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壊れかけのオルゴールと騒がしい家族たち  作者: 小径つむぎ
第一章 日常編

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第8話 触っていい音

――帝国暦三五〇年・春初め サザ子爵家邸裏・作業小屋――


 屋敷の裏手には、白い石壁から少し離れ、木々の間を抜けるように細い道が続いている。


 春の光は枝の隙間を通り、地面に細かく落ちていた。


 風が吹く。


 右の木も。


 左の木も。


 ほとんど同じ方向へ枝を揺らす。


 クロウはその道を歩きながら、左右に並ぶ木を見た。


 左に七本。


 右に六本。


「……」


 もう一度見る。


 左。


 一、二、三、四、五、六、七。


 右。


 一、二、三、四、五、六。


 やっぱり合わない。


 昨日もそうだった。


 一昨日も、たぶんそうだった。


 木が一日で増えたり減ったりするはずもない。


 分かっている。


 木が一本少ないからといって、道が通れなくなるわけでもない。


 歩くのに困るわけでもない。


 それでも視界に入るたび、胸の奥が少しざわつく。


 左側を見る。


 それから右側を見る。


 一本分だけ空いている。


 そこにあるはずの影がないように見える。


 少し足が止まりそうになった。


 でも、そのまま歩いた。


 木は動かせない。


 少なくとも、今は。


「……あとで考える」


 小さく言って、前を見る。


 全部を揃えればいいというものじゃない。


 父様も、レナ様も、似たようなことを言っていた。


 それは分かっている。


 でも。


 木の数くらいは揃っていてもいいと思った。


 風がもう一度吹いた。


 六本も七本も、同じ方向へ枝を揺らした。


 数は違う。


 でも、道はちゃんと続いている。


 クロウは少しだけ眉を寄せ、そのまま作業小屋へ向かった。


◇ ◇ ◇


 屋敷の裏にある小さな作業小屋は古いけれど、きちんと手入れされている。


 木の扉を開けると、乾いた木と油、それに金属の匂いがした。


 クロウには慣れた匂いだった。


 壁には工具が並んでいる。


 大きなもの。


 小さなもの。


 先が丸いもの。


 細く尖ったもの。


 棚には壊れかけた時計や、外れた留め金、小さな歯車を入れた箱が置かれていた。


 窓際の机には細かな傷がいくつも残っている。


 誰かが何かを直した跡。


 途中で諦めた跡。


 それでも捨てずに置いてあるものも多い。


 ここは、クロウが落ち着ける場所の一つだった。


 人の声も足音も遠い。


 屋敷の窓が風で鳴る音も、ここまではほとんど届かない。


 何かが乱れていても、ここにあるものなら触っていい。


 見ていい。


 直していい。


 それが分かっている。


 クロウは机の前に座った。


 今日の相手は、小さな置き時計だった。


 片手で持てるくらいの大きさ。


 金色の縁は少しくすみ、文字盤にも細かな傷がある。


 針は動く。


 でも、しばらくすると途中で止まる。


 完全に壊れているわけじゃない。


 動く。


 止まる。


 また少し手を貸せば動く。


 たぶん、どこかの動きが重い。


 クロウは机の上を空けた。


 それから必要なものを並べる。


 細いピンセット。


 小さなドライバー。


 油差し。


 布。


 四つ。


 油差しだけ、ほんの少し外を向いていた。


 クロウは指先で角度を直す。


 同じ向き。


 それだけで、机の上が落ち着いた。


 時計の裏蓋を外す。


 小さな金属音。


 中には細かな歯車が並んでいた。


 噛み合う歯。


 細い軸。


 動くものと、動かすもの。


 これだけ小さな仕組みなのに、どれか一つが重くなれば、全部が少しずつ遅れていく。


 だから、全部を触る必要はない。


 引っかかっているところを見つければいい。


 まず見る。


 それから、聞く。


 クロウはゼンマイをほんの少しだけ動かした。


 歯車が回る。


 一つ。


 次。


 その次。


 途中で、動きが鈍くなる。


「ここ」


 クロウは歯車を一つ外した。


 机の左側へ置く。


 次にもう一つ。


 その隣。


 戻す順番を間違えないよう、外した順に並べていく。


 軸の先を見る。


 古い油が黒く粘って残っていた。


 指で触らない。


 布を細く折り、丁寧に拭う。


 一度。


 まだ残っている。


 もう一度。


 今度は取れた。


 油差しの先を近づける。


 一滴だけ。


 多すぎてもいけない。


 少なすぎてもいけない。


 たぶん、これくらい。


 それだけで十分だった。


 歯車を戻す。


 一つ目。


 二つ目。


 軸を合わせる。


 噛み合う位置を確かめる。


 強く押さえない。


 少し触る。


 戻る。


 もう一度。


 今度は滑らかに動いた。


 蓋を閉じる前にゼンマイを巻いた。


 かち。


 かち。


 小さな音がする。


 クロウは少し顔を近づけた。


 やがて時計が動き始める。


 テンプが左右に振れる。


 ち、ち、ち、ち。


 右。


 左。


 右。


 左。


 同じ幅。


 ほとんど同じ間隔。


 細く、小さな音だった。


 でも、ちゃんと続いている。


 クロウはその音を聞いた。


 こういう音はいい。


 触ってもいい。


 どこを見るかも分かる。


 直しても、誰かの顔が曇ることもない。


 少しだけ手を入れれば、また動き始める。


 ち、ち、ち、ち。


 聞いているうちに、胸の奥も静かになっていく。


 外では風が木の枝を揺らしている。


 でも小屋の中では、時計の音の方が近い。


 ち、ち、ち、ち。


 その時だった。


「クロウ!」


 扉が勢いよく開いた。


 外の光が一気に入る。


 クロウの指が止まった。


 足音。


 近い。


 そう思った次の瞬間、後ろから抱きしめられた。


「エナ姉……!」


 金色の髪が頬に触れる。


 外から入ってきたせいか、髪には春の風の匂いが少し残っていた。


 やわらかい。


 そして。


 腕は少し強すぎた。


「ここにいたのね。探したわ」


「今、時計が」


「大丈夫?」


 エナ姉の声はいつも通り優しい。


 でも近い。


 とても近い。


「ちゃんと休んでる?」


「休んでる」


「本当に?」


「今、休んでた」


 クロウは机の上を見る。


 時計は動いている。


 でも。


 さっきので工具が一本斜めになっていた。


 ピンセット。


 右側が少し上。


 油差しも、元の位置から指一本分くらい動いている。


 それに、背中が痛い。


 心臓にもあまりよくない。


 たぶん、時計にもよくない。


「エナ姉」


「なあに?」


「突然は、少し多い」


 抱きしめていた腕が少し緩んだ。


「……驚いた?」


「うん」


「痛かった?」


 クロウは少し考えた。


 ここで違うと言っても、あとで困る。


 背中はまだ重い。


「少し」


 エナ姉の顔が曇った。


 目が少し下がる。


「ごめんなさい」


 声まで小さくなった。


 悪気がないのは分かっている。


 ただ、近い。


 それに強い。


 今は、その両方だった。


「嫌じゃないよ」


 クロウが言うと、エナ姉が顔を上げた。


「でも、作業中は声をかけてからがいい」


「……声はかけたわ」


 クロウは考えた。


 確かに呼ばれた。


 でも。


「抱きしめる前に」


 エナ姉は少し黙った。


 クロウを見る。


 机を見る。


 斜めになった工具も見た。


 それから、真面目な顔で頷く。


「抱きしめる前に」


「うん」


「分かったわ」


 ようやく腕が離れた。


 背中が軽くなる。


 クロウはまず机へ手を伸ばした。


 斜めになったピンセットを元へ戻す。


 油差しも。


 四つ。


 また同じ向きになった。


 それから時計へ耳を近づける。


 ち、ち、ち、ち。


 まだ動いている。


 クロウは小さく息を吐いた。


「壊れなかった?」


 エナ姉が心配そうに聞く。


「時計は」


「クロウは?」


 クロウは背中を少し動かした。


 まだ少し重い。


 でも動く。


「まだ」


 エナ姉の眉が下がった。


「その言い方、あまり安心できないわ」


「本当だから」


「……そうね」


 困ったように笑う。


 クロウはもう一度時計へ目を戻した。


 テンプは変わらず左右に振れている。


 右。


 左。


 右。


 左。


 さっきの衝撃で少し乱れた気もしたけれど、もう元へ戻っている。


 完全じゃなくても、ちゃんと続いている。


 それでいい。


 隣で衣擦れの音がした。


 エナ姉が一歩近づこうとしている。


 クロウはすぐ顔を上げた。


「抱きしめる前に」


 エナ姉がぴたりと止まった。


 上げかけていた腕まで止まる。


 少しだけ頬が赤くなった。


「……抱きしめてもいい?」


 ちゃんと聞いた。


 クロウは時計を見る。


 机の上の工具も見る。


 それから、自分の背中を少し意識した。


「今は、だめ」


「そう」


 エナ姉は残念そうに頷いた。


 腕を下ろす。


 でも、怒らなかった。


 もう一度抱きしめようともしなかった。


 作業台の横にあった椅子へ目を向ける。


「ここは?」


「座るだけなら」


「じゃあ、ここにするわ」


 エナ姉は椅子を引いた。


 脚が床を擦らないよう、途中から少し持ち上げる。


 クロウはその動きを見た。


 前なら、そのまま引いていたかもしれない。


 エナ姉は静かに座った。


 両手を膝の上に置く。


「じゃあ、見ているだけ」


「それならいい」


 クロウは時計へ向き直った。


 エナ姉は本当に何もしない。


 近くにはいる。


 でも、触れてはいない。


 机にも手を出さない。


 時計を覗き込もうとして少し身を乗り出したけれど、工具には届かないところで止まった。


 ち、ち、ち、ち。


 小さな時計の音が、また作業小屋に響く。


 外では木の葉が擦れる。


 遠くで鳥が一度鳴いた。


 それでも、一番近いのは時計の音だった。


 ち、ち、ち、ち。


 クロウは耳を傾ける。


 さっきより少しだけ狭くなった気はする。


 一人だった場所に、もう一人いる。


 でも。


 触っていいものと。


 触る前に聞いた方がいいもの。


 少しずつ違うらしい。


 エナ姉は隣にいる。


 時計は動いている。


 落ち着く音も、ちゃんと残っていた。



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