歩いていく朝
――帝国暦三五〇年・春初め サザ子爵家邸――
サザ子爵家の朝は、だいたい決まっている。
家族は、同じ食卓で朝食をとる。
焼きたてのブレッド。
薄く切られたハム。
香ばしいベーコン。
ソーセージ。
それから、色のそろったサラダ。
皿の位置も、ナイフとフォークの角度も、いつも通りだった。
クロウはそれを見ると、少しだけ安心する。
朝の食卓は、まだ揃っている。
少なくとも、始まる前は。
「今日はエルベのベリージャムね」
母様が、嬉しそうに瓶を手に取った。
エルナリア・ザザ。
サザ子爵家の母。
小柄で、金の髪を朝の光にやわらかく揺らしている。
ぱっと見ただけなら、母というより、エナ姉やミアと並ぶ姉妹のようにも見える人だった。
母様はジャムが好きだ。
特に、サザルトの街にある老舗、エルベのジャムが好きだった。
新作が出ると、ときどきクロウも一緒に買いに行く。
店の棚には、同じ形の瓶が整然と並んでいる。
赤。
橙。
薄い紫。
淡い金。
クロウはあの並びを見るのが少し好きだった。ただし、母様は選ぶ時だけ少し揃っていない。
「これも素敵ね。こちらもきれい。あら、季節限定なの?」
そう言って、たいてい三つは増える。
今日のジャムも、その時に買ったものだった。
「クロウも食べる?」
「少しだけ」
「少しだけね」
母様はにこにこしながら、ブレッドにジャムを乗せる。
少しだけ。
本人はそう思っているらしい。
クロウから見ると、少し多い。
でも、母様は嬉しそうだったので、クロウは何も言わなかった。
エナ姉はメープルシロップを手に取る。
「私は今日はこれにするわ」
その横で、ミアはチョコレートスプレッドの瓶を見ている。
見ているというより、狙っている。
「ミア」
テッドが言う。
「塗りすぎるなよ」
「まだ塗ってないよ」
「塗る前に言っている」
「兄様は未来が見えるの?」
「お前の場合は見える」
ミアは楽しそうに笑った。
朝は、静かだった。
父様は黙って食べている。
レナ様は穏やかに皿を整える。
母様はジャムを眺めている。
エナ姉はクロウの様子を見ている。
ミアだけが、少しだけ余分に空気を揺らしている。たぶん、分かってやっている。
「お兄様は、今日は学校で何をするの?」
ミアが聞いた。
クロウの手が、少し止まる。
「……授業」
「放課後は?」
「まだ決めてない」
「へえ」
ミアはチョコレートスプレッドをブレッドに塗りながら、にこりと笑った。
「楽しそうだね」
クロウは答えなかった。
ミアはもう、学校を覚えている。
クロウが守ろうとした場所を。
クロウが答えないでいると、エナ姉が少し身を乗り出した。
「クロウ、学校で困ったことはない?」
「ない」
「本当に?」
「うん」
「無理してない?」
「してない」
「誰かに強く言われたりしていない?」
エナ姉の声は優しい。
優しいけれど、少し近い。
クロウはブレッドを一口食べる。
ジャムは甘い。
少し多い。
「大丈夫」
そう言うと、エナ姉はほっとしたように微笑んだ。
安心した顔。
でも、少しだけ寂しそうでもある。クロウはそれを見ると、胸の奥が少しだけ引っかかる。
だから、早く食べ終えることにした。
食卓の上は、少しずつ乱れていく。
ジャムの瓶。
メープルシロップ。
チョコレートスプレッド。
サラダの皿。
ミアのナイフの角度。
エナ姉のブレッドの欠片。
全部を直していると、学校に遅れる。だから、クロウは自分の皿だけを静かに整えた。
食べ終える。
ナプキンを畳む。
椅子を戻す。
「ごちそうさま」
「早いわね」
母様が言う。
「準備があるから」
「まあ」
母様は嬉しそうに微笑む。
「学校が楽しみなのね」
クロウは少しだけ黙る。
「……うん」
小さく頷くと、ミアが楽しそうに目を細めた。
クロウはそれに気づかないふりをして、食堂を出た。
学校へ行く前に、短い稽古がある。
庭の端。
朝の光がまだ浅い場所で、プラムが待っていた。
黒髪黒瞳のメイド。
クロウ付きであり、母様の護衛でもある。
本当は、伯父である皇太子から派遣されている人でもあった。
プラムは礼儀正しく一礼する。
「クロウ様」
「おはよう」
「本日も、少しだけ」
「うん」
最初は、嫌だった。
剣は重い。
手が疲れる。
振れば、体のどこかが少し痛む。
それに、剣は乱れを直す道具ではないと思っていた。
けれど最近は、少しだけ違う。
プラムの差し出す訓練用の剣を受け取る。
鞘に収まった姿は静かだった。
余計な飾りはない。
けれど、鍔の細工は細かい。
柄の巻きも揃っている。
刃を抜かなくても、内側に力を持っているのが分かる。
無駄がない。
真っ直ぐで、静かで、少し厳しい。
剣というものは、ただ振るためのものではないのかもしれない。
形を保つためのもの。
姿勢を整えるためのもの。
自分がどこへ向いているのか、分からなくならないためのもの。
クロウはそう思うようになっていた。
「構えてください」
プラムが言う。
声は静かだ。
クロウは剣を構える。
「右足が、半歩だけ外です」
プラムの声が落ちる。
クロウは足を直す。
「肩に力が入っています」
力を抜く。
「視線は、剣先だけではなく、全体へ」
「……うん」
剣は、難しい。
けれど、乱れている場所が分かる。
足。
肩。
腕。
呼吸。
一つずれると、全体が少しだけ重くなる。
それは時計に似ていた。
歯車ほど小さくはない。
音楽ほどやわらかくもない。
でも、どこかに決まりがある。
プラムが木剣を構えた。
「参ります」
軽く打ち込まれる。
クロウは受ける。
腕が少し震える。
「遅れています」
「うん」
「もう一度」
もう一度。
次は、少しだけ合う。
「今のは良いです」
プラムは短く言う。
褒める時も、礼儀正しい。
クロウは小さく息を吐いた。
嫌ではない。
まだ好きとは言い切れない。
でも、嫌ではなくなった。
短い稽古が終わると、プラムは剣を受け取って丁寧に収めた。
「馬車を呼びましょうか?」
「歩く」
クロウはすぐに言う。
プラムは少しだけ瞬きをする。
「本日も、ですか」
「うん」
「かしこまりました」
プラムはそれ以上、強く言わない。
ただ、少しだけ視線を向ける。
護衛としては、たぶん馬車の方がいい。
でも、クロウは歩きたかった。
帝国人民学校は、庶民の子も通う学校だ。
馬車で行けば、目立つ。
自分が貴族であることを隠しているわけではない。けれど、知らない人も多い。
それがよかった。
そこでは、クロウはただのクロウでいられる。
誰かの弟でもない。
聖女の弟でもない。
元皇女の息子でもない。
皇太子が気にしている子でもない。
ただ、少し変わった同級生。
そのくらいが、ちょうどいい。
屋敷の門を出る。
朝の道に、光が落ちている。
街へ向かう道は、まだ混みすぎていない。
クロウは歩き出した。
今日の放課後は、何をしよう。
工作室で、トムにばねの続きを見せてもらえるかもしれない。
音楽室で、リラと昨日の旋律をもう一度合わせられるかもしれない。
順番は、工作室が先。
そのあと音楽室。
たぶん、それがいい。
クロウは少しだけ足取りを軽くした。
姉妹はいない。
母様の馬車もない。
父様のチェロも、屋敷の中にある。
朝の道には、まだ誰の声も強くない。
学校へ向かう時間は、静かに整っていた。
やっぱり学校は、息がしやすい。
クロウはそう思いながら、歩いていく。
守らなければならない場所へ。
少しだけ、急ぎながら。




