第66話 船で一周しました
――帝国暦三五〇年・夏終わり サザ子爵領・サロ湖――
昼食が終わって少しすると、船の準備ができたと呼ばれた。
サロ湖を一周するらしい。
ティナリアがすぐに反応した。
「船に乗れるんですね!」
「そうみたい」
「楽しみです!」
湖を見ると、岸の近くに船が用意されていた。
そこまで立派な船ではない。大きな飾りがあるわけでもなく、帝都の貴族が乗るような豪華なものでもなかった。
けれど、みんなで湖を一周するには十分だった。
「行きましょう、クロウ!」
「うん」
ティナリアはもう待ちきれないらしい。
セフィリアがその後ろから声をかける。
「ティナ、走らないでください」
「走ってません」
「今から走ろうとしていました」
「……どうして分かるんですか?」
「姉ですから」
まただった。
ティナリアは少し不満そうだったけれど、今度はちゃんと歩いて船へ向かった。
クロウたちもその後を追う。
全員が乗り込むと、船はゆっくりと岸を離れた。
湖畔から眺めていた時より、水面がずっと近い。風も少し強く感じた。
「すごいです!」
ティナリアが身を乗り出しかける。
「ティナ」
「分かってます」
セフィリアに言われる前に戻った。
少しは学習しているらしい。
クロウも湖を見る。
こうして船に乗ってサロ湖を一周することなんて、普段はほとんどない。
岸から見るのとは景色も違った。
水面の向こうには森が広がり、少し岸から離れただけなのに、周りがずっと静かになったように感じる。
悪くない。
今日は朝からずっと人が多かったけれど、ここなら少し落ち着けそうだった。
そう思った。
ただ、クロウの右手は、さっきからティナリアに握られていた。
「……ティナリア様」
「何ですか?」
「手」
「はい」
「……」
返事はした。
でも、離さない。
「握ってるよ」
「はい」
さっきより強く握られた。
「これでいいですか?」
クロウには、わけが分からなかった。
「どうして?」
「まだ怖いですか? もっと強く握りますか?」
「……」
クロウは少し困ったまま、話を続ける。
「いや、違うよ。なんで手を握るのかって」
「船ですから」
「船だと握るの?」
「落ちたら危ないです」
「僕は落ちないよ」
「私が落ちるかもしれません。一人で落ちたら怖いので、強く握ります」
「……」
それなら、手すりにつかまればいいと思う。
でも、たぶん言っても離さない。
クロウは諦めた。
ティナリアはクロウの手を握ったまま、楽しそうに湖を見ている。
「あっ、魚がいました!」
「そう」
「見ましたか?」
「見てない」
「あそこです!」
ティナリアが指を差す。
そちらを見た時には、もう何もいなかった。
「いないよ」
「今そこにいました」
「そう」
クロウは少し感心してティナリアを見る。
「ティナリア様、目がいいね」
「いつもクロウが部屋から出てくると、すぐ分かりますから」
「……」
「本当ですよ?」
「疑ってないよ。そんなの聞きたくなかったよ」
ティナリアは満足そうに頷いた。
セフィリアも少し離れたところで景色を眺めている。
母様は皇太子殿下やレナ様と一緒にいて、とても楽しそうだった。
エナ姉やリトリーも、湖の景色を見ながら話している。
ミアは黒猫を抱いていた。
兄様はその隣で、黒猫が船から落ちないように気にしているようだった。
みんな、かなり楽しんでいる。
クロウも嫌ではなかった。
ティナリアにずっと手を握られていることを除けば、もう少しよかったかもしれない。
船はゆっくりと湖を進んでいく。
風が頬に当たり、水面が陽の光を反射して細かく輝いていた。
こういうことは、なかなかできない。
そう考えると、来てよかったのかもしれない。
船は時間をかけてサロ湖を一周した。
岸へ戻る頃には、みんな満足したような顔をしていた。
ティナリアもようやくクロウの手を離す。
「楽しかったです!」
「うん」
「クロウも楽しかったですか?」
「まあまあ」
「まあまあですか?」
「うん」
「でも、楽しかったんですよね?」
「楽しかったよ」
ティナリアの顔がすぐに明るくなった。
「よかったです!」
そこまで喜ぶことなのかは分からない。
◇ ◇ ◇
船を降りたあと、また湖畔で少し休むことになった。
ティナリアは湖を眺めながら、セフィリアへ話しかける。
「また来たいですね、お姉様」
「ええ。機会があれば」
「来年も来たいです」
クロウは少しだけ顔を上げた。
「来年?」
「はい」
「来年も?」
「はい」
ティナリアは当然のように答えた。
エナ姉が嬉しそうに微笑む。
「ぜひ来てください」
リトリーも頷いた。
「ええ。今度はもう少しゆっくり来られるといいわね」
クロウは二人を見る。
歓迎している。
完全に歓迎している。
来年も来るらしい。
まだ決まったわけではないと思うけれど、ティナリアの顔を見ると、もう決まったことになっている気がした。
クロウが黙っていると、隣で兄様が笑った。
かなり面白がっている顔だった。
「兄様」
「諦めろ」
「まだ何も言ってない」
「顔に出ている」
「そう」
兄様は湖を見ながら言った。
「来年の心配を今しても仕方ない」
「来年、来るかもしれない」
「その時考えろ」
「うん」
それも正しい。
来年のことは、その時考えることにした。
その後もしばらく湖畔で過ごした。
夏の終わりの風が吹き、水面には光が揺れている。
母様の笑い声も聞こえた。
ティナリアは相変わらずよく喋り、セフィリアもそれに付き合っている。
エナ姉とリトリーも楽しそうだった。
朝からずっと人が多くて、静かとは言えない。
それでも、屋敷の中にいる時より少しだけ柔らかい時間だった。
クロウは湖を眺めながら思った。
これはこれで、悪くなかったのかもしれない。
◇ ◇ ◇
屋敷へ戻る頃には、空の色が少し変わり始めていた。
馬車がサザ子爵家邸の前に止まり、使用人たちが荷物を降ろしていく。
皇太子殿下の侍女たちは、すぐに大食堂の方へ向かっていった。
たぶん、もう準備はかなり進んでいる。
夕刻には、母様の誕生日会という名の晩餐会が始まる。
クロウも馬車を降りたところで、ふとエナ姉を見た。
そういえば、今日はずいぶん大人しかった気がする。
いつもなら、もっとクロウのそばへ来る。
話しかけてきたり、近くに座ったり、気づけば隣にいたりする。
でも今日は、湖にいる間もリトリーと一緒にいることが多かった。
クロウは少し気になって、近くにいたリトリーを見る。
「リトリー」
「なに?」
「今日、エナ姉、大人しくなかった?」
「そう?」
「うん」
クロウは少し迷ってから聞いた。
「具合悪いの?」
リトリーが一瞬黙った。
それから、楽しそうに笑った。
「それ、エナに言ったらすごく喜ぶと思うわ」
「言わないで」
「どうして?」
「絶対言わないで」
「ふふっ、分かったわ」
あまり信用できない笑い方だった。
「でも、具合が悪いわけじゃないわよ」
「そうなの?」
「ええ。今日はセフィリア様とティナリア様がこちらで過ごせる最後の日でしょう?」
「うん」
「だから今日は、あまりクロウに構わないようにするって言ってたの」
「エナ姉が?」
「そうよ。二人ともクロウと一緒にいたいでしょうから、自分は少し遠慮するんだって」
クロウはエナ姉を見る。
少し離れたところで、母様たちと話していた。
「それで今日は、私と一緒に話したりして過ごしていたのよ」
「……そうだったんだ」
具合が悪いわけではなかったらしい。
心配して損した。
「クロウ」
「何?」
「心配したの?」
リトリーが笑いながら聞いてくる。
「……ちょっとだけ」
「あら」
また笑った。
「じゃあ、それもエナに言っておくわね」
「やめて」
「きっと喜ぶわよ?」
「だからやめて」
リトリーは楽しそうに笑っていた。
クロウはエナ姉の方を見る。
具合が悪くないなら、それでいい。
ただ、心配したことまで本人に知られる必要はない。
「絶対言わないでね」
「どうしようかしら」
「リトリー」
また笑われた。
やっぱり聞く相手を間違えたかもしれない。




