第64話 少しだけのはずでした
――帝国暦三五〇年・夏終盤 サザ子爵家邸――
母様の誕生日の朝は、思っていたより普通に始まった。
食堂に入ると、いつもの朝食が並んでいた。皿の位置も、パンの籠も、スープの器も、果物の皿もいつもと変わらない。
少し人数は多いが、朝食そのものは普段と大きく変わらなかった。
クロウは席に着きながら、少しだけ安心した。
今日は朝から大食堂が花だらけになっているのかもしれないと思っていたけれど、まだそうではない。少なくとも、朝食は普通だった。
「皆、昨日も話した通り、今日はエルナリアの誕生日を祝わせてもらう」
皇太子殿下が、朝食の途中で口を開いた。
声はとても明るかった。明るすぎるくらいだった。
「夕刻には大食堂を借りたい。こちらの者たちにも準備をさせる。楽しみにしていてくれ」
母様は少し照れたように微笑んだ。
「兄様、あまり大げさにしないでくださいね」
「もちろんだ」
皇太子殿下はすぐに頷いた。
クロウは、あまり信用できないと思った。
皇太子殿下の「もちろん」は、かなり大きい。
父様も穏やかに頷いた。
「大食堂の使用は構いません。屋敷の者にも伝えておきます」
「助かる」
「ただ、準備の際にはモーリスに声をかけてください。屋敷内の動線もございますので」
「ああ。こちらも勝手には動かさない」
皇太子殿下はそう言った。
たぶん、本気でそう思っている。
けれど、すでに先遣隊が来て、馬車も人も増えている。屋敷は十分に動かされている気がした。
クロウは何も言わなかった。
言えば増える。
「楽しみですね」
リトリーがエナ姉へ小さく言った。
「ええ。エルナリア様の誕生日を、こんなふうに祝っていただけるなんて」
エナ姉は本当に嬉しそうだった。
ミアも黒猫を膝に乗せながら、にこにこしている。
「大食堂、すごいことになりそう」
「ミア」
兄様が静かに言う。
「余計なことはするな」
「まだしてないよ」
「これからもしないでくれ」
ミアは少しだけ頬をふくらませた。
ティナリアは目を輝かせていた。
「飾りつけもあるのですか?」
「もちろんだよ、ティナ」
皇太子殿下が笑う。
「エルナリアの誕生日だからね」
「楽しみです」
「私もです」
セフィリアも穏やかに頷いた。
皆が楽しみにしているのは分かるし、母様も楽しそうだ。
でも、クロウの中には少し不安があった。
大食堂の飾りつけに贈り物、それに人も増える。きっと、かなり賑やかになる。
クロウはパンを小さくちぎりながら、早く学校へ行きたいと思った。
トムに旧館の部品を見せたいし、作業室でリラにも話したい。
学校は学校で騒がしくなるかもしれないけれど、今の屋敷よりは予測しやすい気がする。
もう少し我慢すればいい。
皇太子殿下たちは、そろそろ帰ると言っていた。
もう少し。
そう思うことにした。
◇ ◇ ◇
朝食のあと、訓練になった。
庭に出ると、プラムがすでに待っていた。シドもいて、セフィリアも木剣を手にしている。
ティナリアは少し離れて見学するらしい。
エナ姉は今日は誕生日会の準備やリトリーとの話があるらしく、まだ庭には来ていなかった。
「クロウ様、今日は短めにいたしましょう」
プラムが言った。
「夕刻に予定がございますので」
「うん」
「ですが、短くても手は抜きません」
「うん」
それは分かっていた。
プラムは短い時ほど密度を上げるから、短い方が楽とは限らない。
シドが木剣を構える。
「今日も俺が相手か」
「うん」
「昨日よりは動けよ」
「たぶん」
「たぶんかよ」
シドの言葉は、クロウにはだいぶ普通だった。近い年頃だからだろう。
ただ、プラムが近くにいると、たまに急に丁寧になる。
それは少し面白い。
笑うとシドが怒りそうなので、笑わない。
打ち合いは、昨日より少し続いた。
シドはまっすぐ打ち込んでくる。力もあるけれど、プラムほどではない。
クロウは肩や足を見ながら、次の動きを読む。
何度か受け、何度か避け、何度か打ち返すと、シドは途中で舌打ちした。
「お前、妙なところで避けるな」
「避けられそうだったから」
「それが腹立つ」
「そう」
「そう、じゃねえ」
プラムがすぐに声を飛ばす。
「シド。言葉」
「はい、母上」
返事だけはきれいだった。
セフィリアも途中で加わった。
数合だけだったが、彼女の剣はやはり整っている。
シドより力任せではなく、クロウより癖が少ない。まっすぐなのに、落ち着いている。
「クロウ様の剣は、見ている方向が少し違いますね」
セフィリアが言った。
「方向?」
「相手の剣ではなく、動き出す前の場所を見ているように思えます」
「たぶん」
「たぶん、なのですね」
「自分でもよく分からない」
セフィリアは少しだけ笑った。
「不思議です」
訓練が終わる頃には、クロウは少し汗をかいていた。
疲れたけれど、悪い疲れではない。体を動かすと、少しだけ頭の中が静かになる。
その静けさは、長くは続かなかった。
「クロウ」
ティナリアが近づいてきた。
「今日は、町へは行かないのですか?」
クロウは止まった。
「町?」
「昨日、とても楽しかったので」
「今日は行かない」
「少しだけでも」
「町は、ちょっと」
クロウはすぐに答えた。
昨日の町歩きだけで十分だった。
工具屋へ行くだけのつもりが、菓子屋へ行き、ジャム屋へ行き、案内役までした。
今日は母様の誕生日で、夕方には大食堂も賑やかになる。
これ以上、町まで増やすのはよくない。
クロウはセフィリアを見る。
「セフィリア様」
「はい」
「ティナリア様を、どこかへ連れて行ってあげられませんか」
セフィリアは少し目を瞬いた。
「私が、ですか」
「うん。皇太子殿下たちは、もうすぐ帰るんですよね」
「その予定です」
「なら、今のうちに何か見たいものがあるなら」
クロウは少し考えた。
町ではない。旧館でもない。
危なくなくて、屋敷から近くて、ティナリアが飽きにくい場所。
思いつかない。
そこで、エナ姉がやってきた。
「クロウ、どうしたの?」
「ティナリア様が、また町へ行きたいって」
「あら」
「町はちょっと」
「そうね。今日は夕方にエルナリア様の誕生日会もあるものね」
エナ姉は少し考えてから、ぱっと顔を明るくした。
「それなら、サロ湖へ行くのはどうかしら」
「サロ湖?」
ティナリアが反応する。
「屋敷の近くにある湖よ。馬車ならすぐ行けるわ。お弁当を持って、少しだけ外で過ごすの」
「湖ですか」
ティナリアの目が輝いた。
「行きたいです」
「ティナ」
セフィリアが少し困った顔をする。
「でも、屋敷から遠くないのなら……」
「危なくない?」
クロウが聞く。
「湖の近くで過ごすだけなら大丈夫よ。昔から、家族でも行くことがあるんですもの」
エナ姉はにこりと笑った。
「それに、今日はあまり長くは行けないから、ちょうどいいと思うわ」
クロウは少し考えた。
町よりはいいし、旧館よりはずっといい。
サロ湖なら知らない場所ではないし、ティナリアも町よりは落ち着くかもしれない。
「じゃあ、お弁当を作ってもらう?」
「ええ。聞いてくるわ」
エナ姉は嬉しそうに頷いた。
この時点では、クロウは行くのはクロウとエナ姉、セフィリア、ティナリア、シドくらいだと思っていた。
多くても、そのくらいだろうと。
甘かった。
◇ ◇ ◇
誰が言ったのかは分からない。
たぶん、ティナリアが嬉しそうに話したのかもしれないし、侍女が準備のために伝えたのかもしれない。
あるいは、皇太子殿下の耳が良すぎたのかもしれない。
結果として、皇太子殿下も言った。
「サロ湖か。私も行ってみたいな」
クロウは止まった。
皇太子殿下も行く。
そうなると、母様も行く。
セフィリアとティナリアはもちろん、レナ様も誘われ、リトリーも興味を示し、ミアも行きたがった。
兄様は最初から諦めた顔をしていた。
父様は大食堂の準備を見届ける必要があるため屋敷に残ることになったが、それ以外はかなりの人数になった。
馬車も用意され、護衛も増え、侍女もつく。
弁当も普通の弁当ではなくなり、皇太子殿下の料理人と屋敷の厨房の者が急いで支度を始めた。
大食堂では夕方の誕生日会に向けて準備が進み、その横では湖へ持っていく弁当が作られていく。
箱や籠、飲み物に皿、敷物まで次々に用意され、気づけばただの外出ではなくなっていた。
クロウは馬車の前で、少しだけ固まった。
「兄様」
「なんだ」
「僕は、こんな大規模なお出かけを想定してなかった」
「諦めろ」
兄様は隣で静かに言った。
「もう馬車が出る」
「うん」
「考えても止まらない」
「うん」
「なら諦めろ」
正しい。
かなり正しい。
エナ姉とリトリーは、それを聞いて笑っていた。
「クロウ、きっと楽しいわ」
エナ姉が言う。
「そうね。湖での昼食なんて素敵だわ」
リトリーも楽しそうだった。
ミアは黒猫を抱きながら、別の意味で笑っている。
その笑顔は少し危ない気がしたので、クロウは見なかったことにした。




