笑って、プラム
――帝国暦三五〇年・春初め サザルトの街――
母様は、ジャムが好きだ。特に、サザルトの街にある老舗エルベのジャムが好きだった。
瓶の形。
ラベルの色。
果実の並び。
棚に整然と置かれた小さな瓶たち。
クロウも、あの店は嫌いではない。
ものがちゃんと場所を持っている。
色ごとに並び、味ごとに分かれ、季節のものだけが少しだけ前へ出ている。
そういう棚は、見ていて息がしやすい。
「クロウ」
朝食のあと、母様が嬉しそうに声をかけてきた。手には、小さな紙片がある。
「エルベに新しいジャムが出たそうなの」
「新しい?」
「オレンジブロッサムですって」
母様の瞳が、少しだけ輝いている。
母様は、こういう時だけ少し子どものような顔をする。
「買いに行くの?」
「ええ」
母様は微笑む。
「一緒に来てくれる?」
クロウは少しだけ考えた。
学校はない日だった。
作業小屋の時計も、今日は急がなくていい。
それに、エルベの棚は整っている。
「うん」
そう答えると、母様はとても嬉しそうに笑った。
エナ姉に頼まれて、一緒に街へ買い物に行くこともある。母様と行くこともある。
同じ買い物でも、少し違う。
エナ姉と行く時は、近い。
母様と行く時は、やわらかい。
どちらも嫌いではない。
でも、母様と歩く時間は、少しだけ静かだった。
馬車は、街の入口近くで止まった。
扉が開く。
先にプラムが降りる。
黒髪黒瞳のメイド。
母様の護衛であり、クロウ付きでもある。
いつも礼儀正しく、静かで、隙がない。
今日は、少しだけ顔が怖い。
母様が降りる。
そのあと、クロウも降りた。
「行きましょう」
母様が手を差し出す。
クロウはその手を取った。
小さくて、やわらかい手だった。
母様は見た目だけなら、エナ姉と姉妹のように見える。
金の髪。
小柄な身体。
青い瞳。
街を歩くと、時々、本当に姉妹か何かのように見られることがある。
でも、母様は母様だった。
クロウの手を引く力は弱い。
けれど、ちゃんとそこにある。
後ろでは、プラムが歩いている。
一定の距離。
一定の歩幅。
けれど、表情だけが少し強い。
通りの人が、母様を見て、次にプラムを見て、さりげなく道を空ける。
一人。
二人。
少しずつ、道が開いていく。
クロウはそれを見た。
流れは悪くない。
歩きやすい。
でも、少しだけ硬い。
母様も、それに気づいたらしい。
「プラム」
「はい」
後ろから、すぐに返事がある。
「お顔」
「はい?」
「少し怖いわ」
プラムの足が、ほんの少し乱れた。
「申し訳ございません、姫様」
クロウは母様を見た。
母様は一瞬だけ目を丸くする。
それから、楽しそうに微笑んだ。
「プラム」
「……はい」
「今は奥様です」
プラムの顔が、わずかに強ばる。
動揺している。
クロウには分かった。
プラムは、普段は間違えない。
けれど、母様の護衛として気を張りすぎた時だけ、たまに呼び方が戻る。
『姫様』
母様が、昔そう呼ばれていた頃の呼び方に。
「失礼いたしました、奥様」
プラムは深く頭を下げる。
姿勢はきれい。
でも、空気が少しだけ固くなる。
母様は面白がっている。
でも、通りの人がちらりとこちらを見る。
このままだと、また少し目立つ。
クロウはプラムを見上げた。
「プラム」
「はい、クロウ様」
「笑って」
プラムが止まる。
「……はい?」
「顔が怖いから」
母様が、隣でくすっと笑う。
「そうそう。プラムは笑うと、とても可愛いのよ」
「奥様」
「ね、クロウ」
「うん」
クロウは頷く。
「たぶん」
「たぶん、なのですね」
プラムの声が少しだけ低くなる。
でも、さっきより硬くない。
母様が楽しそうに言う。
「ほら、プラム」
「……承知いたしました」
プラムは表情を作った。
少しだけ。
かなり無理をして。
口元だけが、きゅっと上がる。
目はまだ護衛のまま。
クロウはそれを見て、少しだけ首を傾げた。
「……もう少し」
「これ以上は警備に支障が出ます」
「出ないわ」
母様が即座に言う。
「出ます」
「出ないと思う」
クロウも言った。
プラムが一瞬だけ困った顔をする。
それが、さっきの無理な笑顔より、ずっと自然だった。
母様がとうとう小さく笑った。
クロウも少しだけ口元が緩む。
プラムは目を伏せた。
「……お二人とも、楽しんでおられますね」
「うん」
クロウは正直に答える。
母様も楽しそうに頷いた。
「ええ」
プラムは小さく息を吐く。
それから、もう一度だけ、今度は少し自然に笑った。
通りの硬さが、少しほどける。
さっきまで道を空けていた人たちも、ただの母子とメイドを見る目に戻っていく。
クロウはそれを見て、小さく息を吐いた。
整った。
少しだけ。
エルベの店は、通りの角にある。
古い木の看板。
磨かれた窓。
中には、色とりどりの瓶が並んでいた。
扉を開けると、果実の甘い香りがする。
「まあ」
母様が嬉しそうに声を上げる。
「あったわ」
棚の中央。
季節限定の札の下に、淡い橙色のジャムが並んでいる。
オレンジブロッサム。
ラベルには、小さな白い花が描かれていた。
母様は瓶を手に取る。
「きれいね」
「うん」
クロウは棚を見る。
同じ高さ。
同じ間隔。
奥の列も、前の列も、きちんと揃っている。 とても良い棚だった。
「クロウも見る?」
「見る」
母様が瓶を渡す。
クロウは両手で受け取った。
瓶の中で、淡い橙が光っている。
よく見ると、細かな皮の粒が混ざっていた。
完全に均一ではない。
でも、きれいだった。
こういう揺れは、嫌ではない。
味のためにある揺れだから。
「ひとつで足りる?」
母様が言う。
クロウは母様を見た。
「足りると思う」
「でも、なくなったら寂しいわ」
「二つ?」
「三つかしら」
「……新作は、いつも三つ」
「そうだったかしら」
母様は本気で首を傾げる。
プラムが後ろで静かに言った。
「奥様、新作は基本的に三つ購入されます」
「まあ」
母様が嬉しそうに笑う。
「プラムはよく覚えているわね」
「記録しておりますので」
クロウはプラムを見る。
プラムはもう、怖い顔ではなかった。
まだ少し緊張している。
でも、先ほどよりずっと通りやすい。
母様はオレンジブロッサムのジャムを三つ選んだ。ついでに、ベリーの小瓶もひとつ。ついで、というには少し自然すぎた。
エルベを出ると、街の光が少しまぶしかった。
母様は買ったばかりの紙袋を大事そうに抱えている。プラムはその横で、周囲を見ながら歩いている。
顔は、さっきほど怖くない。
クロウは母様と手をつないだまま歩く。
通りの人の流れ。
店の看板。
馬車の音。
どれも少しずつ違う方向を向いている。
でも、今日はあまり気にならなかった。
母様が楽しそうだった。
プラムが少し笑った。
エルベの棚はきれいだった。
それだけで、街の音は少し揃って聞こえた。
帰りの馬車の中で、母様は紙袋を膝の上に置いていた。
「明日の朝が楽しみね」
「うん」
「クロウも食べるでしょう?」
「少しだけ」
「少しだけね」
母様は微笑む。
たぶん、また少し多い。
でも、それも悪くなかった。
向かいでは、プラムが静かに座っている。
表情はいつもの礼儀正しいものに戻っていた。
けれど、クロウと目が合うと、ほんの少しだけ口元が動いた。
笑おうとしたのかもしれない。
クロウは小さく頷いた。
馬車が屋敷へ向かって進む。
車輪の音が、一定に響く。
母様と手をつないで街を歩く。
プラムの顔を少しだけほどく。
ジャムを三つ買う。
そして、帰る。
よくあることだった。
特別ではない。
でも、クロウはこういう時間が好きだった。 何度あってもいいと思うくらいには。
馬車の揺れに合わせて、紙袋の中の瓶が小さく触れ合う。
かすかに、こつ、と鳴った。
その音は、少しだけ甘い気がした。




