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僕の壊れかけのオルゴール  作者: サザルト
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13/41

言葉より、合う音

――帝国暦三五〇年・春初め サザ子爵家邸・テッドの部屋――


 テッドの部屋は、整っている。

 少なくとも、サザ子爵家の中では、かなり整っている方だった。


 机の上には、帝国法の書物。

 行政史の写本。

 試験用の問題集。

 羽ペンとインク壺。


 それから、細かく書き込まれた紙束。

 すべてが使うために置かれている。

 散らかってはいない。

 ただ、少しだけ詰まっている。

 テッドの部屋は、いつも少し真面目すぎた。


 クロウは扉の前で足を止める。

 中から声が聞こえる。

「その条文は、属州行政の方にかかると思う」

 テッドの声。

 少し低く、少し硬い。


「けど、地方官の裁量権と見るなら、別の解釈もできるだろ」

 もう一人の声。

 アランだった。

 テッドの親友で、同じく帝国官僚を目指している青年。

 しがない騎士家の次男坊だと、本人はよく笑って言う。

 けれど、その言い方は投げやりではない。

 だからこそ、自分で道を開かなければならない。

 そう思っている人の声だった。


「入っていいぞ」

 テッドが扉の向こうから言った。

 まだノックもしていない。

 クロウは少しだけ目を瞬かせる。


「……なんで分かったの?」

「お前は扉の前で止まりすぎる」

 中から返ってくる。

 アランの笑い声が続いた。


「入っておいで、クロウ」

 クロウは扉を開けた。

 部屋にはテッドとアランが向かい合って座っている。テッドはいつも通り、背筋を伸ばしていた。

 アランも姿勢がいい、清潔で、丁寧。髪も服もきちんと整っていて、袖口の折り目まで真っ直ぐだった。


 クロウは、アランのそういうところを少し見習いたいと思っている。

 整っているのに、硬すぎない。

 清潔なのに、押しつけがましくない。

 そういう人は、見ていて息がしやすい。


「勉強中?」

「ああ」

 テッドが答える。

「官僚登用試験の範囲を確認していた」

「範囲、広いね」

「広い」

 テッドは短く言う。

 アランが笑った。


「法律、歴史、統治、行政。覚えるだけならまだいいんだけどね。実際は、それをどう使うかまで見られる」

「難しい?」

「難しいよ」

 アランはあっさり頷く。


「でも、僕はやらないといけない。君の兄上ほど家を継ぐ道があるわけじゃないから」

「アラン」

 テッドが少しだけ眉を寄せる。


「卑下するな」

「してないさ。事実を言っただけだよ」

 アランは穏やかに笑う。

「僕は騎士家の次男坊だ。家名だけで宮廷に入れるほど強い立場じゃない。だから、試験で入る。実力で認められる。その方が分かりやすい」


 クロウはアランを見る。

 言葉がきれいに並んでいる。

 飾ってはいない。

 でも、乱れていない。


「……すごいね」

「そうかな」

「うん」

 アランは少しだけ照れたように笑った。


「クロウはいつも、ちゃんと聞いてくれるね」

「聞くのは、嫌いじゃない」

「話しやすいよ」


 それは、クロウには少し不思議だった。 自分は、うまく返せている自信がない。でもアランは、クロウが黙って聞いていても、急かさない。


 言葉を探している間も、待ってくれる。

 テッドとは違う。テッドは言葉で線を引く。 アランは言葉を置いて、こちらが取るのを待つ。どちらも、クロウにはありがたかった。


「休憩にするか」

 テッドが本を閉じる。

「そうだね」

 アランが頷く。

「弾こうか」

 クロウは少しだけ顔を上げた。


「いいの?」

「そのために来たんだろ」

 テッドが言う。

「半分は」

「もう半分は?」

「カーテン」

「は?」


 テッドが眉をひそめる。

 クロウは部屋の窓を見る。

 右側のカーテンだけ、少ししわが寄っている。

 入った時から気になっていた。


「……あとで」

「今やるなよ」

「うん」

 クロウは頷く。

 アランが小さく笑った。


「いいね。クロウらしい」

 テッドは少しだけため息をついた。

 三人は音楽室へ移った。

 テッドはバイオリン。

 アランもバイオリン。

 クロウはヴィオラ。


 父のチェロがある時とは違う。

 大きな土台はない。だから、少し緊張する。でも、嫌ではなかった。


 三人で弾く時は、楽譜通りに進めることもある。けれど、時々、決めきらないまま音を重ねる。

 その場で相手の音を聞く。

 少し前へ出る。

 引く。

 戻る。

 呼ぶ。

 応える。


 言葉よりも、分かりやすい時がある。

 テッドが最初に音を置いた。

 まっすぐで、硬い音。

 アランがそれに続く。

 テッドより少し柔らかい。

 でも、芯がある。


 クロウは二人の下に、ヴィオラの音をそっと差し込んだ。

 高すぎず。

 低すぎず。

 間を埋める。


 テッドが一度こちらを見る。

 ほんの一瞬。

 入っていい、という合図。

 クロウは少しだけ音を前へ出す。

 アランがそれを受けて、旋律を変えた。


 楽譜にはない流れ。

 その場だけの音。

 もう一度同じにはならない。

 だから、少し怖い。

 でも、少し楽しい。


 テッドの音が形を作る。

 アランの音がそこに余白を作る。

 クロウの音が、その間をつなぐ。

 言葉では、こうはいかない。

 言葉にすると、少し遅れる。

 説明しようとすると、形が崩れる。


 でも音なら、今のまま渡せる。

 少し強い。

 少し遠い。

 今なら入れる。

 今は引いた方がいい。

 そういうものが、全部、音の中にある。


 クロウは弓を動かした。

 アランが微笑む。

 テッドが眉を少しだけ動かす。

 それだけで、分かる。

 もう少し。

 まだ行ける。


 そこまででいい。

 曲は、短く終わった。

 最後の音が部屋に残る。

 しばらく誰も話さない。

 沈黙が、嫌ではなかった。


「今の」

 アランが弓を下ろす。

「途中、クロウが先に入ったね」

「うん」

「よかったと思う」

 テッドも頷く。


「ずれかけたが、戻したな」

「少しだけ」

「その少しだけが大事なんだよ」

 アランが言う。


 クロウはヴィオラを見た。

 言葉で褒められると、少し困る。

 でも、今の言葉は悪くなかった。


「もう一回やる?」

 アランが聞く。

「やる」

 クロウはすぐに頷く。

 テッドが苦笑した。


「勉強より返事が早いな」

「音は分かりやすい」

「法律も分かれ」

「法律は、少し硬い」

「硬くていいんだよ」

 アランが笑う。


「硬いものを、どう扱うかが大事なんだ」

 テッドが少し満足そうに頷く。

「分かっているじゃないか」

「君の受け売りだよ」


 二人はまた、官僚試験の話を始める。

 試験。

 登用。

 宮廷。

 地方行政。

 恩顧と実力。

 クロウにはまだ全部は分からない。

 でも、二人が真剣に未来へ向かっていることは分かった。


 テッドは、家を背負うため。

 アランは、家に頼りきれないからこそ、自分の力で立つため。

 どちらも、少し硬い。

 でも、まっすぐだった。


 クロウは二人の話を聞いていた。

 聞いているうちに、ふとテッドの部屋のカーテンを思い出す。

 右側だけのしわ。

 さっきから、頭の端に残っている。

 音楽室から戻ると、テッドとアランはまた机に向かった。


 紙を広げる。

 インク壺の位置を直す。

 問題集を開く。

 クロウはしばらく黙っていた。

 それから、そっと窓辺へ行く。


「クロウ」

 テッドが顔を上げる。

「何をしている」

「カーテン」

「まだ気にしていたのか」

「うん」


 クロウはカーテンに触れた。

 布の端を持ち、しわを伸ばす。

 引きすぎない。

 形を変えない。

 ただ、落ちる場所を少し戻す。


 右。

 左。

 同じくらい。

 窓から入る光が、少しだけ揃う。

 部屋が、ほんの少し静かになった。

 クロウは手を離す。


「これでいい」

 テッドは呆れたように見ていた。

 アランは楽しそうに笑っている。

「ありがとう、クロウ」

「僕の部屋ではない」

「でも、気になっていたんだろう?」

「うん」

「なら、助かったよ」


 アランはそう言って、カーテンを見た。

「確かに、少し明るくなった」

 テッドはため息をつく。

「お前まで合わせるな」

「いいじゃないか。実際、少し整った」

「そういう問題ではない」


 クロウは二人を見る。

 テッドの声は少し硬い。

 アランの声は少し柔らかい。

 どちらも、さっきの音に似ていた。

 クロウは小さく頷く。


「……うん」

「何に納得した」

「似てると思って」

「何が」

「音と、話し方」


 テッドは少し黙る。

 アランは目を細めて笑った。

「それは、嬉しいな」

「俺は少し複雑だ」

 テッドはそう言いながらも、本へ視線を戻した。


 クロウはもう一度カーテンを見る。

 しわは、まだ少し残っている。

 でも、引っかからない。

 全部を伸ばすと、布が弱る。

 レナ様が言っていた。

 だから、これでいい。


 クロウは部屋を出る。

 背後では、テッドとアランがまた試験の話を始めていた。

 難しい言葉。

 硬い話。

 でも、その間に、さっきの音が少しだけ残っている。


 クロウは廊下を歩きながら思う。

 会話より、分かりあえる時がある。

 音は、ずれも、戻る場所も、隠さないから。


 そして、テッドの部屋のカーテンは。

 さっきより少しだけ、まっすぐだった。

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