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第21話:タコさんウインナーという非論理的トラップ

 昼のチャイムが鳴り響くと同時に、天ノ川美鈴(あまのがわみすず)は机の上に、今朝手に入れたランチボックスを丁寧に広げた。


 普段の彼女であれば、栄養ゼリーを無感情に流し込むか、秘書の春崎が用意した味気ない高級仕出し弁当を事務的に咀嚼そしゃくするだけだった。そのため、この数日間、彼女が自分の席で普通のお弁当箱を開ける姿は、クラスメイトたちの間で音を立てずに大きな動揺を広げていた。


 だが、美鈴の放つ他個体の接近を拒絶する絶対零度のオーラのせいで、誰も話しかけることはできない。生徒たちは遠巻きに、息を潜めて『氷姫アイスドール』の優雅な食事風景を観察していた。


「……ふふ。おかずの配置バランスは、色彩工学の観点からもおおむね合格点ね」


 蓋を開けた美鈴は、心の中で小さく満足の呟きを漏らした。


 甘辛く炒められた照り焼きチキン、隙間を埋める鮮やかなブロッコリーとプチトマト、そして出汁の香りがふわりと鼻腔をくすぐる、黄金色の綺麗な卵焼き。玲於奈れおなが彼女の好む栄養素と、見た目の美しさを両立させて作った、完璧な構造物だった。


 箸を手に取り、まずはチキンを口に運ぶ。


「……ん。咀嚼によるセロトニンの分泌が促されるわ。味付けの塩分濃度も計算通りね」


 無表情のまま、しかし心の中では玲於奈の料理の腕前を大絶賛しながら、美鈴は上品に食べ進めていく。周囲の生徒たちは「さすが天ノ川さん、お弁当を食べているだけなのに、まるで実験データを精査しているような厳格さだ……」と勝手に戦慄していた。


 しかし、事件は食事の中盤に起きた。


 美鈴が、美しく巻き上げられた卵焼きを一切れ、そっと箸で持ち上げて退けた、その時のことだ。


 卵焼きの陰になるように弁当箱の隅に隠されていたものがあった。それは、赤くて、不自然に足が八本に裂かれた、極めて幼児性が高くて名状しがたい造形物だった。――それが、二匹、ちょこんと並んで鎮座している。


「ッ……!?」


 美鈴の箸が、完全にフリーズした。


 視覚センサーから脳へ送られた画像データが、彼女の処理能力を超えてエラーを弾き出す。


(な、何よ、これ……。タコ型……ウインナー? しかも、黒ゴマで精密な『目』まで配置されているわ……)


 それは、美鈴が幼少期に激務の両親から一度も作ってもらえず、密かに「一度でいいから食べてみたい」と記憶というデータベースの奥底へと格納していた、憧れの食べ物だった。


 なぜ玲於奈がそれを知っているのか。いや、知るはずなどない。数日前、テレビのグルメ番組に映ったそれを見て、彼女がほんの一瞬、時間にしてわずか数秒だけ視線を静止させていたのを、彼が見逃さなかったのだ。


(高丘くん、まさかこんな子供っぽいトラップを……。私が喜ぶとでも思ったのかしら。これでは私の『孤高の天才』というパブリックイメージが崩壊――)


 半ばパニックに陥りながらも、美鈴は周囲の視線を意識し、鉄の意志で無表情を維持した。


 そして、周囲に悟られないよう、電光石火の早業でタコさんウインナーを一匹、口の中へと隠滅した。


 カリッ、とジューシーな皮が弾け、懐かしくてジャンクな旨味が口いっぱいに広がる。


(――――っっっ!)


 言葉にならない衝撃が美鈴の脳内を駆け巡った。


 美味しい。悔しいけれど、猛烈に美味しい。洗練された高級料理とは真逆にある、けれど五臓六腑に染み渡るような、優しくて甘い、彼の味がする。


(く、悔しい……。私の脳内報酬系が、こんな油と豚肉の加工品によって完全に制圧されるなんて……。心拍数が急上昇して、視床下部が熱い……。なんて非論理的な、暴力的な美味しさなの……)


 遠巻きに見ている生徒たちの目には、「天ノ川さんが、タコの形をしたウインナーを睨みつけたまま微動だにしない。まさか、毒殺を警戒しているのでは……?」と映っていた。


 だが、その裏で美鈴は、あまりの幸福感と悶絶で、自宅ならのたうち回っているほどの精神的飽和状態に達していた。彼女はもう一匹のタコさんを、まるで世界で一番大切な精密機械でも扱うようにそっと箸でつかみ、今度は愛おしそうにゆっくりと噛み締めた。


***


「……ふぅ」


 一粒の米も残さず完食した美鈴は、ランチボックスの蓋を閉め、深い息を吐き出した。


 脳は完全に覚醒し、心はかつてないほどの充足感で満たされている。


 周囲の生徒たちは「無事に食事が終わったようだ……」と安堵の息を漏らしていたが、空になった弁当箱を見つめる美鈴の瞳には、既に別の論理的思考が走っていた。


(今日のディストリビューションは、私の完全な敗北よ、高丘くん。……でも、やられっぱなしでは私のプライドが許さないわ)


 この溢れんばかりの脳内報酬系を、彼に最も効果的にフィードバックするにはどうすべきか。


 学校という公共の場で、周囲に悟られず、かつ彼にだけ確実にお返しをするための、新たな通信プロトコルを構築する必要がある。


 美鈴はスッと席を立ち、教室のドアへと向かった。


 その胸の奥では、五限目の移動教室ですれ違うであろう玲於奈に向けた、あるリベンジのための数式が、静かに組み立てられつつあった。

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