第65話 サロ湖へ行きました
――帝国暦三五〇年・夏終盤 サザ子爵領・サロ湖――
馬車が動き出した。
サロ湖までは、屋敷からそう遠くない。
けれど、今日の一行は遠出でもするような人数になっていた。
護衛に侍女、料理人、それにかなりの荷物まである。皇太子殿下も母様もいて、セフィリアとティナリア、それからクロウたちも一緒だった。
馬車の中で、クロウは窓の外を見る。
今日の夕方には、大食堂で母様の誕生日会がある。
その前に、湖へ行くことになった。
心が落ち着く暇がない。
◇ ◇ ◇
サロ湖に着くと、ティナリアがすぐに馬車の窓から外を見た。
「綺麗です」
湖は、夏の終わりの光を受けて静かに揺れていた。
大きすぎる湖ではないけれど、屋敷の近くにあるものとしては十分に広い。水面の向こうには森が見えて、風が吹くと草の匂いと水の匂いが混じった。
「ここがサロ湖?」
ティナリアが聞く。
「うん」
「どういう湖なのですか?」
今度はセフィリアも興味を示した。
クロウが答えようとしたけれど、先に兄様が口を開いた。
「この辺りには、昔、火山の噴火でできた窪地があるんです。そこに水が溜まってできたのが、このサロ湖だと言われています」
セフィリアは湖を見る。
「火山の噴火で」
「はい。数百年前のことだと聞いています」
「魚はいるのですか?」
ティナリアが聞いた。
「いるらしい」
クロウが答える。
「らしい?」
「たまに獲れるって聞いた」
「クロウは獲ったことがないのですか?」
「ない」
「どうして?」
「魚を獲りに来たことがない」
「なるほど」
ティナリアは真面目に頷いた。
その間にも、使用人たちは動いていた。
敷物が広げられ、日差しを避ける布が張られ、飲み物や弁当の籠が次々に用意されていく。
気づけば、湖畔にゆっくり過ごせる場所ができていた。
かなり早い。
クロウは少しだけ驚いた。
皇太子殿下の一行は、こういう準備に慣れているらしい。
皆で腰を下ろした。
皇太子殿下は母様とレナ様の近くに座り、三人で穏やかに話している。
たぶん、帝都のことや皇帝、皇太后のこと、それに最近の帝都の様子だろう。
母様はとても楽しそうだった。
レナ様も穏やかに相槌を打っていて、皇太子殿下も屋敷にいる時より少し柔らかい顔をしていた。
セフィリアとティナリアは、湖を眺めながら何度も質問してきた。
「この湖には、名前の由来があるのですか?」
「知らない」
「泳げるのですか?」
「泳がない方がいい」
「船はありますか?」
「たぶん、漁に使う小さいのはある」
「今日は乗れますか?」
「分からない」
クロウは聞かれるたびに短く答えた。
自分でも、とても案内に向いていないと思う。
「ティナリア様」
そこへミアがやってきた。
「何ですか?」
「兄様がこういう返事をしてる時は、ちょっと寂しがってる時なんだよ」
「え?」
クロウは思わずミアを見た。
初めて聞いた。
「そうなのですか?」
「うん。だから、手をつないであげると喜ぶよ」
「違うけど」
すぐに言った。
ミアを見ると、クロウと目が合ったところで少しだけ笑った。
絶対に分かっていて言っている。
「分かりました」
ティナリアは素直に頷いた。
「分からなくていいよ」
ティナリアがクロウへ手を差し出す。
「どうぞ」
「……何?」
「手です」
「見れば分かる」
「つなぎましょう」
「つながないよ」
クロウは手を取らなかった。
ティナリアは少し首を傾げる。
「でも、寂しいのでしょう?」
「寂しくない」
「遠慮しなくていいんですよ」
「遠慮してない」
「大丈夫です」
「何が?」
ティナリアは差し出していた手で、そのままクロウの手を握った。
「これで寂しくありません」
「……」
クロウはミアを見る。
ミアは黒猫を抱いたまま、楽しそうに笑っていた。
やっぱり、わざとだった。
「離していいよ」
「遠慮しなくていいんです」
「遠慮してないよ」
「そうだったのですね」
全然分かっていない。
しかも手は離れなかった。
今度はセフィリアまでこちらへ来た。
「ティナ、どうしたのですか?」
「クロウが寂しがっているそうなので、手をつないでいます」
「寂しがってないよ」
クロウはすぐに言った。
セフィリアは一瞬黙った。
それから、少しだけ笑った。
「そうなのですね」
「違います」
「では、何か楽しいお話でもしましょうか」
「話さなくても大丈夫です」
「恥ずかしがらなくてもいいんですよ」
ティナリアが言った。
「恥ずかしがってない」
「私も手をつなぎましょうか?」
セフィリアが笑いながら、クロウの反対側を見る。
「いや、大丈夫です」
今度はすぐに断った。
セフィリアはますます楽しそうに笑った。
「私がします!」
ティナリアが元気よく言う。
「寂しがっているクロウを楽しませてあげるんですから」
「だから寂しくないって」
「帝都で聞いた、とても面白い話があります」
やっぱり聞いていない。
「どんな話?」
「あるお城に、首のない甲冑が出るそうです」
「……」
いきなり嫌な感じがした。
「夜になると、その甲冑が誰もいない廊下を歩き回るんです。誰もいないはずなのに、鎧の音だけが近づいてきて――」
ティナリアは自信満々に話している。
「振り返っても誰もいないんです。でも、また歩き始めると、後ろから音がして――」
「ティナ」
セフィリアが止めた。
「何ですか?」
「それは全然楽しい話ではありません」
「そうですか?」
「怖い話です」
「でも、面白いですよ?」
「そういうことではありません」
ティナリアは少し不思議そうだった。
本人は本当に楽しい話のつもりだったらしい。
クロウも少しだけ眉を寄せる。
「それ、怖いやつじゃない?」
「大丈夫です」
「何が?」
ティナリアが握っている手に、少し力を入れた。
「私が手をつないでいますから」
「……僕が怖いことになってるの?」
「大丈夫ですよ」
「大丈夫だけど」
セフィリアが横で小さく笑った。
「では、次は私がお話ししましょうか」
「別に話さなくてもいいけど」
「クロウ、遠慮しなくていいんですよ」
ティナリアが言う。
「遠慮してないって」
「何がいいでしょうか」
セフィリアも聞いていない。
今度はセフィリアが話し始めた。
それが終わると、ティナリアがまた別の話をする。
その次はセフィリア。
二人は交代するように、次から次へと話を続けた。
ティナリアは、その間もずっとクロウの手を握っていた。
クロウはただ、湖を見ながらゆっくりしたかっただけだった。
どうしてこうなったんだろう。
少し離れたところを見ると、ミアが黒猫を撫でながら、こっちを見て笑っていた。
たぶん、ミアのせいだ。
◇ ◇ ◇
しばらくすると、昼食の準備が整った。
弁当は、とても豪華だった。
外で食べる弁当とは思えないほど、きれいに詰められている。
小さな肉料理に野菜、パン、果物、それに甘いものまであり、飲み物も何種類か用意されていた。
「すごいです」
ティナリアは籠の中を見ながら、嬉しそうに言った。
「全部ここで食べるのですか?」
「そのために持ってきたんでしょ」
「そうですね!」
何がそんなに嬉しいのかは分からないけれど、楽しそうだった。
セフィリアは最初少し遠慮していたが、エナ姉に勧められて料理を取った。
「セフィリア様、これも美味しいですよ」
「ありがとうございます、レオエナ様」
ミアは黒猫に何かを分けようとして、すぐ兄様に止められている。
「ミア、それをやるな」
「まだあげてないよ」
「あげようとしていただろ」
「少しだけ」
「駄目だ」
「けち」
「猫のためだ」
ミアは不満そうだったが、料理を戻した。
少し離れた場所では、シドが周囲を見ながら食事をしている。
時々、エナ姉の方を見ていた。
護衛として見ているのか、憧れて見ているのかは、よく分からない。
クロウも料理を皿に取った。
湖を見ながら食べる。
風は少し涼しく、水面には光が揺れていた。
母様の笑い声も聞こえる。
朝からずっと人が多くて、静かとは言えない。
それでも、屋敷の中にいる時とは少し違った。
ティナリアがまた何か話し始め、セフィリアがそれに答えている。
ミアは黒猫を抱いていて、兄様はそれを見ながら何か言っている。
エナ姉とリトリーも楽しそうだった。
クロウはパンを食べながら、湖を見る。
思っていたより悪くない。
少なくとも、町を歩き回るよりはずっといい。
それに、母様も楽しそうだった。
それなら、来てよかったのかもしれない。
そう思いながら、クロウはもう一度湖へ目を向けた。




