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第23話:ディスコミュニケーションの幸福

 パチパチ、と小気味よい音を立てて、キッチンの鍋の中で黄金色の泡が弾けている。


 醤油とニンニク、そして隠し味の生姜の香ばしい匂いが、換気扇を通じてリビングいっぱいに広がっていく。鶏もも肉が最適な温度で揚がっていくのを見守りながら、僕は手際よく油を切って皿に盛り付けた。


「お待たせしました。リクエスト通り、メニュー表の『3番』。唐揚げです」


 ダイニングテーブルに大皿を置くと、リビングのソファでノートPCを開いていた美鈴が、ふいと顔を上げた。彼女の瞳が、唐揚げの山を見た瞬間にわずかに輝く。だが、すぐにツンと澄ました顔を作り、パタパタと席についた。


「評価するわ、高丘くん。時間通りの提供ね。……それから、今更だけど、ランチボックスの件も合格点よ。特に、あの赤くて多足類の形状をした加工肉――」

「タコさんウインナーのことですか?」

「……赤くて多足類の形状をした加工肉の塩分濃度と食感は、私の脳内報酬系に極めて効果的な刺激を与えたわ」

「それは良かったです。それで、そのあとの廊下でのドヤ顔は何だったんですか?」


 僕が苦笑しながら向かいの席に座ると、美鈴は誇らしげに胸を張った。


「あれは完璧な通信プロトコルの確立よ。パブリックな空間において、他個体に情報を傍受されることなく、君というリソースへ正確に要求リクエストを伝達する。我ながら非の打ち所がない情報伝達モデルだったわ」

「あのですね。あれのおかげで学校では、天ノ川さんが僕に死の宣告を下したとか、スリーアウトの罰を与えたとか、とんでもない誤解をされてるんですよ。長谷川くんなんて本気で僕の心配をしてましたからね」


 僕が呆れて言うと、美鈴は小さく鼻を鳴らし、箸でジューシーな唐揚げを一つつまみ上げた。


「他個体の誤認などどうでもいいわ。周囲がどう勘違いしようと、私と君の間にだけ正確に通じる暗号が存在する――その事実の方が、情報セキュリティの観点からも、その……非常に……」


 美鈴はなぜか言い淀んだ。僕は不思議に思いながらも言葉を繋ぐ。


「まあ、でも確かに二人の間だけで通じる暗号ってちょっとエモいですよね」


 彼女は納得したように頷いた。


「その『エモい』という言葉の意味は分からないけれど、そうした暗号手段の『価値』が高いのは確かね」


 妙に滑らかで不自然な物言い。それが、僕の心の隅に引っかかった。


「……天ノ川さん、もしかして初めから『エモい』って言おうとしてました?」


 僕が小さく微笑んで突っ込むと、美鈴の動きがピタリと止まった。


 最近、彼女がネットの流行語や若者言葉を『論理的分析』と称して検索していたのを知っている。今のも、本当は「エモい」と言いたかったのを、恥ずかしがって「価値が高い」と言い換えたのだ。


 彼女はたまにこうして年相応の女の子らしく見られるのを嫌がることがある。それがなんだか無性に可愛らしい。


「何かしら。私はただ、暗号の共有による心理的安全性(ロイヤリティ)の向上について述べているだけで――」

「分かりました。唐揚げ、冷める前に食べてくださいね。……暗号の件、実は僕もちょっと嬉しかったですよ。エモくて」

「うるさいわね」


 美鈴は顔を真っ赤に染め上げ、言い訳を強制終了するように唐揚げを口に放り込んだ。


 サクッ、と衣が小気味よい音を立てる。肉汁が口の中に広がった瞬間、彼女はと小さく身悶えし、両手で頬を押さえた。あまりの美味しさに怒るのも忘れて、幸せそうに目を細めている。


 周囲の人間は、僕たちの関係を『冷酷な天才と、それに虐げられるライフマネージャー』だと思っている。言葉が通じていない、ディスコミュニケーションの極みだと。


 けれど、その誤解の裏側で、僕たちにだけ伝わる贅沢な秘密がある。周囲が勘違いすればするほど、この食卓の温かさと、二人だけの暗号が特別に思えてくるのだから、不思議なものだ。


「……高丘くん」


 三つ目の唐揚げを名残惜しそうに飲み込んだ美鈴が、まだ少し赤い顔のまま、箸を置いて僕を指差した。


「今回のプロトコル成功を受けて、次の仕様変更アップデートを提案するわ。……次は、学校ですれ違う時に指を『五本』立てたら、その日の夜の『定時メンテナンス(ハグ)』の時間を五分間に延長する、というサインを構築するわよ」

「それは却下です。僕の心臓がちません」

「指の本数をゼロ本にしたらその場でハグ……緊急メンテナンスを行うというのは?」

「もっとダメです! というか、指の本数がゼロ本って何ですか。グー!? 僕が殴られるのかと周りに思われますよ!」


 僕が即座に突っ込むと、美鈴はおよそ天才らしからぬ不満げな声を漏らして、次の唐揚げに箸を伸ばす。


 しばらく黙って夕飯を食べ進めていた彼女はわずかに口角を上げた。


「……高丘くん。君は最近、出会った頃と少し変わった気がするわ」

「僕がですか? 天ノ川さんがじゃなくて?」

「私は何も変わらないわ。変化が生じているのは君よ。そうね……上手く言語化できないけれど、私は今の君の方が好きよ」

「……天ノ川さん、たまにいきなり恥ずかしいことを言いますよね。よく分かりませんが、ありがとうございます」


 僕はこそばゆい気持ちを誤魔化そうとして唐揚げを頬張った。


 窓の外には、相変わらず冷たく輝く都会の夜景。けれど、この部屋の中だけは、誰も知らない秘密の暗号と、ジューシーな唐揚げの熱気で、どこまでも甘く満たされていた。


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