第30話:実証実験の甘い結末
――信じられないことに、僕たちは今、一つの毛布を分け合って横に並んでいる。
数百万円もするという最高級マットレスは伊達ではなく、美鈴が寝返りを打ってもその振動すらこちらに伝わってこない。それなのに、二人の距離が近すぎるせいで、彼女の小さくて速い心臓の音が、まるで自分の胸の奥で鳴っているかのようにうるさく響いていた。
もちろん、僕の心臓も大概な音を立てている。
天井を見つめたまま、緊張で指先一つ動かせない。寝返りを打とうにも、少しでも動けば隣のサマーパジャマ姿の天才少女に触れてしまう。
(こんな実証テストがあるわけないでしょ……。これじゃあ心臓の音がうるさくて逆に寝れないよ……)
僕が心の中で必死にツッコミを入れていた、その時だった。
かさり、とシーツが擦れる微かな音がした。
隣にいた美鈴が、じわじわとマットレスの中央――二人の境界線を越えて身を寄せてくる。
そして、躊躇うような素振りを見せた後、スッと僕の胸元にその小さな頭を埋めてきた。細い両腕が僕の背中に回され、ぎゅっと抱きつかれる。
「あ、天ノ川さん……? これじゃあベッドの性能検証にならないじゃないですか……!」
完全に密着した彼女の体温に、僕は声が裏返りそうになるのを必死に抑えて囁いた。すると、美鈴は僕の胸に顔を埋めたまま、目を閉じて、今にもとろけてしまいそうな甘い声を絞り出した。
「……理論と実証には、大きな差があるわね。最高級のマットレスという単体のインフラよりも……君の体温が至近距離に存在する方が、私の入眠速度が四十二パーセント向上することが……今、実証されたわ……。だから、このまま……ホールドしていなさい……」
最後の方は、すっかり眠気に囚われた掠れた声だった。
背中に回された彼女の腕からふっと力が抜け、規則正しい寝息が僕の胸元を優しくくすぐり始める。
その無防備で愛おしい寝顔を見つめているうちに、僕の緊張もゆっくりと解けていった。
僕はそっと彼女の肩に腕を回し、雲の上にいるような極上の寝心地の中、静かに意識を手放した。
***
翌朝。カーテンの隙間から差し込む朝日が、僕の部屋を照らしていた。
目が覚めた僕は、自分の体の自由が全く利かないことに気づく。
毛布の中をそっと覗き込めば、美鈴は僕の胸にしっかりと顔を埋め、腕だけでなく自分の細い足まで僕の足に絡ませていた。まるで、大切なぬいぐるみにしがみついて離さない子供のようだ。
起きたばかりだというのに僕の胸の鼓動は高鳴り始めていた。
すぐ目の前に美鈴の綺麗な寝顔がある。
彼女の静かな寝息が聞こえる。少し身動ぎしただけで彼女の華奢な体に触れてしまいそうだ。
(どうすればいいんだ、これ……)
突然、美鈴が微かに唸った。
「ん……」
睫毛がかすかに揺れ、唇がわずかに開く。思わず息を潜める僕。
彼女の腕がさらに強く僕の背中に回され、柔らかな胸の膨らみが僕の胸板に押し当てられた。心臓が喉元まで跳ね上がる。
(こんなの……耐えられるわけない……!)
僕の理性が悲鳴を上げていた。このままでは取り返しのつかないことになる。そうなる前に強引にでも彼女の体を引き離した方がいい。
僕は彼女の肩に優しく手を添えた。なんて細い肩なのだろう。少し力をこめただけで壊れてしまいそうにすら思える。
あとはここからゆっくりと彼女の体を振り解いて――。
その時、美鈴がゆっくりと瞼を開けた。ぼんやりとした視線が僕に向けられ、数秒後、ようやく焦点が合う。
「……高丘くん?」
「お、おはようございます……」
彼女は自分が肩を押さえられていることに気づき、不思議そうに僕を見つめてきた。
「……今どういう状況?」
「違うんです」
「私、寝込みを襲われてる?」
「違うんです! 誤解しないでください!」
「襲いやすい体勢とかあるのかしら。あ、目はつむっていた方がいいわよね」
彼女はおずおずと目を閉じ、寝たフリをする。
「すやすや……」
「なんで襲われるのに協力的なんですか!? っていうか、襲いませんから!!」
家の中における『お互いの個室』という、プライベートを守るための最後の境界線。それは、この極上のベッドが運び込まれた夜をもって、完全に、そして跡形もなく崩壊してしまったのだった。
***
「……うん。今日のスープも、ナトリウムとカリウムのバランスが完璧ね」
一時間後。ダイニングテーブルでスープをスプーンで啜る美鈴は、昨夜の添い寝のことも今朝の出来事もまるでなかったかのように、いつも通りの澄ました顔をしていた。
だが、その表情にはどことなく、深い睡眠と充足感から来る満足げな余裕が漂っている。
「満足してもらえて何よりですよ……。しっかり寝られたみたいだし、これで設備投資の元は取れましたね」
「ええ、その通りよ。そして昨夜の実証実験の結果に基づいて提案があるわ」
「提案? どんなですか?」
美鈴はスープ皿を置くと、窓の外を見つめた。その銀色の瞳に、どこか不穏で、けれどこれ以上ないほど独占欲に満ちた光が宿る。
「君は私と同じベッドでも何の問題もなく熟睡できることが証明されたわ。だから、これからは一日ごとに寝室を変え、二人で一つのベッドで寝ましょう。今日は私の寝室、明日は君の寝室、といったローテーションね」
「それは本当にダメです!」
「どうしてそう頑迷なのか理解に苦しむのだけれど。……まあ、いいわ。君がそう言うならこのプロトコルは寂しくなった時だけにしましょう」
「極力寂しくさせないようにしますね……」
美鈴はなぜだか誇らしげに胸を張り、ご機嫌な様子でトーストに手を伸ばす。
だが、結局この日以来、彼女は定期的に僕の寝室へ潜り込み、また自分の部屋にも僕を引きずり込むようになった。
――その日の夜。自室のベッドで毛布にくるまった美鈴が今にも寝入ってしまいそうな声で呟いた。
「これで、ひとまず家の中の統治は完了したわ……。寝食の全てにおいて、君が私の完全な管理下にあることが証明された……。となると……次は、外ね」
「外?」
「ええ。……外の世界――学校や、一般社会。そこでも、他個体に対して私の所有権を明確にする必要があるわ。……近々、新しいオペレーションを発動するから……覚悟しておきなさい」
「はいはい、分かりました。そんなに眠いなら無理に喋らないで寝てください。……おやすみなさい、天ノ川さん」
強烈な睡魔に襲われながらも、ついに外の世界にまでその巨大すぎる独占欲を爆発させようと企む天才少女。
僕の平穏な日常が、次なるフェーズへと強制移行される予感に、心地よい諦めを抱きながら苦笑するしかない。
ベッドの中で彼女の温もりを感じながらふと考える。ここ最近の彼女の言動。お揃いのアイテムを欲しがってみたり、同じベッドで寝たがってみたり。
(これで僕のことを好きじゃないって思うのは無理があるんじゃないか……?)
穏やかに寝息を立てる彼女の頬を指先でそっと撫でる。
仮に僕が好意を向けたとして彼女は拒まないだろうか。
しかし、もしもこの距離の近さが天才少女の悪戯か単なる気まぐれだったとしたら。僕が好意を打ち明けた瞬間に全てが崩れ去ってしまうかもしれない。そう思うと酷く恐ろしくなる。
「……好きですよ、天ノ川さん」
起きている彼女を目の前にしてこの言葉を伝えられたらどれだけ良いだろう。僕がもっと自分に自信のある人間だったなら言えただろうか。そのせいばかりではないだろうが、こういう時だけは幼少期からの自分の劣悪な家庭環境を恨みたくなる。
今の僕には目の前にあるこの幸せを噛み締めながら深い眠りに落ちていくことしかできなかった。
夢の中で美鈴の声を聞いた気がしたが、何を言っていたのかは分からなかった。ただ何か幸せな夢を見ていたのは確かだ。




