【親友の側】知らなかった令嬢は、黙っていた令嬢は、言わせた令嬢は
独立した三部作の二作目です。各作それぞれ完結しますが、初読は【断罪された側】→【親友の側】→【悪女の側】の順がおすすめです。
建国祭の三日前、私は王宮の温室で、聞いてはいけないものを聞いた。
「違います、殿下。そこは笑って言うのです」
棚の陰から声がした。男爵令嬢ミレーヌ。近ごろ王太子殿下が入れ揚げていると噂の、商家上がりの令嬢だ。
「『理由を言う必要を認めない』。はい、もう一度」
「……そんな言い方をすれば、彼女は三百人の前で恥をかく」
「そのために言うのです。あなたが悪辣であるほど、あの方は自由になれる」
私は棚の陰で、鉢植えを抱えたまま固まっていた。
二人が読み合わせていたのは、三日後の夜会で私の親友に突きつけられる、婚約破棄の台本だった。
固まったまま、私は五秒で三つの可能性を考えた。悪い冗談。芝居の稽古。二人の駆け落ちの算段。どれも、聞こえてくる台詞と噛み合わなかった。
四つ目の可能性だけが、噛み合ってしまった。
◇◇◇
殿下が去った後、私は棚の陰から出た。
ミレーヌは驚かなかった。私の足音に、とうに気づいていたらしい。
「盗み聞きとは、伯爵令嬢らしくもない」
「あなたこそ、男爵令嬢らしくない遊びをなさるのね。……あれは何。アデールを、公開処刑する台本かしら」
「逆です」
彼女は、伝票でも読み上げるような声で言った。
「あの方を、無傷で外へ出す台本です」
「……無傷ですって。三百人の前で、傷つけるのに」
「名誉と未来の話です。心まで無傷にできるとは、申しておりません」
王家と公爵家の婚約は、両家の合意という名の鎖でできている。円満に解くには理由が要り、理由は必ずどちらかを傷つける。アデール様の側の事情なら彼女が。王家の都合なら、公爵家との間に消えない亀裂が。
「けれど、殿下の一方的な、理由を示さぬ破棄だけは別。非の全てが王家に載り、あの方は同情と賠償だけを受け取って、自由になります。契約は、破り方で値段が変わりますのよ」
「……密室で解けば済む話でしょう。何も、三百人の前でなくても」
「密室で解けば、公爵家が娘を差し出したと噂されます。書面だけなら、王家があとから理由を書き足せる。ですから三百人の前で、殿下ご自身の口に、理由を拒ませるのです」
ミレーヌは、温室の硝子越しに王宮の方を見た。
「証人の前で示さなかった理由は、あとから責任を軽くする材料には使えません。付け足せば、王家が、三百人を証人とした宣言を、自ら翻すことになりますから」
「理由がなければ、世間は勝手に探すわよ」
「ええ。ですから、探されたときの答えも先に置いておきます。心変わりした王太子と、たぶらかした悪女。疑いの置き場所は、殿下と私が引き受けます。……あの方の欄だけを、空白のまま守り切るのです」
「それなら、殿下があなたを選んだ、と正式な理由にすればいいでしょう。空白より、よほど分かりやすいわ」
「噂なら、私が被って終わりです。けれど理由として記録に残れば、あの方には『王太子の心を繋ぎ止められなかった令嬢』という履歴が付く。噂は消えますが、記録は残ります」
「……なぜ、あなたがそこまで」
「昔、借りたものがあるだけです」
「借り?」
「あなたには関係のない、古い帳簿の話です」
それきり、彼女は動機の棚を閉めた。代わりに算段の棚だけを開けて見せた。賠償の相場。世論の傾き。フォルタン公爵家が受け取る同情の量。感情の話をしているのに、そろばんの音がした。
「……あなた、それでいいの。悪女の名前が、一生ついて回るのよ」
「名前は道具です。使い道があるなら、悪名でも構いません」
この人は本気だ、と分かった。そして本気の人間の計画は、半端に触ると、いちばん大事なところから壊れる。
「……せめて、アデール本人にだけ、知らせることはできないの」
「知らせた瞬間、あの方も共犯になります。あの方の名誉を守るための計画に、あの方だけは、加えられません」
ミレーヌは、少しだけ声を落とした。
「それに、あの方はきっと、殿下を庇って、ご自分の落ち度を一つお作りになります。せっかく空白にした欄を、ご自分で埋めてしまう。……そういう方でしょう」
反論できなかった。あの子は、そういう人だ。
彼女は私をまっすぐ見た。
「止めたければ、どうぞ。私が殿下に台本を言わせようとしている、とあなたが告げれば、この計画は今夜で潰れます。あの方は醜聞から守られて、あの方のままの十年を、もう十年続けるでしょう」
私は言葉に詰まった。
アデールの十年を、私は隣で見てきた。式典の根回しを一人で抱え、殿下の忘れ物を拾って回り、疲れを礼法で隠す癖ばかり上手くなっていく十年を。先月、彼女は公務の途中で一度、目を閉じて揺れた。周りは深い礼だと思った。私だけが、あれは立ったまま気を失いかけたのだと知っている。
それに、私には忘れられないことがある。
十三の私が、夜会の階段で裾を踏み破って笑われた日。真っ先に自分の裾を同じだけ破って、「今年はこれが流行るのよ」と言い張った子だ。あの子は昔から、人のために平気で自分の布を破る。そのくせ、破ったことを翌日には忘れている。
忘れられた側は、忘れない。
「黙っているなら」
ミレーヌは、小さな手紙を差し出した。封蝋のない、白い手紙。
「当夜、私が直接お渡しします。ですがもし私が渡し損ねたら、これをあの方に。……あなたは今夜から、私の共犯です」
受け取ってしまった。
受け取った瞬間から、三日間の地獄が始まった。
◇◇◇
一日目、私は十回、アデールに手紙を書きかけた。十回、破いた。
書けば、止められる。止めれば、あの計画ごと彼女の出口が消える。
私は生まれて初めて、自分の口の軽さではなく、重さを呪った。
二日目、彼女とお茶を飲んだ。
「秋の殿下のお誕生祝いだけれど、大聖堂の楽団をお呼びしようと思うの。殿下、ご自分では仰らないけれど、低い弦の音がお好きだから」
「……そう」
「それで、招待の序列で少し悩んでいて――ソレンヌ、聞いている?」
「聞いているわ。弦の音でしょう」
「あなた、顔色が悪いわ。ちゃんと眠っている?」
二日後に破棄される人が、破棄する男の祝いを整えながら、私の顔色を心配していた。
祝いの支度ごと、彼女の手から取り上げてしまいたかった。全部、話してしまいたかった。テーブルの下で、私は自分の手首を握って堪えた。
でも、話せばどうなる。
計画は潰れ、彼女は守られ、そして檻に戻る。私が守るのは彼女ではなく、彼女の檻だ。
夜会の前夜、私は一睡もできなかった。天秤の片方に「明日の夜、砕かれる親友」を、もう片方に「一生をかけて磨り減る親友」を載せて、朝まで揺らし続けた。
答えは出なかった。ただ、夜会の支度をする手だけが動いた。
黙る、と決めた顔を、私は鏡の中に見た。ひどい顔だった。
化粧で塗り潰しながら、私は取引をした。黙る代わりに、あの夜の彼女の周りから、転べる場所を全部なくす。馬車も、薬も、立ち位置も、帰り道も。
神様とではなく、自分との取引だった。神様は、こういう夜に限って留守にする。
◇◇◇
建国祭の夜会。
私はたぶん、あの大広間で、世界一忙しい傍観者だった。
開演前に、フォルタン家の馬車を裏口へ回すよう御者に頼み、心付けの金貨を添えた。
「裏口へ? うちのお嬢様に、何かあるんですか」
「何もないわ。何もないけれど、今夜は早く、お帰りになりたくなると思うの」
御者は少し考えて、頷いた。それから、金貨を私の手へ押し返した。
「お嬢様のためなんでしょう。なら、こいつは要りません」
フォルタン家に十五年仕える人だ。後で知ったことだが、彼の娘が熱を出した冬、医師を手配し、三晩、厨房から粥を届けさせたのがお嬢様だという。この屋敷は、そういう借りでできている。
倒れたときのための気付け薬を、扇の内側に忍ばせた。人垣のどこに立てば、彼女が振り向いた先に私の顔があるか。それだけを考えて、位置を選んだ。
「アデール・フォルタン。お前との婚約を、本日この場をもって破棄する」
台本どおりの声がした。
知っていても、心臓が跳ねた。知らなかったら、と想像して、指先が冷えた。
三百人の囁きの中で、私は台本にない音だけを探していた。彼女の呼吸。衣擦れ。倒れる前に来る、あの小さな揺れが来ないかどうか。
温室で二度聞いた台詞は、本番がいちばん上手かった。皮肉なものだ。殿下の滑らかな話しぶりは、アデールが十年かけて仕込んだものだ。その成果が、最後に発揮されたのがこれだった。
一度だけ、最後の一語の前に、殿下の視線が泳いだ。台本にない間だった。気づいたのは、温室で稽古を聞いた私くらいだろう。……それでも、次の一語は正確に出た。あの正確さが、あの人の払い方だった。
アデールの背中は、震えて、それでも折れなかった。
彼女が理由を尋ね、短い一言で断ち切られ、人垣がどよめく。私は合図より早く歩き出していた。手を取る。冷え切っていた。何も言わずに出口へ歩く。道順は、昨日のうちに三回下見した。
扉の手前で、ミレーヌとすれ違った。
彼女の手が、アデールの袖へ手紙を差し込むのを、私だけが見ていた。
渡し損ねたときのための二通目は、私の胸元で、出番を失った。あの人は、最後まで自分の役を果たした。
◇◇◇
それからの一年を、私は南の丘で過ごした。
王家の賠償と、婚約解消の後始末が正式に片づくまでは、黙る理由があった。口が滑れば、全てが崩れる時期だった。
その理由がなくなった頃には、彼女はようやく、夜に眠れるようになっていた。この眠りを壊したくない――そう、自分に言い訳をした。正しい理由で始めた沈黙が、いつからか、ただの臆病の沈黙に変わっていた。
口うるさい友人枠として、食べなさい、眠りなさいと言い続けた。アデールは少しずつ戻ってきた。屋根を青く塗り、下手な水彩を描き、その下手さごと笑うようになった。
屋根を塗る日は、職人と一緒に梯子を押さえた。
「青って、あなた、また思い切った色ね」
「ええ。雨の日でも、遠くから家が分かるように」
「誰が迷い込むのよ、こんな丘に」
「さあ。……でも、いい考えだと思うわ」
青い屋根は、迷い込む誰かのためというより、帰ってくる自分のための色に見えた。それでいい。帰る場所の色を自分で選べるのは、回復の証拠だ。
水彩は十枚を超え、居間の壁は展示室になった。貼る係は私だ。検品基準は甘い。笑って描いた絵なら、全部合格にしている。
順調だった。私の胸の底以外は。
ある晩、暖炉の前で、彼女がぽつりと言った。
「ソレンヌ。あなただけよ。何も知らないで、ただ味方でいてくれたのは」
何も知らないで。
その言葉は、賞状の形をした焼きごてだった。私は笑って、紅茶を注ぎ足した。手が震えないよう、ポットを両手で持った。
言えばこの穏やかな夜が壊れる。言わなければ、私はこの賞状を一生掲げて生きる。
温室の日から、私はずっと、同じ天秤を抱えている。
◇◇◇
雨の日、彼女はとうとう手紙を開けた。
廊下まで届いた泣き声に、私は部屋へ駆け込んだ。便箋には目を向けず、声を上げて泣く彼女の背を、さすり続けた。見る資格が、私にはまだなかった。
泣き止んだ彼女は、お礼状を書きたい、宛先は分かるかと聞いた。
分かる。分かってしまう。私は彼女の親友で、あの人の共犯だから。
「……ええ。探せるわ、たぶん」
その夜、私は決めた。宛先を渡すなら、私の罪も一緒に渡すべきだと。
翌朝、青い屋根の下で、私は全部話した。
温室で聞いたこと。三日間、黙ったこと。あの夜、馬車と気付け薬と立ち位置を整えて、砕かれる瞬間を黙って待っていたこと。
「私は、知っていたの。三日前から、全部。……あなたが世界でいちばん傷つく夜を、知っていて、黙っていた」
言い終えて、私は初めて、彼女の顔を見られなかった。
長い沈黙だった。暖炉の薪が一度爆ぜて、二度目が爆ぜるまで、彼女は何も言わなかった。
罵られる覚悟はしていた。絶交も、覚悟していた。していなかったのは――
やがて、アデールは言った。
「どうして、私に選ばせてくれなかったの」
その一言だけは、静かだった。静かだったからこそ、私は顔を上げられなかった。
「……あなたなら、止めると思ったから」
「ええ、止めたでしょうね。自分があと十年耐えれば済む、と思って」
彼女は膝の上で、手を組み直した。
「だから、黙ってくれてよかったとは、簡単には言えないわ。あの夜は、本当に怖かったもの」
それから彼女は、長く息を吐いた。
「でも――あなたは、あの三日間も、そのあとの一年も、ひとりで抱えていたのね」
顔を上げた。彼女の顔にあったのは、怒りだけではなかった。泣いてもいなかった。ただ、痛そうな顔をしていた。私のために。
「怒って。責めてくれた方が、楽になれるわ」
「あなたを楽にするために、怒るのは嫌よ」
彼女はきっぱり言って、それから少しだけ笑った。
「私、あの夜、人垣の中にあなたの顔を見つけて、それで立っていられたの。黙って出口を残してくれたことと、あの場所に立っていてくれたこと。……私は二回、あなたに助けられたのね」
私は泣いた。一年分、まとめて泣いた。
泣き終わった私に、彼女は言った。
「次からは、黙らないで。重いものは、半分こにして」
「……善処するわ」
「善処じゃなくて、約束」
約束、と私は復唱した。子どもの頃、木苺のジャムを半分こにしたときと同じ言い方だった。あの頃から彼女は、半分こにすると、大きい方を私に寄越す癖がある。
重いものも、きっと大きい方を取ろうとするに違いない。させないのが、これからの私の仕事だ。
口うるさいのは、どちらだったか。
◇◇◇
黙っていた三日間を、私は一生忘れないだろう。
忘れないことが、たぶん、私の払う分だ。
今日も丘の家では、下手な水彩が一枚増える。私はそれを、居間の壁に貼る係だ。
重いものを半分こにする練習は、まだ始まったばかりだった。
(了)
最後までお読みくださり、ありがとうございました。
本作は、独立した三部作の二作目です。一作目【断罪された側】は公開中です。三作目【悪女の側】は明日の夕方に投稿予定で、あの夜の台本を書いた本人が、最後の一本を語ります。傘の話も、そこで全部わかります。
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作者は普段、専門職の主人公が異世界の問題を地道な実務で解決するお仕事ファンタジーや、SF短編を書いています。よろしければ、作者ページものぞいてみてください。
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