第9話 左右がそろうと、息がしやすい
――帝国暦三五〇年・春初め サザ子爵家邸――
クロウは、左右がそろっているものが好きだった。
窓の両側に同じ長さで垂れたカーテン。机の端と平行に置かれた定規。等しい間隔で並んだ本。それから、左右に同じ数だけ植えられた木。
そういうものを見ると、胸の奥が少し静かになる。
綺麗だからというのもあるけれど、それだけじゃない。
そろっているものは分かりやすい。どこに何があるのかが分かり、必要な時に手を伸ばせる。使ったあとに戻す場所にも迷わない。
だから、使いやすい。
でも、何もかもそろえればいいわけじゃないことも、少しずつ分かってきた。
弾き終えたあとの弓。母様が窓辺に残した薄い香り。レナ様の作業机に置かれた、まだ使い途中の糸。
そういうものは触らなくていい。
その人がまだ使っている途中だから。
でも、ほどけかけたリボンや傾いた時計、混ざった紙束、床に落ちた髪留めは気になる。
そのままにしておけば、あとで誰かが困るかもしれない。
だから、少しだけ直す。
全部ではなく、必要なところだけ。
それだけで、周りが少し静かになる。
「クロウ様」
朝の廊下で、プラムが立ち止まった。
黒髪はいつものようにきれいにまとめられている。服にも目立った皺はなく、袖口も左右でほとんど同じ位置だった。
「どうかなさいましたか?」
クロウが見ているので、プラムも足を止める。
「リボン」
「はい?」
「少しだけ右に寄ってる」
首元のリボンの結び目が、ほんの少しだけ右へずれていた。
大きくはない。
たぶん、ほかの人なら気づかない。
クロウは手を伸ばしかけて、止めた。
昨日、エナ姉に言ったことを思い出す。
抱きしめる前に。
人に触るなら、先に聞く。
リボンはプラムの服についている。
なら、同じだと思う。
「直してもいい?」
プラムは少し驚いたように目を瞬かせ、それから姿勢を正した。
「……お願いいたします」
「うん」
そっと結び目に触れる。
少しだけ中央へ戻し、左の輪を整えて、右の端をほんの少し下げる。
強く引く必要はない。形も変えなくていい。
もともとあった位置へ戻すだけだった。
「これでいい」
手を離すと、プラムは自分の胸元へ視線を落とし、それから丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございます」
いつもと同じ声だったけれど、耳の端が少し赤くなっている。
「苦しかった?」
「いえ」
「なら、よかった」
プラムはもう一度だけ頭を下げた。
今度はリボンもきれいにそろっている。
右。
左。
同じくらい。
それを見ていると、少しだけ息がしやすくなった。
◇ ◇ ◇
その日の昼前、母様とエナ姉は馬車で街へ買い物に出かけることになった。プラムも付き添うらしい。
玄関前には馬車が止まり、御者が手綱を確かめていた。馬が一度首を振ると、金具が小さく鳴る。
出発前から、母様とエナ姉はどこか楽しそうだった。
「クロウ、何か欲しいものはある?」
馬車へ乗る前、母様が振り返った。
「ない」
「本当に?」
「うん」
母様は少しだけ残念そうに笑った。
「では、何か似合いそうなものを選んでくるわね」
「……ないって言ったのに」
「ええ。聞いたわ」
聞いただけだったらしい。
隣でエナ姉が微笑む。
「大丈夫よ。私も選ぶから」
「それは、大丈夫じゃないと思う」
「どうして?」
本当に分からないらしい。
母様が笑い、プラムが静かに馬車の扉を閉めた。
朝直した首元のリボンは、まだ中央にあった。
やがて馬車が動き出す。
ごと、ごと、と車輪が石を踏み、その音が少しずつ遠ざかっていく。
クロウは玄関先に立ったまま、聞こえなくなるまで待った。
屋敷の中が少し静かになった。
今なら、できる。
クロウは廊下の奥へ目を向けた。
そこには、エナ姉の部屋がある。
扉が閉まっていても、なんとなく分かる。
たぶん、今日も整っていない。
クロウは部屋の前まで歩き、一応ノックした。
返事はない。
いないのだから当然だった。
「……少しだけ」
扉を開ける。
そして、そこで足が止まった。
今日も見事だった。
椅子には、半分ずり落ちかけた上着。寝台の上には本。机には髪留めと手紙とリボン、それから、なぜか花びらまである。
棚の前には靴が片方だけ出ていた。
カーテンは片側だけ少し開き、引き出しも一段だけ閉まりきっていない。
全部が少しずつ違う方向を向いている。
クロウは右を見て、それから左を見る。
胸の奥がざわつく。
でも、これはたぶん触っていい乱れだった。
床の髪留めは踏んだら危ない。
引き出しも閉めた方がいい。
靴もそろえた方が使いやすい。
花びらだけは、捨てていいものか分からなかった。
なら、捨てない。
クロウは袖を少しまくった。
まず窓を開けて空気を入れ、片側だけずれていたカーテンをそろえる。
次に椅子の上の上着を取り、軽くしわを伸ばして衣装掛けへ移した。
寝台の本は机へ戻す。
読みかけのページには紙片が挟まっていた。
そこは動かさない。
エナ姉の途中だから。
手紙は中を見ず、向きだけそろえて重ねる。髪留めは小箱へ入れ、リボンもまとめて置いた。
花びらは少し考えて、小さな白い皿へ移す。
これなら、なくならない。
それから、片方しか見えない靴を探した。
棚の横。
ない。
机の下。
ない。
寝台の下を覗く。
「あった」
もう片方は奥に入っていた。
「……どうして?」
もちろん、誰も答えない。
靴を左右にそろえ、向きと間隔を合わせる。
それだけで床が少し広くなったように見えた。
机の上の紙束も、順番は変えずに角だけそろえる。
開いていた引き出しを閉める。
こつん、と小さな音がした。
さっきより、部屋の中が落ち着いて見える。
こういう瞬間が好きだった。
行き場のなかったものに場所ができて、混ざっていたものが分かれていく。
誰かに礼を言ってほしいわけじゃない。
エナ姉は気づかないかもしれないし、気づいたら気づいたで、たぶん喜ぶ。
そして、抱きしめようとする。
昨日は、抱きしめる前に聞いてくれた。
聞かれたら断ればいい。
たぶん。
でも、それはそれとして、部屋が使いやすくなればいいと思う。
この家では、貴族でも自分のことは自分でするように言われている。
だから本当なら、エナ姉の部屋はエナ姉が片づけるものなのかもしれない。
それでも、エナ姉は少し散らかす。
クロウは少し整える。
「……たぶん、いい」
誰にも聞いてはいない。
でも、今のクロウにはそう思えた。
もちろん、全部を片づけるつもりはなかった。
棚の上の小さな貝殻も、窓辺に置かれた花も、読みかけの本も残してある。
そこまで動かしたら、エナ姉の部屋ではなくなってしまう。
触るのは必要なところだけでいい。
クロウは最後に、机の上のリボンをそろえた。
赤。
白。
淡い青。
一本だけ少し前へ出ている。
指で戻し、端を合わせる。
綺麗に並んだ。
クロウは小さく息を吐いた。
少しだけ、息がしやすい。
その時、屋敷の外から馬車の音が聞こえた。
「……早い」
手が止まる。
予定より少し早く戻ってきたらしい。
部屋を見回す。
完全にそろってはいない。
貝殻も、花も、読みかけの本もそのまま。
でも、歩きやすくはなった。
それでいい。
廊下の向こうから母様の声が聞こえ、そのあとにエナ姉の声も続いた。
「クロウ?」
近い。
クロウは少し考える。
ここにいたところを見つかると、面倒なことになる気がする。
たぶんエナ姉は喜ぶ。
そして、抱きしめてもいいか聞く。
聞かれたら断ればいい。
でも、少し言いづらい。
窓を見る。
無理だった。
扉を見る。
こっちなら、まだ間に合う。
クロウは廊下へ出て、静かに扉を閉めた。
ちょうどその時、廊下の角からエナ姉が顔を出す。
「あら、クロウ」
「……おかえり、エナ姉」
「ただいま」
嬉しそうに笑ったあと、エナ姉は自分の部屋の扉を見た。
「私の部屋に用事?」
「通っただけ」
嘘ではない。
通った。
中も。
エナ姉は少し首を傾げた。
その後ろから母様がやってくる。手にはいくつもの包みを持っていた。
「クロウ、よかった。似合いそうなリボンを見つけたの」
「僕はリボンをつけない」
「ええ。だから、しおりにできるわ」
もう使い道まで決まっていた。
「……そう」
クロウは少しだけ目を伏せた。
母様の考えることは、ときどき予想できない。
その後ろにはプラムも立っていた。
朝直した首元のリボンは、まだきれいに結ばれている。
左右もちゃんとそろったままだった。
それを見て、少し安心する。
エナ姉はまだ自分の部屋の扉を見ていた。
「……なんだか、部屋が静かね」
クロウの肩が少しだけ動いた。
「そう?」
「ええ」
エナ姉は扉を開け、中を見た。
椅子。
寝台。
机。
床。
視線がゆっくり動く。
それから、少しだけ目を細めた。
「なんだか、息がしやすい感じがするわ」
クロウは何も答えなかった。
ただ、少しだけ視線を逸らす。
何をしたのかは気づかれていない。
たぶん。
それでいい。
朝に整えたプラムのリボンも、エナ姉の部屋も、少しだけ元の場所へ戻った。
全部ではない。
必要そうなところだけ。
それだけで、クロウは十分だった。




