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第3話:月収50万円の業務委託契約書

「外部、生命維持装置……?」


 あまりに突飛な言葉に、僕は手に持っていた空のお盆を落としそうになった。


 だが、目の前の少女――天ノ川美鈴(あまのがわみすず)は至って真剣だ。彼女はゴミの山からい出すと、春崎さんから手渡されたタブレットを高速で操作し始めた。


「私の試算によれば、私の脳が最高のパフォーマンスを発揮している時の経済的価値は、時給換算で約八百万円に相当する。しかし、低血糖や栄養不均衡による思考停止時間は、過去一ヶ月で合計百二十時間。これは約九億六〇〇〇万円の損失を意味しているわ」

「き、九億六〇〇〇万円……」

「端数を処理すれば約十億円ね」

「四〇〇〇万円を端数って呼ぶのやめてくださいね!?」


 美鈴は淡々と、しかし圧倒的な熱量で言葉を続ける。銀髪の隙間から覗く瞳は、獲物を分析する肉食獣のようだった。


「対して、君の提供した食事。これは私の味覚神経を最適に刺激し、セロトニンとドーパミンの分泌を理想的な数値まで引き上げた。さらに、君の家事スキルを導入することで、私が『生活』という非生産的なノイズに割くリソースをゼロにできる。……結論を言うわ」


 彼女は春崎に目配せをした。春崎は無言で、持っていたアタッシュケースを開き、いくつかの札束を取り出した。


 ――僕の目の前に、銀行の帯封がついたままの『十万円の束』が、五つ並べられた。


「……っ」


 喉が鳴った。これだけあれば、家賃の滞納も、明日のご飯も、全てが解決する。


「これは前払い。月額五十万円の報酬に加え、このマンションのゲストルームを居住スペースとして提供するわ。光熱費、食費、その他の生活維持に必要な経費は全て私――天ノ川美鈴が負担する。君はただ、この部屋を維持し、私のために食事を作る。それだけでいい」

「五十万円……。そんなの、怪しすぎます。僕はただの高校生ですよ。何か裏があるんじゃないですか?」


 当然の疑念だった。しかし、美鈴は不敵に微笑んだ。


「裏? あるわけないでしょう。私はただ、自分の人生を『最適化』したいだけ。そのために、君という最高のリソースを市場価格より少し高く買い叩いただけの話よ」

「少し……ってレベルじゃないと思いますけど」


 僕は春崎さんを見た。彼女は静かに頷く。


「これでも、安い方なんですよ。先生が倒れるたびに私が手配する特別医療チームや、プロジェクトの遅延損害金に比べればね」


 そっと差し出されたのは、一枚の書類。書類名は『合理的生存維持に関する業務委託契約書』となっている。


 そこには、僕の家事能力を評価し、住み込みで彼女をサポートする旨が厳格な法用語で記されていた。


 ――迷う必要なんてなかった。


 このまま外に出れば、僕を待っているのは空腹と孤独、そして冷たい公園の水道水だ。


 対してこのペンを取れば、最低限――いや、それ以上の暮らしが約束される。


「……分かりました。引き受けます。あなたが餓死しないように、僕がしっかり『管理』しますね」


 僕は震える手で、契約書にサインを書いた。


 これで今日から、僕は浮浪者寸前の高校生から、世界一贅沢な『家政夫』に変わった。


「賢明な判断ね、高丘玲於奈たかおかれおな。期待しているわ」


 美鈴は満足げに頷き、再び自分の研究用モニターへと視線を戻した。


 契約は成立した。俺は五つの札束を握りしめ、ようやく自分の居場所が決まったことに深い安堵を覚えた。


 だが、ふと契約書の最後の一行が目に留まった。他の項目よりもさらに小さな文字で書かれた、追記の条項。


 ※付帯条項:なお、業務内容に含まれない身体的接触、および精神的ケアの要求については、双方の合意の上、別途相談とするものとする。


「業務内容に含まれない身体的接触、って何……?」


 その言葉の意味について深く考える前に、僕は美鈴に「早速ですけど、部屋の片付けを始めていいですか?」と問いかけていた。


 それが、これから始まる『甘すぎる地獄』への、本当の入口だとも知らずに。

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