第8話 触っていい音
――帝国暦三五〇年・春初め サザ子爵家邸裏・作業小屋――
屋敷の裏手には、細い道が続いている。
白い石壁から少し離れ、木々の間を抜けるように伸びた小道だった。
クロウは、その道を歩いていた。
左右には、街路樹が並んでいる。
けれど、同じではない。
左に七本。
右に六本。
何度数えても、合わない。
昨日もそうだった。
一昨日も、たぶんそうだった。
木が一本少ないからといって、道が通れなくなるわけではない。歩くのに困るわけでもない。
それでも、視界に入るたび、胸の奥が少しだけざわつく。クロウは左側の木を見て、次に右側の木を見る。
一本分、空いている。
そこに、あるべき影がない。
足が止まりかける。
けれど、止まらない。
木は動かせない。
少なくとも、今は。
「……あとで考える」
小さく言って、クロウは視線を前へ戻した。
全部を揃えると、音は死ぬ。
父の言葉を思い出す。
けれど、木の数くらいは、揃っていてもいいと思う。そう思いながら、クロウは作業小屋へ向かった。
屋敷の裏にある、小さな小屋だった。
古い、けれど、手入れはされている。
壁には工具が並び、棚には壊れかけた時計や、外れた留め金、小さな歯車の入った箱が置かれていた。
ここは、クロウの落ち着ける場所の一つだった。
人の声が遠い。
足音も少ない。
何かが乱れていても、ここでは触っていい。
直していい。
整えていい。
クロウは机の前に座った。
今日の相手は、小さな置き時計だった。
古い時計で、金色の縁は少しくすんでいる。
針は動く。
けれど、途中で止まる。
壊れているわけではない。
たぶん、動きが重い。
クロウは工具を並べた。
細いピンセット。
小さなドライバー。
油差し。
布。
順番に置く。
少しだけ角度を直す。
それだけで、机の上が静かになった。
裏蓋を外す。
中の歯車が見える。
小さな輪列。
噛み合う歯。
細い軸。
クロウは息を浅くした。
乱れているものの中にも、ちゃんと決まりがある。
どこか一つが重くなると、全部が少しずつ遅れていく。
だから、全部を触る必要はない。
引っかかっているところだけでいい。
クロウは歯車を一つ外した。
次に、もう一つ。
順番を忘れないように並べる。
小さな軸の先を見る。
ホゾに、古い油が残っていた。
黒く、わずかに粘っている。
クロウは布で拭う。
それから、油差しの先を近づけた。
一滴。
多すぎないように。
少なすぎないように。
ほんの少し。
それだけでいい。
歯車を戻す。
軸を合わせる。
噛み合う位置を確かめる。
蓋を戻す前に、ゼンマイを巻いた。
かち、かち、と音がする。
クロウは耳を近づけた。
やがて、時計が動き出す。
テンプが左右に振れる。
規則正しく。
行きすぎず。
戻りすぎず。
ち、ち、ち、ち。
小さな音。
細い音。
けれど、ちゃんと続いている音。
クロウは目を伏せた。
胸の奥が、少しずつ静かになる。
この音はいい。
触ってもいい音だ。
直しても、誰かの顔が曇らない。
少しだけ油を差して、少しだけ戻す。
それでまた、続いていく。
クロウはその音を聴いていた。
ち、ち、ち、ち。
落ち着く。
ここなら、息ができる。
その時だった。
「クロウ!」
扉が開いた。
音が跳ねる。
クロウの指が止まった。
次の瞬間、後ろから抱きしめられる。
「エナ姉……!」
金の髪が頬に触れる。
やわらかい匂い。
やわらかい声。
そして、少しだけ強すぎる腕。
「ここにいたのね。探したわ」
「今、時計が」
「大丈夫?」
エナの声は、いつも通り優しい。
「ちゃんと休んでる?」
「休んでる」
「本当に?」
「今、休んでた」
クロウは机の上を見た。
時計は動いている。
けれど、今の衝撃で工具が一本、斜めになっていた。
油差しも少しだけ位置がずれている。
しかも、背中が痛い。
抱きしめられたところが、じん、と重い。
心臓にも悪い。
背骨にも悪い。
たぶん、時計にも悪い。
「エナ姉」
「なあに?」
「突然は、少し多い」
エナの腕が、ほんの少し緩む。
「……驚いた?」
「うん」
「痛かった?」
クロウは少しだけ考えた。
嘘をつくと、あとで余計に重くなる。
「少し」
エナの瞳が揺れた。
「ごめんなさい」
声が、少し弱い。
クロウはすぐには言わなかった。
エナは悪くない。
少なくとも、悪気はない。
ただ、近い。
強い。
そして今は、かなり近い。
「嫌じゃない」
クロウは小さく言う。
「でも、作業中は、声をかけてからがいい」
「……声をかけたわ」
「抱きしめる前に」
エナは少しだけ黙る。
それから、真面目な顔で頷いた。
「抱きしめる前に」
「うん」
「分かったわ」
そう言って、エナは少しだけ離れた。
ほんの少しだけ。
クロウは机に手を伸ばす。
斜めになった工具を戻す。
油差しの位置も戻す。
時計の音を確かめる。
ち、ち、ち、ち。
まだ続いている。
止まってはいない。
クロウは小さく息を吐く。
「壊れなかった?」
エナが心配そうに聞く。
「時計は」
「クロウは?」
クロウは背中を少しだけ動かす。
重い。
でも、動く。
「まだ」
エナの眉が下がる。
「その言い方、あまり安心できないわ」
「本当だから」
「……そうね」
エナは困ったように笑う。
クロウは時計を見る。
テンプはまだ左右に振れている。
少しだけ揺れが乱れた気もする。
でも、戻ってきている。
完全ではない。
けれど、続いている。
それでいい。
エナが一歩近づきかける。
クロウはすぐに顔を上げた。
「抱きしめる前に」
エナはぴたりと止まる。
そして、ほんの少し頬を赤くした。
「……抱きしめてもいい?」
クロウは時計を見る。
工具を見る。
自分の背中も少しだけ意識する。
「今は、だめ」
「そう」
エナは残念そうに頷いた。
でも、怒らない。
泣きもしない。
ただ、少しだけ近くに椅子を引いた。
「じゃあ、見ているだけ」
「それならいい」
クロウはもう一度、時計へ向き直る。
エナは静かに座った。
少しだけ近い。
でも、触れてはいない。
時計が鳴る。
ち、ち、ち、ち。
作業小屋は、さっきより少しだけ狭くなった。
けれど、まだ、落ち着く音は残っていた。




