第9話 左右がそろうと、息がしやすい
――帝国暦三五〇年・春初め サザ子爵家邸――
クロウは、左右がそろっているものが好きだった。
窓の両側に同じ長さで垂れたカーテン。
机の端と平行に置かれた定規。
等しい間隔で並んだ本。
左右に同じ数だけ植えられた木。
そういうものを見ると、胸の奥が少しだけ静かになる。
美しいから。
それもある。
けれど、それだけではない。
そろっているものは、分かりやすい。
どこに何があるのか、すぐに分かる。
次に何が起きるのか、少しだけ予想できる。手を伸ばせば、必要なものに届く。
戻す場所も、すぐに分かる。
美しいものは、たいてい使いやすい。
使いやすいものは、長く続く。
長く続くものは、壊れにくい。
クロウはそう思っていた。
もちろん、すべてを同じにすればいいわけではない。
父は言った。
全部を揃えると、音は死ぬ。
だから、残していい揺れはある。
少しだけずれた椅子。
弾き終えたあとの弓の角度。
母様が窓辺に残した薄い香り。
レナ様の作業机に置かれた、まだ使い途中の糸。
そういうものは、無理に触らない。
そこには、その人の息が残っているから。
でも、ほどけかけたリボン。
傾いた時計。
混ざったままの紙束。
床に落ちたままの髪留め。
そういうものを見ると、指先が落ち着かなくなる。
そのままでは、いつか困る。
いつか誰かが探す。
いつか何かが引っかかる。
だから、少しだけ直す。
それだけで、世界は少し静かになる。
「クロウ様」
朝の廊下で、プラムが立ち止まった。
黒髪をきれいにまとめた、礼儀正しいメイドだった。母様の護衛でもあり、クロウ付きのようでもある。
本当は伯父――皇太子から派遣されている人だと、クロウは知っている。
でも、プラムはいつもメイドとして立っていた。
静かに。
まっすぐに。
だから、気づいてしまった。
首元のリボンが、ほんの少しだけ右へ寄っている。
クロウは足を止めた。
プラムも止まる。
「どうかなさいましたか?」
「リボン」
「はい?」
「少しだけ、右」
プラムは一瞬だけ目を瞬かせた。
クロウは手を伸ばす前に、止める。
「直してもいい?」
プラムは少しだけ驚いた顔をした。
それから、すぐに姿勢を正す。
「……お願いいたします」
クロウはそっとリボンに触れた。
結び目を少しだけ戻す。
左の輪を整える。
右の端を、ほんの少し下げる。
強く引かない。
形を変えない。
ただ、もともとあった位置へ戻す。
「うん」
クロウは手を離した。
「これでいい」
プラムは自分の胸元に視線を落とし、それから深く礼をした。
「ありがとうございます」
声はいつも通り丁寧だった。
でも、耳の端が少し赤い。
クロウはそれを見て、首を傾げる。
「苦しかった?」
「いえ」
「なら、よかった」
プラムはもう一度だけ、少し頭を下げた。
その所作はきれいだった。
左右の乱れも、もうない。
クロウは少しだけ息がしやすくなった。
その日の昼前。
母様とエナ姉は、馬車で街へ買い物に出かけた。プラムも付き添っている。
母様は朝から機嫌がよかった。
エナ姉も、なぜか少し張り切っていた。
玄関先で馬車へ乗り込む前、母様が振り返る。
「クロウ、何か欲しいものはある?」
「ない」
「本当に?」
「うん」
母様は少しだけ残念そうに笑った。
「では、何か似合いそうなものを選んでくるわね」
「……ないって言ったのに」
「ええ。聞いたわ」
聞いただけだった。
エナ姉が横で微笑む。
「大丈夫よ。私も選ぶから」
「それは、大丈夫じゃないと思う」
「どうして?」
エナ姉は本気で不思議そうな顔をした。
クロウは答えなかった。
答える前に、母様が笑い、プラムが静かに扉を閉める。
馬車がゆっくり動き出した。
車輪の音が遠ざかっていく。
屋敷が少しだけ静かになる。
クロウは廊下に立ったまま、しばらくその音を聞いていた。
静かだ。
今なら、できる。
クロウは視線を上げた。
廊下の奥。
エナ姉の部屋がある。
その扉だけが、いつも少しだけ重く見える。
中を見なくても分かる。
たぶん、今日も整っていない。
クロウは歩いた。
扉の前で一度止まる。
ノックをする。
返事はない。
いないのだから、当たり前だった。
「……少しだけ」
そう言って、扉を開ける。
そして、止まった。
部屋の中は、今日も見事だった。
椅子には上着。
寝台には本。
机の上には髪留めと手紙とリボンと、なぜか花びら。
棚の前には靴が片方だけ出ている。
もう片方は見えない。
カーテンは片側だけ少し開いている。
引き出しも、一段だけ閉まりきっていない。
すべてが少しずつ違う方向を向いていた。
クロウは目を閉じる。
胸の奥が、ざわざわする。
でも、同時に指先が少しだけ温かくなる。
多分これは、触っていい乱れだ。
床に落ちている髪留めは踏むと危ない。
引き出しは閉めた方がいい。
靴はそろえた方がいい。
花びらは、捨てるより先に小皿へ移した方がいい。
クロウは袖を少しまくった。
まず、窓を開ける。
空気を入れる。
カーテンの左右をそろえる。
次に、椅子の上の上着を取る。
しわを伸ばし、背もたれではなく衣装掛けへ。本を寝台から机へ移す。
でも、読みかけのページに挟まっていた紙片はそのままにした。
そこは、エナ姉の途中だ。
触りすぎない。
手紙は重ねる。
髪留めは小箱へ。
リボンは色ごとに分ける。
花びらは白い小皿へ。
それから、靴を探す。
片方は寝台の下にあった。
クロウは少しだけ眉を寄せる。
「……どうして?」
誰も答えない。
靴をそろえる。
右。
左。
向き。
間隔。
それだけで、床が少し広く見えた。
机の上に戻る。
紙束をそろえる。
角を合わせる。
引き出しを閉める。
ちいさく、こつん、と音がした。
部屋が少しだけ息をした気がした。
クロウはその音が好きだった。
混ざったものが分かれていく。
行き場のないものに、場所ができていく。
流れが戻る。
誰かに礼を言われるためではない。
エナ姉は、たぶん気づかない。
気づいても、きっと笑って抱きしめようとする。
それは少し困る。
でも、礼がなくてもいい。
雑然としていたものが、まとまりを取り戻す。
ただそれだけで、クロウは少し幸せだった。
サザ子爵家では、貴族であっても、自分のことは自分でするように言われている。
だから本当なら、エナ姉の部屋はエナ姉が片づけるべきなのかもしれない。
でも、エナ姉のような人がいて。
クロウのような人がいる。
そういう組み合わせなら、これはこれで、悪くないのかもしれない。
エナ姉は、少し散らかす。
クロウは、少し整える。
もちろん、全部を片づけるわけではない。
棚の上に置かれた小さな貝殻。
窓辺に干された花。
読みかけの本。
そういうものは、そのまま残す。
そこまで揃えると、エナ姉の部屋ではなくなる。
だから、触るのは少しだけ。
続けられるところまで。
クロウは最後に、机の上のリボンをそろえた。
赤。
白。
淡い青。
端をそろえる。
綺麗に並ぶ。
息がしやすい。
その時、廊下の向こうで馬車の音がした。
クロウの手が止まる。
戻ってきた。
予定より、少し早い。
クロウは部屋を見回した。
整った。
完全ではない。
でも、だいぶ通りやすくなった。
廊下から、母様の声が聞こえる。
その後に、エナ姉の声。
「クロウ?」
近い。
クロウは一瞬だけ考えた。
この部屋にいたことを見られると、少し面倒な気がする。
特にエナ姉は、たぶん抱きしめる。
かなり抱きしめる。
クロウは窓の方を見る。
無理だ。
次に扉を見る。
まだ間に合う。
クロウは足音を殺して廊下へ出た。
扉を閉める。
ちょうどその時、エナ姉が廊下の角から顔を出した。
「あら、クロウ」
「……おかえり、姉さん」
「ただいま」
エナ姉は嬉しそうに笑う。
それから、自分の部屋の扉を見る。
「私の部屋に用事?」
「通っただけ」
嘘ではない。
通った。
中も。
エナ姉は首を傾げる。
母様が後ろから現れる。
手には包みがいくつもある。
「クロウ、よかった。似合いそうなリボンを見つけたの」
「僕はリボンをつけない」
「ええ。だから、しおりにできるわ」
母様はにこにこしていた。
話がもう決まっている顔だった。
クロウは少しだけ目を伏せる。
母様も、やはり少しだけ揃っていない。
その後ろで、プラムが静かに立っていた。
朝直したリボンは、まだきれいに結ばれている。左右も、揃っている。
クロウはそれを見て、少しだけ安心した。
エナ姉はまだ、自分の部屋の扉を見ている。
「……なんだか、部屋が静かね」
クロウの肩がわずかに動く。
「そう?」
「ええ」
エナ姉は微笑む。
「息がしやすい感じがするわ」
クロウは答えない。
ただ、視線を少しだけ逸らした。
礼はなかった。
気づかれてもいなかった。
でも、それでよかった。
廊下に立つクロウの指先には、まだ少しだけ、整ったリボンの感触が残っていた。




