幕間5 増えていく注文
――帝国暦三五〇年・夏中頃 サザ子爵家邸・皇太子客室――
カデリオンが使っている客室へ移動した。
テッドは、描いたばかりのデッサンを机へ置く。
「ようやく分かりました」
「何がだ?」
「皇太子殿下がお望みだった絵です」
テッドは紙を見る。
「確かに、あれは絵として残す価値があると思います」
「そうだろう」
カデリオンが満足そうに答えた。
プラムも隣で頷いている。
「あの姿が欲しいのだ」
カデリオンは机の上のデッサンを見る。
「エルナリアは昔から可愛い妹だった。それは今も変わらない」
「はい」
「だが、クロウも可愛い」
少しだけ声に熱が入った。
「エルナリアによく似ているし、あの静かな顔もいい。普段はあまり愛想がないのに、エルナリアのそばにいる時は少し表情が違うだろう?」
「……そうですね」
「そこがいいんだ」
カデリオンは嬉しそうに続ける。
「二人が一緒にいると、よく似ているのも分かる。それなのに、ちゃんと親子として違う表情をしている」
テッドは黙って聞いていた。
カデリオンはまだ話している。
エルナリアが可愛い。
クロウも可愛い。
二人が並んでいるところがいい。
自然に笑っているところを残したい。
聞いているうちに、テッドの中に妙な考えが浮かんだ。
もしかして。
この人と自分は、少し似ているのではないだろうか。
テッドはすぐに否定した。
いや。
違う。
自分は先ほど、一度くらいクロウを抱きしめてみてもいいのではないかと思っただけだ。
カデリオンは明らかにそれ以上だった。
なら、まだ大丈夫だ。
たぶん。
「皇太子殿下」
「何だ?」
「少々、失礼なことをお聞きしてもよろしいでしょうか」
「構わない」
テッドは少し迷った。
「皇太子殿下は……エルナリア様だけではなく、クロウのことも好きなのですか?」
カデリオンの顔が一気に明るくなった。
「好きではない。大好きだ!」
即答だった。
「……そうですか」
「可愛い甥だからな」
あまりにも迷いがない。
テッドはさらに尋ねた。
「では、その……クロウを抱きしめたいと思ったこともありますか?」
「もちろんある」
また即答だった。
「できることなら抱きしめたい」
「できることなら?」
「ああ」
カデリオンの表情が急に曇った。
「一度も抱きしめさせてもらったことがない」
「……一度も?」
「ない」
今度は本当に寂しそうだった。
「おじ様と呼んでいいとも言っているのに、一度も呼んでもらったことがない」
「……」
テッドは何とも言えず、カデリオンを見る。
その時だった。
隣に控えていたプラムが、何度も首を縦に振っている。
一度。
もう一度。
そして、もう一度。
まるでカデリオンの気持ちが痛いほど分かる、とでも言いたげだった。
テッドはプラムを見る。
――プラム、お前もか。
思わず、そんな言葉が頭に浮かんだ。
まずい。
この二人は、かなりまずいのかもしれない。
カデリオンはクロウを抱きしめたい。
プラムも、その気持ちがよく分かるらしい。
そして自分も、先ほど一度くらい抱きしめてみたいと思ってしまった。
「……」
テッドは静かに視線を落とした。
もしかすると。
自分も、この二人の仲間なのではないだろうか。
いや。
そんなはずはない。
自分はまだ、一度試してみたいと思っただけだ。
この二人ほどではない。
たぶん。
「テッド?」
「いえ、何でもありません」
「そうか?」
「はい」
テッドは小さく頭を振った。
そんなことを考えている場合ではない。
「ただの親子の肖像画ではなく、ということですね」
「ああ」
「分かりました」
テッドはもう一度、デッサンを見る。
寝台で並ぶエルナリアとクロウ。
ただ二人を並ばせただけでは描けない表情と、二人の間にある自然な空気。
先ほどまで意味が分からなかった依頼だったが、今なら何を求められていたのか、よく分かる。
「ただし、仕上げるには少し時間がかかります」
「構わない」
「かなりお待たせするかもしれませんよ」
「いつでもいい」
カデリオンは即答した。
「完成したら帝都へ送ってくれれば、それで構わない」
「分かりました」
「報酬も好きに決めてくれ」
「そこは後でちゃんと決めましょう」
「金ならいくらでも出すぞ」
「それを言われると余計に困るんです」
テッドは苦笑した。
昼間にも似たような話をした気がする。
どうやら皇太子に金額を聞くこと自体が間違いなのかもしれない。
そして、少し考える。
「ただ、一つ問題があります」
「何だ?」
「この絵が完成しても、エルナリア様とクロウ本人には見せにくくありませんか?」
カデリオンが止まった。
「……」
プラムも少しだけ目を逸らした。
「その辺りは、まだ考えていない」
「やはり」
「完成してから考えよう」
「分かりました」
カデリオンは少し考えてから、声を落とした。
「ただ、それまではエルナリアには絶対に見つからないようにしてくれ」
「絶対に、ですか?」
「ああ」
「そこまでですか?」
テッドが聞くと、カデリオンは真剣な顔で頷いた。
「エルナリアに知られたら、たぶん怒られる」
「怒られる……」
「少し怖い」
「……怖いんですか?」
「ああ」
即答だった。
テッドは少しだけ興味を持った。
怒っているエルナリアを、ほとんど見たことがない。
普段のエルナリアからは、あまり想像できなかった。
「そんなに怖いのですか?」
「怖い」
カデリオンはもう一度言った。
隣では、プラムまで静かに頷いている。
「……そうですか」
皇太子殿下だけならともかく、プラムまで同意するのなら。
たぶん、本当に怖いのだろう。
テッドはそう納得することにした。
それなら、やめればいいのに。
一瞬、そう思った。
だが、目の前の二人を見る限り、やめるという考えは最初からないらしい。
「分かりました。見つからないようにします」
「頼む。絶対だぞ」
「分かっています」
テッドは小さく息を吐いた。
どうやら、皇太子にとってはかなり重要なことらしい。
もっとも、本人に知られれば怒られると分かっていながら頼んでいる時点で、それは十分伝わっていた。
その時。
カデリオンがプラムを見る。
何か言いたそうにしている。
「どうした、プラム」
「いえ……」
「何かあるなら言ってくれ」
「ですが」
「構わない」
カデリオンは穏やかに言った。
「君は長い間、エルナリアに仕えてくれている。そのくらいは遠慮しなくていい」
プラムは少し迷った。
それから、机の上のデッサンを見る。
「では……一つだけお願いがございます」
「何だ?」
「もし可能でしたら」
プラムの声が少し小さくなる。
「私にも、この絵を描いていただけないでしょうか」
テッドが顔を上げた。
「プラムの分?」
「はい」
「一枚?」
「……できましたら、何枚か」
「何枚か?」
テッドが聞き返した。
プラムは少しだけ視線を逸らす。
「大きなものでなくて構いません」
「そういう問題じゃないんだが」
「難しいでしょうか」
テッドは机の上を見る。
すでに頼まれている絵。
皇太子のための今回の絵。
さらに、プラムの分が何枚か。
「……何枚くらい欲しいんだ?」
「そこは、テッド様がお描きになれる範囲で」
「それ、一番困る答えだぞ」
「申し訳ございません」
そう言いながらも、プラムの視線はデッサンから離れない。
カデリオンの顔が一気に明るくなった。
「もちろんだ」
「よろしいのですか?」
「当然だろう」
すぐにテッドを見る。
「テッド、プラムの分も頼む」
「……しかも何枚かですか」
「小さなものでも構いません」
プラムが言う。
「本当に、いつでも構いませんので」
テッドはしばらく二人を見る。
どうやら断れる雰囲気ではない。
「時間をもらえるなら」
プラムの表情がぱっと明るくなった。
「本当でございますか?」
「ああ。ただし、一度に全部は無理だからな」
「もちろんでございます」
「では、何枚か描くよ」
「ありがとうございます、テッド様」
「まだ描いてないぞ」
「それでも嬉しいのです」
カデリオンも嬉しそうに笑った。
「良かったな、プラム」
「はい」
プラムは深く頭を下げる。
「皇太子殿下も、ありがとうございます」
「気にするな」
カデリオンはデッサンを見る。
「私も欲しいのだから、君の気持ちはよく分かる」
「はい」
プラムはいつになく嬉しそうだった。
その二人を見ながら、テッドは先ほどの疑問をもう一度思い出した。
自分も、この二人の仲間なのではないだろうか。
いや。
まだ違う。
そう思うことにした。
「では、私は奥様のところへ戻ります」
「ああ」
「失礼いたします」
プラムは一礼して、客室を出ていった。
来た時より、明らかに足取りが軽かった。
扉が閉まる。
カデリオンは机の上のデッサンを眺めている。
非常に満足そうだった。
一方。
テッドは指を折った。
すでに頼まれている絵。
今回増えた、エルナリア様とクロウの絵。
さらに、プラムの分が何枚か。
「……」
仕事が増えている。
そこで、テッドはふと机の上のデッサンを見る。
少しだけ迷った。
自分の分も、一枚くらい描いておこうか。
そんな考えが浮かんでしまった。
「……」
テッドは何も言わず、視線を逸らした。
「テッド」
「はい」
「よろしく頼むぞ」
「……はい」
テッドは静かに息を吐いた。
「これから大変だな……」
どうやら、断るという選択肢はもう残っていないらしかった。




