜き、綺麗な楕円形に成形していく。中央を少しくぼませ、熱したフライパンに並べると肉の焼ける綺麗な音が調理室に響き渡った。
「なんか既に美味そうだぞ!? 高丘、いったいお前何者だ……!?」
「ただの主夫だよ」
「いや、こんなのパシリとか奴隷なんてレベルじゃねえ! お前、プロのシェフか何かなのか!? 高丘様、さっきは生意気を言ってすみませんでした! 俺、一生ついていきます!」
「俺も! 高丘、いや高丘師匠、ソースの作り方を教えてください!」
「なんか調子が良いなぁ……」
さっきまで僕を哀れみの目で見ていた男子たちが、手のひらを返して瞳を輝かせ始める。拝むような勢いで僕の指示を待つ彼らに、苦笑しながら「じゃあ、タイマーが鳴ったらハンバーグをひっくり返して」と指示を出した。
――だが、劇的な変化を見せたのは男子たちだけではなかった。
フライパンから立ち上る、肉汁の焼けるジューシーで香ばしい匂い。赤ワインとケチャップ、ウスターソースをベースにした特製デミグラスソースの甘酸っぱい香りが、四番テーブルを中心に調理室全体へと広がっていく。
「ねえ、なんか四班の匂い、明らかに格が違くない……?」
「えっ、嘘。作ってるのって高丘くん? あの手際、ヤバすぎるんだけど……!」
隣の班の女子生徒たちが、クンクンと鼻を鳴らしながら、色めき立ってこちらに注目し始めていた。普段は地味で目立たないはずの僕の主夫力が、思わぬ形でクラスの女子たちの視線を惹きつけようとしていた。




