第6話 ばれたのは、そっち
――帝国暦三五〇年・春初め 帝国人民学校・地方分校――
昼の教室は、いつもより少しだけ騒がしかった。
椅子の音。
弁当を開く音。
笑い声。
それから、少しだけ熱の残った声。
クロウは席に座っていた。
机の端に置いた箸が、ほんの少しだけ斜めになっている。指先で、そっと直す。
それだけで、少しだけ息がしやすくなった。
「なあ、クロウ」
ガイが机に手をついた。
その後ろに、エド、ルーク、サムがいる。
昨日より近い。
少しだけ。
「昨日さ」
エドが声を落とす。
「森の方のお屋敷って言われたんだよ」
クロウの指が止まる。
「……屋敷?」
「そう」
ルークが頷く。
「金髪で小柄なお嬢様を見たことがある、と」
「あと」
サムが小さく続ける。
「猫を抱いた小さい子」
「奥様みたいなお嬢様もいたらしいぞ」
ガイが言う。
「なんだよ、それ」
エドが笑った。
軽い。
でも、その笑いは少しだけ引っかかる。
クロウは机を見る。
箸は揃っている。
でも、空気は揃っていない。
「……知らない」
「ほんとか?」
ガイが少し近づく。
「森の方って、クロウの家もそっちだろ」
「……うん」
「じゃあ、何か知ってるだろ」
クロウは少しだけ黙る。
答えれば、増える。
答えなければ、寄ってくる。
どちらにしても、少しだけ重い。
そのとき。
「お兄様ー!」
扉が勢いよく開いた。
軽い足音。
教室の空気が、一瞬で変わる。
「クロウ!」
黒猫を抱えた少女が、そこに立っていた。
黒の髪。
明るい笑顔。
見慣れない顔。
教室の誰かが、小さく呟く。
「……誰?」
「なんでいるの?」
ざわめきが広がる。
その中で、女子の一人が先に言った。
「かわいい……」
別の女子も小さく頷く。
「ね。猫抱いてる」
「髪、きれい」
やわらかい声が広がる。
ミアはにこりと笑った。
「ありがとう」
まるで最初から、そう言われることまで分かっていたみたいに。
ガイが、ぽつりと言う。
「……猫」
エドも小さく頷く。
「昨日の話の、小さい子って……」
ルークが目を細める。
「一致するな」
サムは黙ってミアを見ている。
クロウは一瞬だけ目を閉じた。
あまりよくない流れだった。
ミアが来るだけで、教室の音が変わる。
重くなり、跳ねる。そのまま置いておくと、どこへ転がるか分からない。
ここは、学校だった。
家より軽くて、息がしやすい場所だった。
ここだけは。
ここだけは、まだ軽いままでいてほしかった。
「お兄様」
ミアが当然のように近づいてくる。
クロウは顔を上げた。
そして、静かに言う。
「……人違いじゃないかな?」
教室が止まった。
ガイたちも、女子たちも、黒猫まで一瞬だけ静かになる。
ミアの目が、ほんの少し細くなった。
「へえ」
楽しそうな声だった。
クロウは小さく息を吐く。
それから、ミアにだけ聞こえる声で言う。
「あとで、ひとつ言うことを聞く」
「なんでも?」
「できる範囲で」
「できる範囲って、ずるいね」
「今は」
ミアは黒猫の背を撫でた。
にゃあ、と小さく鳴く。
ミアは少しだけ考えるふりをして、それからにこりと笑った。
「じゃあ、今は合わせてあげる」
クロウは何も言わない。
ミアはくるりと教室の方を向いた。
「失礼しました」
明るく、かわいらしい声。
「人違いでした」
教室の空気が、少し遅れて動く。
「え?」
「いや、でも今」
「お兄様って言ったよな?」
エドが半笑いで呟く。
ガイは目を細めたままミアを見る。
「……ほんとに人違い?」
ミアはにこりと笑う。
「はい」
それだけ。
疑いを消すには短すぎる。
でも、広げるには十分すぎる。
女子の一人が、そっとミアに声をかける。
「レーミアちゃんっていうの?」
ミアは少しだけ首を傾げる。
「そうです」
「やっぱりかわいい」
「猫ちゃん、触ってもいい?」
ミアは黒猫を抱き直す。
「今はだめです」
「そっか」
「でも、また来たら」
女子たちの声が、少しだけ弾む。
「また来るの?」
その問いに、クロウの指が止まる。
ミアはちらりとクロウを見る。
楽しそうに。
「どうでしょう」
それだけ言う。
クロウは立ち上がった。
「……行くよ」
「はい」
ミアが手を引こうとして、クロウは一歩だけずれる。
ミアは楽しそうに目を細めた。
二人は教室を出る。
扉が閉まる直前。
ミアが小さく振り返った。
「……あとでね、お兄様」
扉が閉まった。
教室の空気が、また少しだけ斜めになる。
「……今の」
エドが口を開いた。
「お兄様って言ったよな」
「言った」
ルークが頷く。
「人違いとは言ったが、最後にも言った」
「つまり人違いじゃないだろ」
ガイが低く言う。
少しだけ楽しそうだった。
「それに」
サムが小さく続ける。
「猫を抱いた小さい子」
昨日の街で聞いた言葉が、ゆっくり戻ってくる。
森の方のお屋敷。
外に出ないお嬢様。
猫を抱いた小さい子。
奥様みたいなお嬢様。
そして、今の少女。
ガイが、ゆっくり笑った。
「なるほどな」
「何が?」
エドが聞く。
「いや」
ガイは少しだけ考えて、
「クロウ、何か隠してるな」
そう言った。
教室に、軽い笑いが戻る。
でも、完全には戻らない。
お嬢様なのか。
妹なのか。
姉なのか。
奥様なのか。
屋敷なのか。
クロウは、どこまで知っているのか。
答えは出ない。
でも、知りたいことだけは増えていた。
廊下に出たクロウは、扉を一度だけ振り返った。
教室の声は、まだ聞こえる。
いつもより、少しだけ高い。
ミアが隣で笑う。
「守ったの?」
「……少しだけ」
「なにを?」
クロウは答えなかった。
廊下の窓から、細い風が入ってくる。
教室より、少しだけ軽い。
ミアは黒猫を抱き直した。
「お兄様、学校好きなんだ」
クロウの足が止まる。
ミアは楽しそうに笑っている。
もう、気づいている。
ここが、クロウにとって軽い場所だと。
ここを守ろうとしたことも。
「……ミア」
「はい」
「今は、やめて」
「今は?」
「今は」
ミアは満足そうに頷いた。
「じゃあ、今はやめる」
黒猫が、小さく鳴く。
にゃあ。
学校の音は、まだ崩れていない。
ただ、さっきより少しだけ跳ねている。
クロウは小さく息を吐いた。
もう少しだけ。
そのままにしておきたかった。




