↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
壊れかけのオルゴールと騒がしい家族たち  作者: 小径つむぎ
第一章 日常編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
8/76

第7話 まだ調べにならない

――帝国暦三五〇年・春初め サザ子爵家邸・音楽室――


 音楽室には、昼の光が細く差し込んでいた。


 窓から入った光が、磨かれた床の上に長く伸びている。


 白い壁。


 並んだ椅子。


 窓辺の譜面台。


 壁際には、使われていない楽器が静かに置かれていた。


 どれも静かだったけれど、眠っているわけじゃない。


 音が始まるのを待っているような静けさだった。


 クロウは扉の前で足を止めた。


 中には父様がいる。


 チェロを抱え、椅子に座っていた。


 左手は弦の近く。


 右手には弓。


 まだ動いていない。


 楽譜は譜面台に置かれている。


 窓から入った光が、チェロの木の表面に細く映っていた。


「入るか」


 父様が振り向かずに言った。


「うん」


 クロウは中へ入った。


 扉を静かに閉める。


 父様が弓を持ち上げた。


 弓が弦へ触れる。


 最初の音が低く、静かに鳴った。


 強すぎるわけでもない。


 弱すぎるわけでもない。


 長い音が、部屋の下の方からゆっくり広がっていく。


 床にも。


 壁にも。


 音が触れていくようだった。


 クロウは少しだけ目を伏せた。


 父様の音は好きだった。


 聞いていると、どこに自分の音を置けばいいのか分かる気がする。


 前へ出すぎない場所。


 隠れすぎない場所。


「クロウ」


 父様が呼ぶ。


 音は止まらない。


「持ってこい」


「……うん」


 クロウは壁際へ歩いた。


 置いてあるヴィオラへ手を伸ばす。


 ケースから出す。


 十歳の身体には少し大きい。


 でも、もう持てないほどじゃない。


 肩へ乗せる。


 位置を少し直す。


 顎を乗せる。


 弓を構える。


 それでも、すぐには入らない。


 父様の音を聞く。


 低い音が続く。


 一つ。


 次。


 その間を探す。


 邪魔にならず、自然に重ねられる場所。


 そこへ細く音を入れた。


 ヴィオラの音がチェロの上に重なる。


 少し震えた。


 ほんの少し、ずれた。


 クロウの眉が寄る。


 父様の音は変わらない。


 急がない。


 待っているわけでもない。


 ただ、そのまま続いている。


 クロウは息を整えた。


 もう一度、弓を動かす。


 今度は、さっきより近い。


 二つの音の間にあった隙間が少し小さくなる。


「いい」


 父様が短く言った。


「うん」


 それだけで少し嬉しくなる。


 クロウは弓を動かした。


 低いチェロの上に、ヴィオラが重なる。


 二つの音が部屋の中でゆっくり混ざっていく。


 同じ音ではない。


 でも、離れてもいない。


 その時。


 扉が静かに開いた。


「始まっていたのか」


 兄様が入ってきた。


 手にはバイオリンを持っている。


 すでに弓も一緒だった。


「兄様も?」


「少しな」


 兄様は扉を閉めると、空いている譜面台の前へ立った。


 楽譜の位置を少し直す。


 それから肩へバイオリンを乗せる。


 動きに迷いがない。


「ずれるなよ」


「うん」


「お前がずれると、俺が拾うことになる」


 そう言いながら、兄様は弓を置いた。


 クロウより高い音が加わる。


 少し硬い。


 でも、まっすぐだった。


 音が途中で揺れない。


 三つになった。


 父様のチェロ。


 兄様のバイオリン。


 クロウのヴィオラ。


 さっきより音は厚くなった。


 それなのに、不思議と窮屈には感じない。


 それぞれの場所がある。


 少し離れて。


 でも、届くくらい。


 クロウは弓を動かす。


 父様の低い音を聞く。


 兄様の高い音も聞く。


 その間へ、自分の音を置く。


「楽しそうね」


 今度は、やわらかい声が聞こえた。


 クロウは弓を動かしたまま、扉を見る。


 エナ姉が入ってきた。


 金色の髪が窓からの光を受けて揺れている。


 手にはバイオリン。


「エナ姉も?」


「ええ。少しだけ」


 エナ姉は笑った。


 今日はクロウの方へ来ない。


 空いている場所へ歩いていく。


 椅子の近くで立ち止まり、弓を構えた。


 そこへ柔らかい音が加わる。


 兄様の音より丸い。


 父様の音より高い。


 クロウの音に寄り添うように近づいてくる。


 少しだけ近すぎるところまで来るのも、いつものエナ姉みたいだった。


 クロウは一瞬だけ弓を止めそうになった。


 でも。


 父様のチェロが下から支えている。


 兄様の音も崩れない。


 エナ姉の音も、そのまま続いている。


 クロウはもう一度、自分の場所を探した。


 弓を動かす。


 音が戻る。


 四つの音が重なった。


 父様の低く深い音。


 兄様のまっすぐな音。


 エナ姉の柔らかい音。


 その間で、クロウは自分の音を探す。


 全部が同じ音じゃない。


 同じ高さでもない。


 同じ強さでもない。


 でも、ばらばらでもない。


 音が違うまま、一つの方へ進んでいる。


 クロウは弓を動かしながら、少しだけ胸が熱くなった。


 綺麗だと思った。


 その時だった。


「楽しそう!」


 扉の方から声がした。


 聞いた瞬間。


 クロウは少し嫌な予感がした。


 弓がほんの少し止まりかける。


 見る。


 ミアが扉のところに立っていた。


 腕には、いつもの黒猫。


 猫も音楽室の中を見ている。


「にゃあ」


 小さく鳴いた。


「ミアも聴きに来たの?」


 エナ姉が笑う。


「ううん」


 ミアもにこりと笑った。


「弾きに来たの」


 四人の音が止まった。


 最後まで残った父様のチェロの音も、ゆっくり消えていく。


 静かになった。


 最初に口を開いたのは兄様だった。


「やめておけ」


「どうして?」


「今は合奏中だ」


「だから入るの」


 ミアは黒猫を床へ下ろした。


 猫は一度その場で周りを見てから、壁際へ歩いていく。


 ミアは壁際に置かれていた小さなバイオリンを取った。


 クロウはすぐに構えを見る。


 弓の角度が少し高い。


 右。


 もう少し下。


 足の位置もずれている。


 左足が少し前すぎる。


 見ているだけで直したくなる。


「ミア、それ――」


 言い終わる前に、弓が動いた。


 ぎっ。


「……」


 音楽室に妙な音が響いた。


 さっきまで四人で重ねていた音とは、どこにもつながらない。


 クロウの手が止まった。


 兄様も弓を止める。


 エナ姉の音も細く消えた。


 ミアだけが楽しそうに笑っている。


「入れた」


「入れていない」


 兄様がすぐに言った。


「音を出しただけだ」


「音は出たよ」


「そういう問題じゃない」


 兄様の眉が少し寄る。


 ミアは気にしない。


 もう一度、弓を動かした。


 ぎぎっ。


 今度はさっきよりひどい。


 黒猫が壁際で耳を伏せた。


 クロウはヴィオラを少し下ろした。


 せっかく重なっていた音は、もう完全に消えている。


「……ミア」


「うん?」


「今のは、少し多い」


「少し?」


 ミアが首を傾げる。


「いっぱいじゃなくて?」


 クロウは少し考えた。


 ぎっ。


 ぎぎっ。


 思い出す。


「……いっぱい」


 正直に言い直す。


 ミアは嬉しそうに笑った。


「じゃあ、成功?」


「成功ではない」


 兄様が額を押さえる。


 大きく息を吐いた。


「俺は出る」


「兄様?」


「これ以上聴くと、耳に残る」


 兄様はバイオリンを下ろす。


 弓を片づけ、楽器も元の場所へ戻す。


 いつもより少しだけ動きが速かった。


 そのまま部屋を出ていく。


 扉が閉まった。


「そんなに変だった?」


 ミアが聞く。


「かなり」


 クロウが答える。


 エナ姉は少し困ったように笑った。


「ミア、弓はもう少しやさしく持った方がいいわ」


「やさしく?」


「ええ」


「エナ姉みたいに?」


 エナ姉は一瞬だけ黙った。


 クロウもエナ姉を見る。


「……私もまだ練習中よ」


 そう言って、バイオリンを下ろした。


 ケースへしまう。


 弓も戻す。


「クロウ、またあとで弾きましょう」


「うん」


 エナ姉はミアを一度見る。


 何か言おうとしたようだったけれど、結局そのまま部屋を出ていった。


 クロウはミアを見る。


 やっぱり構えはずれている。


 弓の角度も違う。


 足の位置も気になる。


 それに。


 当然、音もおかしい。


 少しだけでも直したい。


 右手をもう少し下。


 左足を戻す。


 弓を――


 クロウが口を開こうとした時。


 父様のチェロが短く鳴った。


 低い音。


 それだけだった。


 クロウは父様を見る。


 父様はミアを見ていた。


 怒ってはいない。


 笑ってもいない。


 ただ、静かに見ている。


「クロウ」


「うん」


「今日は、ここまでだ」


 クロウはミアを見る。


 弓。


 足。


 肩。


 まだ気になる。


 でも。


 父様がここにいる。


 クロウは少しだけ迷ってから、ヴィオラを下ろした。


「……分かった」


 ケースへ戻す。


 弓も置く。


 ミアが首を傾げる。


「お兄様も行くの?」


「うん」


「直さないの?」


 その言葉で、クロウの手が止まった。


 直したい。


 弓も。


 足も。


 音の出し方も。


 全部目に入っている。


 でも。


 父様がここにいる。


「……父様が見るから」


 クロウがそう言うと、ミアは父様を見る。


 父様は静かに頷いた。


「ミア」


「なに?」


「もう一度、弾いてみろ」


「さっき弾いたよ」


「もう一度だ」


「うん」


 ミアは嬉しそうにバイオリンを構えた。


 さっきとほとんど同じ。


 やっぱり少しずれている。


 クロウはそれを見た。


 でも、言わなかった。


 音楽室を出る。


 扉を閉める前に、一度だけ振り返る。


 父様はチェロを抱えたまま椅子に座っている。


 ミアはその前で、小さなバイオリンを構えている。


 黒猫は壁際の床に座り、しっぽをゆっくり左右へ動かしていた。


 ミアの弓が動く。


 ぎっ。


 やっぱりひどい音だった。


 黒猫の耳がまた少し伏せる。


 でも。


 その下に父様のチェロが静かに重なった。


 低い音。


 一定の音。


 ミアの音を消そうとはしない。


 無理に合わせようともしない。


 ただ、下で続いている。


 クロウは少しだけその音を聞いた。


 さっきまで四人で弾いていたものとは、まったく違う。


 綺麗とも、まだ言えない。


 揃ってもいない。


 それでも。


 音楽室の中では、また何かが始まっていた。


 まだ、調べとは呼べないものが。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。