第7話 まだ調べにならない
――帝国暦三五〇年・春初め サザ子爵家邸・音楽室――
音楽室には、昼の光が細く差し込んでいた。
白い壁。
磨かれた床。
窓辺に置かれた譜面台。
どれも静かだった。
けれど、眠っているわけではない。
音を待っている静けさだった。
クロウは扉の前で足を止める。
中には父がいた。
ケイン・ザザ。
チェロを抱え、椅子に座っている。
まだ弓は動いていない。
それなのに、部屋の空気は少しだけ整っていた。
「入るか」
父が言った。
振り向かないまま。
「うん」
クロウは小さく頷いて、中へ入る。
父が弓を持ち上げる。
それだけで、クロウは息を止めた。
最初の音が、生まれる。
低く。
静かに。
深いところから、部屋全体へ広がっていく。
強い音ではない。
けれど、弱くもない。
乱れを叱らず、押さえつけもせず、ただ居場所を示すような音だった。
クロウは目を伏せる。
胸の奥に残っていた小さなざわめきが、少しずつほどけていく。
父の音は、いつもそうだった。
何かを直すのではなく、続けられる場所へ戻していく。
クロウは、それが好きだった。
尊敬していた。
たぶん、まだ自分には届かない。
だから、見ていた。
聴いていた。
「クロウ」
父が呼ぶ。
音は止まらない。
「持ってこい」
「……うん」
クロウは壁際に置いてあるヴィオラへ手を伸ばした。十歳の身体には、少しだけ大きい。でも、持てないほどではない。
弓を構える、すぐには入らない。
父の音を聴く。
入る場所を探す。
強くないところ。
邪魔にならないところ。
続けられるところ。
細い音を、そっと重ねた。
ヴィオラの音が、チェロの上に乗る。
少しだけ震える。
クロウは眉を寄せた。
ずれた、ほんの少し。
父の音は揺れない。
でも、押し返してもこない。
クロウは息を整え、もう一度弓を動かす。
今度は、少しだけ近い。
「いい」
父が短く言う。
それだけで、胸が軽くなる。
低いチェロ。
その上に、少し低く柔らかいヴィオラ。
二つの音が、部屋の中でゆっくり混ざる。
そこへ、扉が開いた。
「始まっていたのか」
テッドが入ってくる。
手にはバイオリンがある。
少し面倒そうな顔をしているのに、譜面台の前へ立つ動きは慣れていた。
「兄様」
「ずれるなよ」
「うん」
「お前がずれると、俺が拾うことになる」
そう言いながら、テッドは弓を置いた。
音が加わる。
クロウより高い。
少し硬い。
けれど、安定している。
言葉と同じだった。
まっすぐで、少し不器用で、でも支えてくれる音。
三つの音になる。
父のチェロ。
テッドのバイオリン。
クロウのヴィオラ。
空気が、厚くなる。
それでも、重くはない。
「楽しそうね」
やわらかい声がした。
レオエナが音楽室に入ってくる。
金の髪が光を受けて揺れる。
手には、同じくバイオリン。
「エナ姉も?」
「ええ。少しだけ」
エナは笑う。
その笑顔は、外で見る聖女の顔より、少しだけ幼い。
エナが弓を構える。
音が入る。
やわらかい。
包むようで、少し近い。
いつものエナ姉と同じだった。
クロウの音に寄り添おうとして、少しだけ寄りすぎる。
クロウは一瞬、弓を止めかけた。
でも、父のチェロが下から支える。
テッドの音が横に線を作る。
クロウは、その隙間に戻る。
四つの音が重なる。
低く深いチェロ。
硬くまっすぐなバイオリン。
やわらかく近いバイオリン。
その間を探る、少し低いヴィオラ。
ばらばらなのに、離れていない。
同じではないのに、続いている。
クロウは弓を動かしながら、胸の奥が少し熱くなるのを感じた。
こういうことなのかもしれない。
全部を同じにするのではなく。
強いものを消すのでもなく。
それぞれのまま、続く場所を探す。
父の音が、そこに道を作る。
テッドの音が、形を保つ。
エナの音が、温度を足す。
自分の音は、まだ少し震えている。
それでも、置く場所がある。
クロウは、ほんの少しだけ目を伏せた。
綺麗だと思った。
その時だった。
「楽しそう!」
扉のところに、ミアがいた。
腕に黒猫を抱えている。
黒猫が、にゃあ、と鳴いた。
クロウの弓が、わずかに止まりかける。
テッドの眉が動く。
エナが少しだけ笑う。
「ミアも聴きに来たの?」
「ううん」
ミアはにこりと笑った。
「弾きに来たの」
沈黙が落ちる。
テッドが先に口を開いた。
「やめておけ」
「どうして?」
「今は合奏中だ」
「だから入るの」
ミアは黒猫を床に下ろし、壁際の小さなバイオリンを取った。
クロウはそれを見る。
構えが、少し違う。
弓の角度が、高い。
足の位置も、ずれている。
直したい。
けれど、言う前にミアが弓を置いた。
音が出る。
ぎ、と部屋が鳴った。
それは、音というより、引っかき傷に近かった。
チェロの低い音が揺れる。
テッドの音が止まる。
エナの音が細く消える。
クロウの指が、弦の上で固まった。
ミアは楽しそうに笑う。
「入れた」
「入れていない」
テッドが即座に言う。
「音を出しただけだ」
「音は出たよ」
「そういう問題じゃない」
ミアが、もう一度弓を動かす。
ぎぎ、と音が割れる。
部屋の空気が一気にほどけた。
ほどけるというより、糸を無理に引き抜かれたようだった。
クロウは思わずヴィオラを下ろす。
胸の奥がざわつく。
さっきまで重なっていたものが、ばらばらになる。
ミアの音は、揃おうとしていない。
寄り添おうともしていない。
ただ、音の中に指を入れて、かき回している。
「……ミア」
クロウが小さく言う。
「うん?」
「今のは、少し多い」
「少し?」
ミアは首を傾げる。
「いっぱいじゃなくて?」
「……いっぱい」
クロウは正直に言い直す。
ミアは嬉しそうに笑った。
「じゃあ、成功?」
「成功ではない」
テッドが額を押さえる。
「俺は出る」
「兄様?」
「これ以上聴くと、別の意味で耳に残る」
テッドはバイオリンを片づけ、部屋を出ていく。
エナも少し困ったように笑った。
「ミア、弓はもう少しやさしく持った方がいいわ」
「やさしく?」
「ええ」
「エナ姉みたいに?」
エナは一瞬だけ黙る。
クロウも少しだけ黙る。
「……私も、まだ練習中よ」
エナはそう言って、バイオリンを片づけた。
「クロウ、またあとで弾きましょう」
「うん」
エナも部屋を出ていく。
クロウは少しだけ迷った。
ミアの構えはずれている。
弓の角度も違う。
音も、まだ音になっていない。
直したい。
少しだけでも。
けれど、父のチェロが静かに鳴った。
低く、短く。
クロウは手を止める。
父を見る。
ケインは、ミアを見ていた。
怒ってはいない。
困ってもいない。
ただ、聴いている。
「クロウ」
父が言う。
「今日は、ここまでだ」
「……うん」
クロウはヴィオラを下ろした。
ミアが首を傾げる。
「お兄様も行くの?」
「うん」
「直さないの?」
その一言に、クロウは少しだけ目を伏せる。
直したい、今すぐ、弓の角度を直して、足の位置を整えて、音の出し方を教えたい。
でも、たぶん今は違う。
全部を揃えると、音は死ぬ。
父の言葉を思い出す。
「……父様が見るから」
クロウはそう言った。
ミアは一瞬、父を見る。
ケインは静かに頷いた。
「ミア、弾いてみろ」
「さっき弾いたよ」
「もう一度だ」
「うん」
ミアは嬉しそうに笑う。
クロウは音楽室を出た。
扉を閉める前に、一度だけ振り返る。
父は椅子に座ったまま、チェロを抱えている。
ミアは小さなバイオリンを構えている。
黒猫は床に座り、しっぽを揺らしていた。
ミアの弓が動く。
ぎ、と音が鳴る。
そのひどい音の下に、父のチェロが静かに重なった。
直すのではなく。
叱るのでもなく。
その音がどこへ行くのか、ただ見ているように。
クロウは扉を閉めた。廊下には、さっきまでの四人の音がまだ少し残っている気がした。
けれど音楽室の中では、別のものが始まっていた。まだ、調べとは呼べないものが。




