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おやすみの前に

 ――帝国暦三五〇年・春初め サザ子爵家邸――


 母様とエナ姉は、よく似ている。どちらも金の髪で、長く、光を受けるとやわらかく揺れる。


 背は小柄。

 瞳は青い。

 遠くから見ると、姉妹のように見えることがある。


 実際は、母と娘ではない。エナ姉の母はレナ様だ。レナ様は黒髪で、落ち着いていて、静かに人を動かす人だった。どちらかといえば、ミアの方がレナ様にかなり似ている。


 相手をよく見ているところや言葉の置き方。逃げ道を、気づかないうちに少しだけ狭くするところ。そういうところが、似ている。


 エナ姉は、実の母とあまり似ていない。だからなのか、エナ姉は母様と仲が良かった。

 並ぶと、本当に姉妹のようだった。


 母様が笑う。

 エナ姉が笑う。

 二人の金の髪が揺れる。

 そういう時、屋敷の空気は少しだけ明るくなる。


 少しだけ、眩しい。

 クロウは、それを見ているのが嫌いではなかった。


 母様と話していると、よくエナ姉の話が出る。


「今日のレオエナ、少し元気がなかったわ」

「エナ姉が?」

「ええ。クロウに抱きつく前に声をかけた方がいいかしら、って聞いてきたの」

「……聞いてきたんだ」

「ええ。とても真剣に」


 母様は微笑んだ。

 夜の部屋は静かだった。

 窓の外には、薄い月明かり。

 部屋の中には、母様のやわらかな声。

 父様が音楽室にいる夜もある。

 チェロの音が流れてくる夜は、その音を聴く。


 けれど、演奏がない夜は、母様がクロウの部屋に来ることが多かった。

 寝る前に、少しだけ話をする。

 その時間が、クロウは好きだった。


 昼の母様は、少しだけ揃っていない。ジャムを選びすぎる。父様の音が聞こえると、話の途中でもそちらへ行きたそうにする。それに、クロウへの贈り物も少しだけ多い。


 でも、夜の母様は静かだった。ベッドの端に腰かけて、クロウをそっと抱きしめる。

 エナ姉ほど強くない。レナ様ほど逃げ道を塞がない。ただ、そこにいてくれる。


「今日は何があったの?」

 母様が聞く。

 その声は、急がない。

 クロウは少し考える。

「学校で、トムと歯車を見た」

「楽しかった?」

「うん」

「リラちゃんとは?」

「音楽室で少し弾いた」

「まあ」


 母様は嬉しそうに笑う。

「クロウは、学校が好きなのね」

 クロウは少しだけ黙る。

 それから、小さく頷く。

「うん」

「いいことね」

「……うん」


 母様はそれ以上、深く聞かない。

 どんなところが好きなのか。

 誰と何を話したのか。

 ミアが来たことで困っていないか。

 そういうことも、聞こうと思えば聞けるはずだった。


 でも母様は、全部を引き出そうとはしない。


 クロウが言える分だけを、受け取る。

 それが、落ち着く。


「エナ姉は」

 クロウはぽつりと言った。

「少しだけ、声をかけるようになった」

「あら」

 母様の目がやわらかくなる。

「偉いわね」

「まだ少しだけ」

「少しだけでも、大事よ」


 母様はそう言って、クロウの髪を撫でた。

 指の動きはゆっくりだった。

 乱さない。

 急がせない。

 ただ、髪の流れに沿って動く。


「レオエナはね」

 母様が静かに言う。

「優しい子なの」

「知ってる」

「ええ。クロウは知っているわね」

 母様は少し笑う。


「でも、優しい子ほど、自分の優しさが重くなっていることに気づかない時があるの」

 クロウは目を伏せる。

「エナ姉の優しいは、少し重い」

「そうね」

 母様は否定しない。


「でも、クロウが言ってくれるから、あの子は少しずつ覚えるわ」

「僕が?」

「ええ」

「……僕は、少し強いって言っただけ」

「それが大事なのよ」

 母様の声は、やわらかかった。


「きれいね、優しいわね、素晴らしいわね。そう言われ続けると、人は自分の強さに気づきにくくなるもの」

 それは、エナ姉のことだった。

 でも、少しだけ母様自身のことのようにも聞こえた。


 母様もまた、元皇女としてたくさんの人に大切にされてきた人だった。父である皇帝にも、兄である皇太子にも、今もとても可愛がられている。


 母様はそれを嫌がってはいない。けれど時々、少しだけ遠くを見ることがある。クロウはその顔を見ると、何かを直したくなる。


 でも、母様の表情は、時計ではない。

 触れば戻るものではない。

 だから、聞く。


「母様は?」

「うん?」

「重い?」


 母様は少しだけ目を丸くした。

 それから、楽しそうに笑った。


「私は、たぶん少し多いわ」

「うん」

「そこで頷くのね」

「母様も、少し多い」

「まあ」

 母様は笑った。


 声を立てすぎない、静かな笑いだった。

 クロウも少しだけ口元を緩める。

 こういう時間は、揃っている。

 言葉が多すぎない。

 沈黙も、重すぎない。

 母様の腕は近いけれど、苦しくない。

 外の月明かりも、ちょうどいい。

 父様のチェロがない夜でも、ここには別の調和がある。

 クロウはそう思った。


「クロウ」

「うん」

「明日も学校?」

「うん」

「楽しみ?」

「うん」

 母様は微笑む。


「よかった」

 それだけだった。

 それだけで、十分だった。

 母様はクロウの額にかかった髪をそっと避ける。

 指先が、くすぐったい。


「そろそろ眠りましょう」

「うん」

 クロウは布団に入る。

 母様が端を整えてくれる。

 右。

 左。

 少しだけ折り返す。

 綺麗に整っている。

 でも、きつくない。

 クロウはその形を見ると、少し安心した。


「おやすみ、クロウ」

「おやすみ、母様」

 母様は身をかがめる。

 額に、そっと口づけた。

 軽い。

 やわらかい。

 残りすぎない。

 でも、ちゃんと残る。


 母様の金の髪が、頬の近くで淡く揺れた。

 クロウは目を閉じる。

 こういう日が続けばいいと思った。

 母様と、静かに話して。

 少し笑って。


 おやすみの前に、額へ挨拶をもらう。

 父様の音とは少し違う。

 レナ様の糸とも違う。

 エナ姉の優しさとも違う。

 ミアの揺らしとも違う。


 これは、母様の調和だった。


 クロウは眠りに落ちる前に、もう一度だけ思う。この時間も、壊れなければいい。


 できれば、ずっと。


 母様の足音が、静かに部屋を出ていく。

 扉が閉まる音は、小さかった。

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