第1話:開かずの部室
——時間を、少しだけ巻き戻す。
話は、この少年がまだ"ただの佐藤カイ"だった、その日のから始まる。
昼休みの教室。あちこちで笑い声が弾ける中、佐藤カイは、今日もひっそりと教室の隅で縮こまっていた。
佐藤カイ、十七歳。
ずり落ちた黒縁眼鏡を、細い指で押し上げる。小さく丸めた背中。窓際の一番後ろ。クラスの輪から、ぽつんと切り離されたその席だけが、彼の居場所だった。
誰とも話さず、ただ時間が過ぎるのを待つだけ。高校に入ってからずっとそうだ。いや、中学の頃から変わらない。自分はずっと「いないほうがマシな存在」だとさえ思うこともある。
いじめを受け始めたのは小学生の頃だった。その時は些細な冗談やいたずらの延長だったが、気がつくと周りの輪から少しずつ外れ、何をしても誰かの不満や怒りの矛先が自分に向けられるようになっていた。それは中学でも高校でも変わらなかった。
「何も変えられないんだ、どうせ……」
そう、何度も心の中でつぶやいた。変わりたいと願ったことは何度もあるし、何度も勇気を振り絞ろうとした。
けれど、勇気を出すたびに打ちのめされてきたのも事実だ。いっそ、見て見ぬふりをして生きるほうが楽かもしれない。
周りのクラスメイトは楽しそうに話しているが、カイはそこに入っていけない。もう、どうやって会話に入ればいいのかも忘れてしまった。
コミュ障な自分が話しかけることで相手に迷惑をかけるかもしれないという思いがいつも先に立ち、結局誰とも話さずに一日を過ごすことになる。
「よお、佐藤」
ガッ、と机を蹴る音。
カイは、急に名前を呼ばれて、ビクッと体が震える。
顔を上げると、にやついた男子が三人。なかでもリーダー格の石田はカイとは対照的に小太りで背の高い。ニキビの後が目立つ顔でニヤリとしながらカイの机に土足を乗せて、見下ろしてくる。
「今日の放課後、付き合えよ」
それは命令だった。 逆らえば、また殴られる。
拒否権なんて、最初から無い。カイはうつむいたまま、こくり、と頷いた。
——放課後。
カイは、石田たちに無理やり校舎の奥へ連れて行かれた。そこには、使われていない古い部室があった。
薄暗くて、埃臭い。この部屋、噂では「開かずの部室」って呼ばれてる場所だ。
「知ってるだろ?この部屋さ、なんか出るらしいぜ」
石田は楽しそうに言いながら、錆びついたドアノブを回した。しかし、ドアは固く閉ざされたままだ。
「でも今日は開けるんだよなぁ、佐藤が」
そう言って、石田はカイにスマホを押し付けてきた。取り巻きの連中は、スマホでカイを撮りながら笑っている。
「肝試ししてこいよ。配信しながらな。面白くなきゃ、わかってるよな?」
カイは、手の中で冷たく感じるスマホを見つめた。心臓がバクバクしている。だけど、逆らう勇気はなかった。今までも、ずっとそうだ。
「……わかったよ」
震える声でそう答えると、石田たちに押されて、部室の前に立った。ドアノブを恐る恐る回すと、ガタガタ……という音とともに、意外にも簡単に開いた。暗くて、古い木の匂いが漂ってくる。
「早く入れよ!ちゃんと配信しろよ!」
震える手で、引き戸を引く。ぎぃ……と、嫌な音。
廊下から取り巻きの笑い声が聞こえた。
カイはスマホのライトを頼りに、部室の中に足を踏み入れた。
黴と埃の匂い。窓のないその部屋は、昼間なのに、夜みたいに暗かった。
スマホのライトで照らしながら、奥へ。
部室の中は予想以上に広かった。窓がないせいで、薄暗くて視界が悪い。古い机や椅子が無造作に積み上げられていて、足元には埃が積もっている。
「何も、ないよな……」
カイはスマホを握りしめながら、そっとつぶやいた。こんなところに幽霊なんているわけない。ただ、怖がらせるための嘘だ。
ほっと、息をついた——その時だった。
何かが視界の隅に映った。
部屋のいちばん奥。
空間が、ぐにゃり、と歪んだ。
「なんだ、あれ……?」
部屋の奥、光が渦を巻くように垂直に立っている。
壁があるはずの場所に、ぽっかりと。どこにも繋がっていない"闇の穴"が、口を開けている。
ニュースで、何度も見た。あれは——
「まさか、ダ……ダンジョンの、ポータル……? なんで、こんな所に——」
恐怖に足がすくんでしまう。部室の外の背後から、石田たちの笑い声がまだ聞こえるが、なんだか遠く感じる。
カイはその場に立ち尽くし、スマホのカメラをその歪んだ空間に向け、録画ボタンを押そうとしたその時だった――。
「うわっ!」
突然、その歪んだ入り口へ吸い寄せられた。
逃げようとした足が、床に張りついて動かない。
次の瞬間。
ゴォッ——!!
突風。思わずスマホを落としてまった。
その直後、カイの体は、その歪んだ闇へと一気に呑み込まれた。
「うわあああっ!?」
石田たちの笑い声も、部室の暗がりも、すべてが——遠ざかる。
そして。
——気がつくと、ボクは、見たこともない荘厳な場所に、立っていた。
(つづく)




