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第2話:絶望の淵で、至高の出汁茶漬けを

 ゴミの山に手を突っ込み、その細い足首に触れる。


「……死んではいないみたいですね。生きてる。まだ温かいです」


 かすかな脈動と、逃げ出しそうなほど儚い体温を感じて、僕は安堵の息を漏らした。


 資料の束をどけると、そこには一人の少女が埋もれていた。


 色素の薄い、さらさらとした銀髪。陶器のように白い肌。閉じられたまぶた睫毛まつげは驚くほど長い。


 その顔に、覚えがあった。と、言っても直接会って話をしたことがあるわけではない。何度か遠目に見たことがあるだけだ。


 天ノ川美鈴(あまのがわみすず)。僕が通う都立高校に籍を置く天才女子高生。10代で革新的な『次世代エネルギー』の特許を取得し、その個人資産は既に数百億円を超えるという噂を聞く。


 知的で整った美貌のために口さがない生徒たちからは『氷姫アイスドール』などとあだ名されている。


 春崎が、呆れたような、でもどこか悲しげな溜息をつく。


「……先生。またですか」

「……また?」

「頻繫にこういうことがあるんです。……今回は三日間、研究に没頭して一歩も部屋から出なかったそうです。最後に何を口にしたかも覚えていないと。このままでは本当に、人類の知性が一つ、栄養失調というマヌケな理由で失われてしまう」

「三日!? ……冗談でしょ」


 たった一日何も食べていないくらいで弱音を吐いていた自分が途端に情けなくなる。僕は反射的に、リビングの奥にあるキッチンへと走った。


 そこは、この魔窟の中で唯一、暴力的なほど清潔な空間だった。海外製の巨大な冷蔵庫に、見たこともない最新式のオーブン。だが、どれも一度も使われた形跡がない。


 冷蔵庫を開ける。中には、秘書の春崎が買い溜めたのだろう最高級の食材が詰まっていた。


 だが、その多くが消費期限の瀬戸際だ。一房数千円はしそうなシャインマスカットがしなびかけ、最高級の真鯛の切り身が、その鮮度を失おうとしている。


「……もったいないなぁ」


 極貧生活を送ってきた僕にとって、それは犯罪に近い冒涜だった。気づけば、僕は袖を捲り上げていた。


「春崎さん、勝手に冷蔵庫の中味を使わせてもらいますね。……死にかけの人間にいきなり重いものはダメです。まずはこれだけ助け出しますね」


 僕は迷わず、真鯛の切り身を手に取った。


 表面のドリップを丁寧に拭き取り、わずかな酒と塩で臭みを抜く。未使用だった高級な出汁パックを贅沢に二つ使い、鍋でじっくりと琥珀色の液体を抽出していく。


 台所に、澄んだ出汁の香りが立ち昇る。それだけで、淀んでいた部屋の空気が一変した。


 鯛の表面を強火でさっと炙り、香ばしさを引き出す。


 本来ならば炊飯器でご飯を炊きたいが、残念ながらそんな余裕はない。全く使われていない炊飯器の横で、これまた手つかずの真空パックの白米を見つけた。手早く電子レンジで温めて椀に盛る。


 炙った鯛を乗せ、刻んだ三つ葉と、冷蔵庫の隅で眠っていた本山葵を添える。


 仕上げに、沸騰直前の熱い出汁を、縁から静かに注ぎ込んだ。


「……ん」


 リビングから、小さな、小さな声が聞こえた。


 僕はお盆に椀を乗せ、ゴミの山へと戻る。少女が、うっすらと目を開けていた。


「……何の、匂い……? 嗅覚神経が、異常なほど、刺激されて……」

「いいから食べてください。死にたくないでしょう」


 僕は彼女の体を起こし、スプーンで出汁を一口、その青白い唇に運んだ。黄金色の液体が、彼女の口内に滑り込む。


「……っ!」


 少女の肩が、びくりと跳ねた。


 次にスプーンを運ぶ間も惜しむように、彼女は僕の手から奪い取るようにして椀を掴んだ。熱い出汁を啜り、鯛の身を口に運ぶ。


「はふっ、……熱、……でも、美味しい……何これ、細胞が、……起きていく……」


 夢中で、彼女は出汁茶漬けをき込んだ。一粒の米、一滴の出汁すら残さない。


 やがて、空になった椀を見つめたまま、彼女は大きく一つ、深呼吸をした。その頬に、微かな赤みが差していく。瞳に、理性の光が宿る。


 彼女はゆっくりと顔を上げ、僕を凝視した。その視線は、未知の物質を分析する科学者のそれだった。


「……摂取した栄養素の吸収効率、および味覚による多幸感の数値。これまでの食事データに該当なし」

「……え? ど、どういう意味ですか?」

「私の脳は、今、これまでにないほどクリアに加速している。……この現象の継続には、君の存在が不可欠だと判断した」


 少女――天ノ川美鈴は、真剣な顔で、だがどこか切実な響きを込めて言い放った。


「……君。私の『外部生命維持装置』になりなさい」

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