幕間4 その日の夜
――帝国暦三五〇年・夏中頃 サザ子爵家邸――
その日の夜。
プラムは、クロウの部屋の前に控えていた。
前日の夜とは逆に、今夜はエルナリアの方がクロウの部屋を訪れている。
扉は完全には閉じられていない。
何かあればすぐに気づけるよう、ほんの少しだけ開いている。
その隙間から、寝台にいる二人の姿が見えた。
クロウとエルナリアが並んでいる。
二人とも布団に入り、小さな声で何かを話していた。
クロウが短く答える。
エルナリアが静かに笑う。
また少し話す。
それだけだった。
プラムは扉の脇に立ったまま、しばらくその光景を眺めていた。
ここで控えているだけなら、不自然ではない。
少なくとも、扉の前を離れて中を覗き込んでいるわけではなかった。
ただ、半開きの扉の向こうへ向けられた視線だけは、なかなか戻らなかった。
しばらくして、プラムは昼間テッドに話したことを思い出した。
今夜か明日の夜、もしその場面があれば呼ぶ。
今が、その時だった。
プラムはもう一度、扉の隙間から二人の様子を確認する。
それから静かにその場を離れた。
■
テッドの部屋の扉を叩く。
「テッド様」
少しして、扉が開いた。
「プラム?」
「今でございます」
「……本当に来たな」
「はい」
テッドは少し眠そうな顔をしていたが、まだ起きていた。
「分かった。用意する」
紙と画材を手に取る。
廊下へ出たところで、テッドが小さく息を吐いた。
「やっぱり気が進まないな」
「何がでしょうか」
「夜にこっそり人の寝室を覗くことだよ」
「皇太子殿下からのご依頼です」
「分かってる」
「見ていただければ――」
「分かるんだろ。昼間から何度も聞いた」
テッドは少し呆れながらも、プラムについていった。
クロウの部屋へ近づいたところで。
「……え?」
テッドが足を止めた。
プラムも振り返る。
二人の後ろに、いつの間にかカデリオンが立っていた。
「皇太子殿下?」
テッドが慌てて姿勢を正そうとする。
「しっ」
カデリオンが口元へ指を立てた。
「静かに」
「ですが、ご挨拶を――」
「ここではいらない」
「しかし」
「今は無礼講だ」
「無礼講と言われましても……」
テッドは困った顔をする。
カデリオンは気にしなかった。
「テッド、こんな時間にすまないな」
「いえ。それは構いませんが……」
テッドはプラムとカデリオンを交互に見る。
「まだ何をさせられているのか、よく分かっていないんです」
「見れば分かる」
カデリオンまで同じことを言った。
テッドは黙った。
「とにかく少し覗いてみてくれ」
「……皇太子殿下」
「何だ?」
「本当に、これを覗いていいんですか?」
「今さら何を言っている」
「皇太子殿下がそう仰っても、覗き見は覗き見でしょう」
「絵を描くためだ」
「理由をつけても覗き見だと思いますが」
「テッド様」
プラムも小声で言う。
「見ていただければ、お分かりになります」
「またそれか」
テッドは小さく息を吐いた。
「……分かったよ」
三人は音を立てないようにクロウの部屋へ近づいた。
テッドが半開きの扉から、そっと中を見る。
「……」
寝台には、エルナリアとクロウが並んでいた。
エルナリアの金色の髪が、枕の上へ柔らかく広がっている。
その横顔は穏やかで、クロウへ向けられた青い瞳も柔らかい。
クロウが何かを言う。
エルナリアが静かに笑う。
今度はエルナリアが何かを話す。
クロウが短く頷いた。
特別なことは何もしていない。
ただ、親子が同じ布団の中で静かに話している。
それだけだった。
けれど、テッドはすぐには扉から離れなかった。
エルナリアへ目が向く。
普段から知っている人だ。
美しいことも、もちろん知っている。
けれど、誰かに見せるために姿勢を整えているわけでもなく、クロウの隣で静かに笑っている姿は、普段とは少し違って見えた。
金色の髪。
穏やかな横顔。
静かに緩む目元。
テッドは、思わず見入っていた。
もちろん、エルナリアはテッドにとって、昔から身近にいる大切な母親の一人でもある。
それでも今の姿は、普段見ているものとは少し違って見えた。
「……なるほど」
小さく声が漏れる。
その隣にはクロウがいる。
二人がよく似ていることは、今さら言われなくても知っていた。
こうして並んでいると、それがさらによく分かる。
目元。
顔立ち。
静かにしている時の表情。
こうして見ていると、レオエナがクロウを抱きしめたがる気持ちも、少しだけ分かるような気がした。
テッドは、ふと思う。
自分も一度くらい、クロウを抱きしめてみても――。
「……いや」
小さく頭を振った。
違う。
これは違う。
正常に戻れ。
危うく自分までレオエナと同じようなことを考えるところだった。
テッドはもう一度、寝台の二人を見る。
「……血筋なのか?」
思わず、そんな疑問まで浮かんだ。
クロウがまた何かを言った。
エルナリアが少し困ったように笑う。
テッドの口元も、わずかに緩んだ。
「二人が似てるのは知ってたけど……」
「はい?」
後ろにいたプラムが小声で聞き返した。
「絵だと、クロウの口の悪さまでは分からないからな」
「……ふふっ」
プラムが思わず笑った。
「テッド様」
「何だ?」
「クロウ様に聞かれましたら、怒られますよ」
「だから聞こえないように言ってる」
「そういう問題でしょうか」
プラムの声には、まだ少し笑いが残っていた。
カデリオンも後ろから中を見ようとする。
「それで、テッド」
「はい」
「分かったか?」
テッドはもう一度、寝台の二人を見る。
エルナリアがクロウへ向ける静かな微笑み。
母親の隣にいる時のクロウの表情。
二人の間にある、自然な距離。
「……はい」
テッドはようやく少しだけ扉から顔を離した。
「分かりました」
「そうでしょう?」
プラムの声が少しだけ嬉しそうだった。
「確かに、二人を並ばせて描くのとは違います」
「ですから申し上げたのです」
「昼間は本当に意味が分かりませんでした」
「今は?」
「分かります」
ただ姿を描くだけでは足りない。
クロウが母親の隣で見せる表情。
エルナリアがクロウへ向ける静かな微笑み。
二人の間にある、普段の姿絵では出せない空気。
それごと残してほしいのだろう。
テッドは画材を取り出した。
「少し時間をください」
「構わない」
カデリオンが即答した。
テッドは扉の隙間から二人を確認しながら、紙を構えた。
線を引く。
まず寝台。
次に二人の位置。
エルナリアの姿勢。
クロウの向き。
最初は大まかな線だった。
それがすぐに細かなものへ変わっていく。
エルナリア。
クロウ。
二人の間の距離。
表情。
布団の形。
少しずつ、目の前の光景が紙の上に移されていった。
プラムとカデリオンは、その後ろで黙って待っている。
思っていた以上に速い。
それでいて、雑ではない。
細く繊細な線が次々と紙へ重なっていく。
数十分ほど経った頃。
「……ひとまず、これで」
テッドが手を止める。
まだ完成品ではない。
デッサンに過ぎない。
それでも紙の上には、寝台で並ぶ二人の姿が残っていた。
「終わったか?」
すぐ後ろからカデリオンの声がした。
「はい。ひとまずは――」
「なら、少し代わってくれ」
「え?」
「私も見たい」
「あ、はい」
テッドは慌てて扉の前から退いた。
待っていたカデリオンが、すぐにその場所へ入る。
扉の隙間から中を覗く。
「……やはり素晴らしい」
小さく呟いた。
プラムもカデリオンの後ろから、満足そうに中を見ていた。
テッドは手元のデッサンへ視線を落とす。
今なら、二人がなぜこの光景を残したがったのか、よく分かった。
その時。
クロウの部屋の灯りが消えた。
三人が顔を上げた。
「そろそろですね」
プラムが小さく言う。
しばらくすると、中からわずかに物音が聞こえた。
エルナリアが部屋を出てくるかもしれない。
「離れましょう」
「ああ」
三人は静かにその場を離れた。




