第28話:ライフマネージャーの睡眠障害リスク
「高丘くん。あなたの左眼窩下部に、数日前には存在しなかった微細な影――すなわち『クマ』が確認されるわ。睡眠の質、あるいは絶対的な睡眠時間が著しく不足しているのではないかしら?」
土曜日の朝、キッチンで味噌汁の味見をしていた僕は、背後からの鋭い指摘に振り返った。
ダイニングテーブルの席についた美鈴が、じっと僕の顔を凝視している。
「……最近ちょっと寝るのが遅かったですからね」
「心当たりがあるのね。原因を述べなさい」
「数日前の夜中に、天ノ川さんが『新しい数式の検証に付き合え』ってパジャマ姿で部屋に突撃してきたからです。それと、その後の『ハグの延長戦』ですね……」
「そ、それは不可抗力よ。私の脳の閃きは予測不可能だし、あの時間帯は脳内物質の分泌バランスが不規則になりやすいんだから、君が傍でホールドして安定させるのは当然の業務の一部だわ」
案の定、真っ赤になって言い訳をまくしたてる美鈴。だが、彼女はすぐにツンと唇を尖らせ、椅子の背もたれに寄りかかって腕を組んだ。
「とにかく、私の管理者である君のパフォーマンス低下は、私自身の損失に直結するわ。作業効率の維持、および労働災害防止の観点から、即座に原因の究明を行う必要があるわね。……高丘くん、あなたの個室へ案内しなさい。環境調査を敢行するわ」
「へ!? 立ち入り調査!? いや、ちょっと待てください、男の部屋にいきなりそんな――」
「これは業務命令よ。拒否権は存在しないわ」
美鈴はパタパタと小気味よい足音を立て、リビングの奥にある僕の部屋へと迷いのない足取りで歩き出してしまった。慌てて僕もその後を追う。
僕が使っているのは、この広大なタワーマンションの一角にあるゲストルームだ。
掃除は行き届いているし、家具や寝具は僕がここに入居した際、秘書の春崎が手配してくれたものだ。一般的なビジネスホテルよりもずっと上質で、僕にとっては贅沢すぎる部屋だった。
ガチャリ、とドアを開けて中に入るなり、美鈴は鋭い視線で部屋の隅々を見回した。そして、部屋の大部分を占めるベッドの前でピタリと立ち止まる。
「……これが、君の睡眠環境?」
「はい。とても快適ですよ。枕もふかふかですし」
美鈴はスッと細い指先を伸ばし、マットレスをぐっと押し込んだ。次に、枕を両手で持ち上げると、まるで未知の欠陥品を目撃したかのように、その銀色の瞳を大きく見開いて数歩後ずさった。
「な、何よこれ……。低反発ですらない一般的な綿の枕に、体圧分散が不完全に設計されたボンネルコイルのマットレス……? こんな劣悪なインフラで、君は毎晩平均七時間もの貴重な回復リソースを浪費していたの? 許しがたいエラーよ」
「いや、劣悪って、たぶんこれも一流メーカーの市販品ですよ……」
「私の部屋の寝具と比較すれば、これはただの硬い板。頸椎の湾曲と脊椎のラインを最適にサスペンションできない寝具など、健康に対するテロ行為だわ」
「というか、やたらと寝具に詳しいですね、天ノ川さん」
「そんなことはどうでもいいの。今は君の劣悪極まりない睡眠環境の話をしているのよ」
美鈴は真剣な眼差しで僕を見て言う。
「――高丘くん。君、私と同じベッドで寝なさい」
僕は即座に叫び返した。
「お断りします!!」
「どうしてかしら。私の寝室のベッドなら快適な睡眠環境は保証されているわ」
「いくら良いベッドだろうと緊張しすぎて寝れるわけないじゃないですか!」
彼女は不思議そうに小首を傾げる。
「そう。よく分からないけれど、君がそう言うならこの許し難い事態を打開するための方策はもはや一つしか残されていないわ」
美鈴は謎の怒りにプルプルと震えながら、スマートフォンを素早く取り出した。その美しい銀髪を激しく揺らしながら、画面をものすごい速度でタップし始める。
「あの、天ノ川さん、何して――」
「決まっているわ。私の部屋と全く同じ、スウェーデン製の最高級オーダーメイドベッド一式と、レーザー測定によるパーソナル枕の即時発注よ。特急料金を加算したから、明日の午前中にはこの部屋に搬入されるわ」
「ち、ちょっと待ってください ! 前に春崎さんに聞きましたけど、あれって確か数百万円はするやつですよね!?」
「金額など、君の睡眠効率が15%向上することによる未来の利益と比較すれば、ただの誤差よ」
「数百万円は絶対に誤差じゃないです!」
スマートフォンの画面が、無情にも『購入確定』の文字を青白く光らせる。小さく鼻を鳴らし、真っ赤になった顔を隠すようにスマホを胸元で抱きしめる美鈴。
「……勘違いしないでちょうだい。これは、私の生活環境を維持するための、ただの『設備投資』よ」
そう言い張る彼女の瞳には、僕の健康を本気で心配している熱が帯びていた。
明日、この部屋に超高級ベッドというとんでもない怪物がやってくる。その予感に、僕は寝不足とは違う意味で、激しく頭を抱えた。
こんな余計なことにお金を使わせるぐらいなら彼女と同じベッドで寝る選択肢を選んだ方がマシだったろうか。そのような考えが一瞬脳裏をよぎり、僕は慌ててその不埒な想像を打ち消すのだった。




