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第29話:最高級の睡眠環境と深夜の来訪者

 翌日の午前中、タワーマンションの広い玄関を通って、専門の搬入業者たちが仰々しくやってきた。


 彼らが厳重な梱包を解き、僕の部屋へと設置した塊――それこそが、美鈴が特急料金を上乗せして即座に発注した、数百万円のスウェーデン製最高級ベッド一式だった。


 業者が去った後、新しくなったベッドに恐る恐る腰を下ろし、そのままゆっくりと体を横たえてみる。その瞬間、僕の全身を衝撃が駆け抜けた。


「……す、すごい。何ですか、これ!」


 固すぎず、柔らかすぎず。頭から背骨、足の先まで、まるで重力から完全に解放されたかのように、体がベッドの表面と完全に一体化する感覚。マットレスが僕の体型を瞬時に学習し、優しく包み込んでくれているようだ。頭を乗せたオーダーメイドの枕も、信じられないほど首のラインにフィットしている。


 まさに、雲の上にぷかぷかと浮いているかのような極上の寝心地だった。


「どうかしら、高丘くん。脊椎のS字カーブが理想的なホールドを維持しているのが、その弛緩しかんした顔からでも一目瞭然だわ」


 部屋の入り口で腕を組み、満足げに鼻を鳴らしているのは美鈴だ。


「これで明日からの君の労働効率は、私の計算通り最低でも十五パーセントは向上するはずよ。設備投資の効果は絶大ね」

「確かにこれは文句のつけようがないです。ありがたく使わせてもらいますね、天ノ川さん。……でも、昨日から気になっていたんですけど、なんでそんなに寝具に詳しいんですか?」


 実際に身体が軽くなるのを感じながら彼女の破格すぎる気遣いに感謝をし、素朴な疑問を口にする。その瞬間、彼女の表情に微かに影が差した。


「……調べたからよ。ずっと前に」


 声のトーンもわずかに落ちている。なんとなく聞いてはいけないことを聞いてしまったような気がする。


「……天ノ川さんがそういうものに興味を持つのってなんだか珍しいですね」


 彼女はどこか遠くを見つめながら静かに話を始めた。

 

「……子供の頃のことよ。夜に寝られない日が続いた幼い私は、その原因がベッドや枕などの寝具にあるのではないかと推察したの。それから徹底的に研究したわ。調査し、分析し、解析した。寝具の成り立ち、構造、人体に与える影響、市場規模、国ごとの文化による差異……。私が知識を持っているのはその経験があるからね。結局最近になるまであの時の睡眠障害の原因は分からなかったけれど」

「今はもう原因が分かったんですか?」

「単純な話よ。両親が家にいないことが多かったから。……幼い頃の私は、おそらく人恋しかったのね。ただそれだけ。あんなに時間をかけて調べたのに寝具なんて初めから何も関係なかった。馬鹿げてるでしょう?」


 美鈴は自嘲気味に笑う。その姿が酷く寂しそうに見え、胸が締め付けられた。


 僕は声を絞り出すようにして言う。


「……馬鹿げてなんかないですよ」


 遠くへ視線を向けていた美鈴は、ゆっくりと僕の方を見た。


「馬鹿げてなんかないです。その時の天ノ川さんの切実な思いは僕にはよく分かります。僕もずっと一人だったから」


 彼女は僕を見たまま何度かまばたきした。


「今は僕がいますから。もし少しでも寂しくなったらいつでも言ってください。ハグでもなんでもしますから」

「……今の君の言葉。敬語なしでもう一回言ってもらえる?」


 美鈴は悪戯っぽい笑みを浮かべる。敬語を取り払って彼女と話すのはいまだに照れ臭い。だが、それで彼女が少しでも寂しさを忘れられるというのなら安いものだ。


「――い、今は僕がいるから。少しでも寂しくなったらいつでも言って。ハグでもなんでもする」

「よし。満足よ」


 羞恥で頬に血が上ってくるのを感じる。そんな僕を見つめながら彼女は穏やかに微笑んでいた。


***


 その日の深夜、零時。


 リビングの片付けや明日の仕込みを全て終え、僕は新調された最高級ベッドに入っていた。


 驚くほど心地が良い。目をつむれば、数秒で深い眠りに落ちてしまいそうなほどの極上の浮遊感に包まれながら、僕の意識がゆっくりと微睡まどろみの中に沈んでいこうとした――その時だった。


 静まり返った部屋に、ドアノブが回る微かな音が響いた。眠りに落ちかけていた僕はハッと目を開けて飛び起き、ベッドサイドの明かりを点ける。


 開いたドアの隙間から滑り込んできたのは、部屋の明かりに照らされた、パジャマ姿の美鈴だった。


「……ん」


 なぜか彼女は、自分の部屋から持ってきたお気に入りの枕を、胸元で大事そうにぎゅっと両腕で抱きかかえている。


「あれ、天ノ川さん? どうしたんですか、こんな時間に。また新しい数式でも思い付いたんですか?」

「……違うわ」


 美鈴はパタパタとベッドの脇まで歩いてくると、抱きしめた枕の向こうから、じっと僕を見つめた。顔付きこそいつもの無表情を装っているが、その耳の先端はパジャマのピンク色よりも真っ赤に染まっている。


「新システム導入に伴う、初期不良のチェックよ」

「え? 初期不良?」

「ええ。理論値通りの睡眠導入が阻害されていないか、メーカーのスペックに偽りがないかを確認する必要があるわ。そのためには……そう、私も同じ環境で実証テストを行うのが、開発者としての論理的帰結よ」

「実証テストって。つまり……?」

「私も同じベッドで寝るわ」


 大真面目な顔で、とんでもない暴論をのたまう天才少女。


「いやいや、おかしいですよ! ベッドの確認なら昼間にやればよかったじゃないですか! なんで夜中に僕が寝てるベッドに入ろうとするんですか!」

「昼間の静的データと、深夜の動的データでは条件が異なるわ。 ……いいから、そこを三十センチほど左にスライドしなさい。私の検証時間が削れるわ」

「ちょっと待てください、天ノ川さん――」


 僕の制止の言葉など、彼女の脳内数式には最初から組み込まれていなかったらしい。美鈴は当然のような顔をして、よいしょ、と僕のベッドに腰掛け、自分の枕を僕の枕のすぐ隣に配置した。


 そして、流れるような動作で滑り込み、僕が使っていた同じ毛布の中に、すっぽりと収まってしまった。


 毛布にくるまった美鈴を見下ろしながら思い起こされたのは、昼間の彼女の悲しげな顔。そして、寂しければなんでもすると約束した自分の言葉だ。


 僕は観念し、彼女と同じ布団に入ることを決めたのだった。

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