第9.5話 時計をずらす幽霊
――帝国暦三五〇年・春中頃 サザ子爵家邸――
最近、屋敷の時計がおかしい。
最初に気づいたのは、大食堂にある柱時計だった。
サザ子爵家邸には、大きな時計がいくつも置かれている。どれも鍵を差して巻くもので、午前零時、午前六時、正午、午後六時になると鐘が鳴る。
午前六時なら朝食。
正午なら昼食。
午後六時なら夕食。
屋敷の人たちも、その音を一つの目安にして動いている。
本来なら、あちこちの時計の鐘はほとんど同じ頃に鳴る。
もちろん、ほんの少しくらいの差ならある。
それくらいはクロウも気にしない。
でも、最近は違った。
正午。
大食堂の柱時計が鳴る。
ゴーン。
ゴーン。
鐘の余韻が消える。
それから少しして、廊下の向こうから別の時計が鳴った。
さらに少し経って、今度は別の部屋。
ゴーン。
「……」
クロウは席に着いたまま、扉の方を見た。
気持ちが悪い。
全部ずれている。
しかも、時計がずれれば、人の動きも少しずつずれる。
大食堂では皿が並んでいるのに、料理がまだ全部届いていない日がある。別の日には、まだ人が集まっていないのに早く準備が始まっていた。
ほんの数分。
それだけだった。
でも、今までそろっていたものがそろわない。
「お兄様、どうしたの?」
隣にいたミアが聞いた。
「時計」
「時計?」
「ずれてる」
ミアは少し耳を澄ませた。
遠くで最後の鐘が鳴り終わる。
「そう?」
「そう」
「風のせいじゃない?」
「風?」
「うん。風が吹いて、針が動いたとか」
クロウは大食堂の柱時計を見る。
木の扉。
その奥にある文字盤。
そもそも部屋の扉も閉まっている。
「風じゃ針は動かないよ」
「そうなの?」
「そう」
「じゃあ違うね」
ミアはあっさり言って、膝の上の黒猫の背を撫でた。
少し笑っているように見えた。
クロウは一度だけミアを見た。
でも、まだ何も言わなかった。
◇ ◇ ◇
その日の午後。
クロウは大食堂の柱時計を調べた。
鍵で木の扉を開ける。
中を見る。
歯車は問題なく動いている。
振り子も一定。
油が切れているわけでもない。
歯が欠けているところもない。
ゼンマイの巻き上げにも異常はなかった。
「おかしいな」
もう一度見る。
触る。
聞く。
でも、原因らしいものは見つからない。
壊れてはいない。
それなのに時刻だけがずれている。
クロウは少し遅れていた針を正しい位置へ戻した。
振り子の動きを確認する。
一定。
これでいい。
扉を閉めた。
◇ ◇ ◇
翌朝。
外はまだ薄暗かった。
午前六時には少し早い。
クロウは眠っていた。
その時。
ゴーン。
「……」
目が開いた。
ゴーン。
クロウは寝台の上で天井を見る。
早い。
少しして、廊下から人の動く気配が聞こえてきた。
扉が開く音。
足音。
朝食の準備も始まったらしい。
それから別の時計が鳴った。
今度は少し近い。
さらに時間が経って、本来の六時になる。
また別の鐘。
「……気持ち悪い」
クロウは起き上がった。
昨日、ちゃんと直した。
振り子も見た。
歯車も見た。
それなのに。
またずれている。
◇ ◇ ◇
それから三日経っても、時計は直らなかった。
正確には、クロウが直しても、次の日になるとまた違う時間になっていた。
「クロウ、本当に壊れていないのか?」
大食堂で兄様が聞いた。
「壊れてない」
「全部見たのか?」
「見た」
鐘の鳴る時計は、ほとんど確認した。
歯車。
振り子。
巻き上げ。
どれにもおかしなところはない。
それなのに、五分遅れている時計もあれば、二分早くなっている時計もあった。
全部が同じようにずれているなら、まだ分かる。
でも、ばらばらだった。
「変だな」
「うん」
クロウが柱時計を見ていると、ミアが黒猫を抱いたまま近づいてきた。
「猫じゃない?」
「……猫?」
「この子が夜中に触ってるとか」
ミアは腕の中の黒猫を見る。
黒猫もこちらを見た。
クロウは柱時計を見る。
かなり高い。
「時計の扉、開けられないよ」
「頑張ったのかも」
「椅子もいる」
「登ったのかも」
「猫が椅子を運ぶの?」
「……」
ミアが黒猫を見る。
「できる?」
「にゃあ」
「できないって」
「今の、そういう意味?」
「たぶん」
「違うと思う」
ミアは楽しそうに笑った。
クロウは少しだけ目を細める。
「ミア」
「なに?」
「何か知ってる?」
「知らないよ」
すぐに答えた。
早い。
クロウはミアを見る。
ミアもクロウを見る。
黒猫だけが二人の間で瞬きをした。
でも、証拠はない。
ミアは少し考えるように首を傾げる。
「じゃあ、幽霊かも」
「幽霊?」
「うん。夜中に出てきて、時計をずらしてるの」
「なんで?」
「いたずら好きだから」
「幽霊が時計をずらす意味が分からない」
「意味なんてないのかも」
「それならもっと分からない」
「でも、幽霊なら見つからないよ」
「……」
ミアは黒猫を抱いたまま、にこにこしている。
「幽霊じゃないと思う」
「そう?」
「誰かが触ってる」
一瞬だけ。
ミアの笑顔が止まった。
ほんの少し。
すぐに元へ戻る。
「誰だろうね」
「……さあ」
クロウは時計へ視線を戻した。
近くでミアがまだ笑っていた。
かなり怪しい。
でも、まだ見てはいない。
◇ ◇ ◇
その後も時計はずれ続けた。
クロウが直す。
次の日にはずれている。
また直す。
またずれる。
特に落ち着かないのは、午前六時、正午、午後六時だった。
ゴーン。
少しして。
ゴーン。
さらに遅れて。
ゴーン。
朝食も昼食も夕食も、そのたびに少しだけ調子が狂う。
食事の時だけではない。
本を読んでいても。
作業をしていても。
遠くから遅れた鐘が鳴ると、クロウの手が止まった。
今のはどの時計か。
何分ずれていたか。
頭の中で確認してしまう。
「またずれてる」
クロウは何度も時計を直した。
そして、少しずつ気づいた。
クロウが時計を直している時。
近くにミアがいることが多い。
「お兄様、最近ずっと時計見てるね」
「ずれてるから」
「大変だね」
「うん」
「今日はどれくらいずれてた?」
「三分」
「へえ」
ミアは柱時計を見る。
それからクロウを見る。
「……楽しそうだね」
「そう?」
「うん」
ミアは黒猫を抱いたまま歩いていった。
足取りが軽い。
怪しい。
かなり怪しい。
でも。
まだ見てはいない。
◇ ◇ ◇
次の日。
クロウはいつもよりかなり早く目を覚ました。
午前六時の鐘が鳴るには、まだ時間がある。
窓の外は薄暗く、春の朝の光がようやく空の端に出始めたところだった。
屋敷の中も静かだった。
人の声はしない。
廊下にも、まだほとんど足音がない。
クロウは水を飲もうと部屋を出た。
廊下を歩く。
その時。
大食堂の方から小さな音がした。
かちゃ。
クロウは足を止めた。
振り返る。
待つ。
もう一度。
かちゃ。
時計の扉を開ける時の音に似ている。
クロウは大食堂へ向かった。
足音を立てないように歩く。
扉が少しだけ開いている。
中を覗いた。
「……」
柱時計の前に、小さな人影がいた。
椅子の上に乗っている。
時計の扉は開いている。
黒い髪。
足元には黒猫。
クロウは何も言わずに見た。
ミアが文字盤へ手を伸ばす。
指が針に触れる。
ほんの少し。
動かした。
その位置を確かめるように顔を近づけ、それから満足そうに頷く。
クロウは少し待った。
もう十分だった。
「ミア」
肩が跳ねた。
ミアがゆっくり振り返る。
「……お兄様」
「何してるの?」
「……」
ミアは時計を見る。
クロウを見る。
足元の黒猫を見る。
少し考えた。
「風」
「今、手で動かしてたよ」
「じゃあ猫」
「猫はそこにいるよ」
「……」
ミアはもう一度黒猫を見た。
黒猫もミアを見る。
「にゃあ」
ミアがすぐクロウを見る。
「ほら、猫だって」
「違うと思う」
クロウが一歩近づいた。
「ミア」
「風かもしれないよ!」
「だから風じゃ――」
言い終わる前に、ミアが椅子から飛び降りた。
着地する。
すぐに黒猫を抱き上げる。
「猫がやったの!」
「今見てたよ!」
「風も吹いた!」
「部屋の中だよ!」
ミアはそのまま大食堂から走って逃げた。
「待って!」
「猫のせい!」
「違う!」
「風!」
「それも違う!」
クロウも追いかける。
さっきまで静かだった屋敷に、二人分の足音が響いた。
ぱたぱた。
たたたた。
「ミア、時計戻して!」
「猫が戻す!」
「無理だよ!」
「じゃあ風!」
「もっと無理!」
廊下の角をミアが曲がる。
黒猫を抱えたままなのに速い。
クロウも追う。
その時だった。
ゴーン。
「……」
クロウの足が止まった。
まだ午前六時には早い。
大食堂の柱時計。
さっきミアが動かした時計。
ゴーン。
廊下に低い鐘が響く。
やっぱり。
ものすごく気持ちが悪い。
廊下の先では、ミアも足を止めていた。
こちらを振り返る。
「ほら! 勝手に鳴った!」
「ミアがずらしたから!」
「風かも!」
「ミア!」
また逃げた。
「時計戻して!」
「あとで!」
「今!」
「猫が――」
「猫はもういい!」
ミアの笑い声が響く。
クロウの足音がその後を追う。
朝の屋敷は、もう静かではなかった。
時計をずらす幽霊は、結局いなかった。
いたのは。
風と猫のせいにしながら逃げる妹だけだった。




