第10話 続いてほしい音
――帝国暦三五〇年・春初め 帝国人民学校・地方分校――
学校には、トムがいる。それだけで、クロウは少しだけ息がしやすかった。
トムの父は、街で機械職人をしている。
時計。
小さな自動人形。
壊れかけた農具の金具。
たまに、貴族の屋敷から持ち込まれる細工物。
そういうものを直す人だった。
クロウは、トムの父の仕事場を一度だけ見たことがある。
油の匂い。
金属の冷たさ。
歯車の並んだ箱。
壁に掛けられた工具。
あの場所は、静かだった。
ただ、音がないわけではない。
ちいさな金属音。
軸を回す音。
ゼンマイの戻る音。
ひとつひとつの音に、ちゃんと役目があった。
クロウは、ああいう仕事がしたかった。壊れたものを、何でも直せる人になりたいわけではない。
ただ、止まりかけたものが、もう少しだけ続くようにしたい。そのために、手を動かせる人になりたい。
「クロウ」
放課後。
工作室の扉の前で、トムが手を振った。
「今日はこっち?」
「うん」
クロウは小さく頷く。
「時計のばね、見せてもらえるって」
「ああ、父さんが持たせてくれたやつな」
トムは鞄から小さな包みを出した。
布の中には、細いばねと、小さな歯車が入っている。
クロウはそれを見るだけで、指先が少し落ち着いた。
「綺麗」
「そこ、綺麗なんだ」
「うん」
「俺には、まあ、部品だな」
トムは笑う。
その笑い方は軽い。
でも、馬鹿にしていない。
クロウはそれが好きだった。
クロウが細かい部品をじっと見ていても、トムは急かさない。
何が面白いのか分からない時は、分からないと言う。
でも、分からないからといって、壊さない。
変に触らない。
そのまま置いてくれる。
それは、とても楽だった。
「今日は音楽室にも行く?」
背後から声がした。
振り向くと、リラが立っていた。
肩までの髪を揺らし、手には楽譜を抱えている。
トムの幼馴染。
音楽が好きな少女だった。
クロウとは、音の話がよく合う。
どこで音が重くなるか。
どこなら入れるか。
どの旋律は、もう少し間を空けた方がいいか、そういう話をしても、リラは変な顔をしない。むしろ少し嬉しそうに頷く。
「行く」
クロウが答えると、リラは微笑んだ。
「じゃあ、工作室を先にしてからね」
「順番、決まってるんだ」
トムが言う。
「決まってた方が、クロウが落ち着くでしょう?」
リラはあたりまえのように言った。
クロウは少しだけ視線を伏せる。
「……うん」
トムが笑う。
「じゃあ、まず工作室」
三人は工作室へ入った。
窓から、午後の光が斜めに落ちている。
机の上には、木片や針金、余った金具、古い道具が置かれていた。
少し雑然としている。
けれど、嫌な乱れではない。
ここにあるものは、まだ途中のものだった。
使われるために置かれている。
戻る場所がある。
クロウは椅子に座る。
トムが部品を並べる。
リラはその横で、楽譜を開いた。
それぞれが別のことをしている。
でも、不思議と邪魔にならない。
「これ、どう思う?」
トムが歯車を指でつまむ。
「こっちの歯、少し欠けてる」
「使えない?」
「使える」
クロウは受け取り、目を近づけた。
「でも、力がかかる場所には置かない方がいい」
「じゃあ、軽いところ?」
「うん。飾りの動きなら、たぶん大丈夫」
「なるほど」
トムは楽しそうに頷く。
それを聞きながら、リラは譜面に目を落としていた。
けれど、時々顔を上げて、ふふ、と笑う。
「二人とも、楽しそう」
「リラも楽しそうだろ」
「私は、見ているのが楽しいの」
リラはそう言って、クロウを見る。
「音楽の話をしている時のクロウも、機械の話をしている時のクロウも、少し似ているから」
「似てる?」
「うん。どこに置けば続くか、考えてる顔」
クロウは答えなかった。
そのかわり、歯車を布の上に置く。
少しだけ、角度を直す。
リラは笑った。
トムはそれを見て、肩をすくめる。
「今の角度、必要だった?」
「必要」
「そうか」
それだけだった。
それだけでよかった。
工作室で少し過ごしたあと、三人は音楽室へ移った。
リラはバイオリンを持つ。
クロウはヴィオラを持つ。
トムは椅子に座る。
「俺は聴く係」
「いつもだね」
リラが笑う。
「弾けないからな」
「聴いてくれる人も必要」
クロウが言うと、トムは少し照れたように笑った。
「じゃあ、必要な係だ」
「うん」
リラが譜面を置く。
クロウは隣に立つ。
音を出す前に、少しだけ息を合わせる。
リラの音は明るい。
まっすぐで、よく伸びる。
クロウのヴィオラは、その少し下で支える。
父のチェロほど深くはない。
けれど、リラの音を受け止める場所くらいなら、少しだけ作れる。
最初の音が重なる。
小さな旋律。
まだ拙い。
でも、乱れていない。
リラが前へ行く。
クロウが下で支える。
少しずれると、互いに戻る。
強くない。
重くない。
ただ、続いていく。
トムは黙って聴いている。
退屈そうではない。
楽しそうに、足先で小さく拍を取っている。
その音も、邪魔ではなかった。
むしろ、少しだけ支えになっている。
曲が終わる。
リラが弓を下ろす。
「今の、少し良かった」
「うん」
クロウは頷く。
「途中、リラの音が少し前に行った」
「気づいた?」
「うん。でも、戻ってきた」
「クロウが下にいたから」
リラが笑う。
トムが手を叩いた。
「俺には、普通に良かった」
「普通に?」
「いい意味で」
リラが笑う。
クロウも、ほんの少しだけ口元を緩めた。
この時間が好きだった。
トムと機械の話をする時間。
リラと音を重ねる時間。
二人がそれぞれ、分からないものを無理に分かろうとしない時間。
分かるところだけ、受け取ってくれる時間。ここでは、クロウがすべてを整えなくてもいい。
少しずれても、誰かが怒らない。
強く抱きしめられることもない。
わざと空気を揺らされることもない。
それぞれの場所があって、それぞれの音がある。
それが、ひどく心地よかった。
放課後の光が、音楽室に落ちている。
埃が細く光る。
リラが楽譜を閉じる。
トムが椅子から立ち上がる。
「明日もやる?」
「うん」
クロウはすぐに頷いた。
「工作室から?」
トムが聞く。
「うん」
「そのあと音楽室?」
リラが聞く。
「うん」
二人が顔を見合わせて笑う。
「順番、大事だな」
「大事」
クロウは真面目に答えた。
その返事に、二人はまた笑った。
馬鹿にしている笑いではない。
少しだけ、温かい笑いだった。
クロウは楽器を片づける。
ヴィオラをケースに戻す。
留め具を閉じる。
ひとつ。
ふたつ。
左右が揃う。
かち、と音がする。
落ち着く音だった。
ふと、昼休みのことを思い出す。
ミアが来た。
教室の空気が跳ねた。
知らないふりをした。
あとで、ひとつ言うことを聞くと言った。
ミアは、気づいていた。
クロウが学校を守ろうとしたことに。
たぶん、もう忘れない。
ミアは人の弱点を見つけるのが好きだ。
何を守ろうとするのか。
どこで黙るのか。
どこで動くのか。
それを見つけると、嬉しそうに笑う。
きっと、学校もその中に入った。
それでも。
クロウは音楽室を見る。
トムが工具の話をしている。
リラがそれを聞いて笑っている。
ここは、穏やかで快適な場所だ。
ここには、続いてほしい音がある。
だから、クロウは、ケースの留め具をもう一度指で確かめた。
守らなくてはいけない。
ここだけは。
少なくとも、もう少しだけ。




