第63話 嫌な予感は当たる
――帝国暦三五〇年・夏終わり サザ子爵家邸・音楽室――
音楽室には、いくつか予備のバイオリンが置いてある。
クロウはその中から、セフィリアとティナリアに好きなものを選んでもらった。
「これがいいです」
ティナリアが一本を手に取る。
セフィリアは何本か見比べてから、別の一本を選んだ。
「私は、こちらにします」
「うん」
二人が選んだバイオリンを受け取って、少しだけ調整する。
夕方はクロウの部屋にあったものを使ったけれど、これからここで練習するなら、自分で選んだものを使った方がいい。
「これでいい」
「ありがとうございます!」
ティナリアがすぐに受け取った。
セフィリアも丁寧に頭を下げる。
「ありがとうございます、クロウ様」
「じゃあ、夕方の続き」
二人が並ぶ。
少し離れたところにはエナ姉もいた。
なぜか一緒についてきた。
「まず持って」
「はい!」
ティナリアが勢いよく構える。
「力入りすぎ」
「そうですか?」
「うん。もっと抜いて」
腕に触れて少し下げる。
「ここも」
手を取って、指の位置を直した。
「こう?」
「もう少しこっち」
「はい」
今度はセフィリアを見る。
こちらは逆に慎重すぎて、ほとんど動かない。
「セフィリア様、もう少し上」
「このくらいですか?」
「うん」
弓を持っている手の位置を直す。
「ここはこう」
「分かりました」
二人とも夕方よりは少し慣れていた。
ティナリアは力が入りすぎる。
セフィリアは考えすぎる。
何度か手や腕の位置を直しながら、基本の構えを繰り返した。
「ティナリア様、そこ違う」
「またですか?」
「また」
「難しいです」
「最初だから」
「クロウは簡単そうにやっていたのに」
「慣れてるから」
それだけだった。
何度か同じことを繰り返していると、ティナリアが指を離した。
「痛いです」
「どこ?」
「指です」
夕方と同じだった。
クロウはティナリアの手を見る。
無理をしたわけではなさそうだった。
「じゃあ休憩」
「もうですか?」
「痛いなら休んだ方がいい」
「分かりました」
二人がバイオリンを下ろした。
クロウも少し息をつく。
これでしばらく休める。
「クロウ」
エナ姉に呼ばれた。
「何?」
「今度は私にも教えてください」
「……なんで?」
「私にも、さっきと同じように教えてほしいです」
クロウはエナ姉を見る。
「必要ないでしょ」
エナ姉はもう弾ける。
クロウより長くバイオリンを弾いているくらいだった。
「必要です」
「何が?」
「必要なんです」
意味が分からない。
「エナ姉、弾けるでしょ」
「弾けますよ」
「じゃあ教えることない」
「でも、教えてほしいです」
「……おかしい」
弾けるのに、基本の構えを教えてほしいらしい。
エナ姉は、さっきからずっとこっちを見ている。
すると、また胸のあたりがざわついた。
嫌な感じがする。
最近、こういうのはよく当たる。
これはかなりまずい気がした。
「レオエナ様は」
セフィリアがエナ姉を見る。
「クロウ様と、肌が触れるようなことをしてほしいのではありませんか?」
「……」
エナ姉は否定しなかった。
クロウはセフィリアを見る。
それからエナ姉を見る。
肌が触れる。
どうすればいいんだろう。
さっきみたいに手を取る?
でも、エナ姉はもう弾ける。
腕の位置を直す必要もない。
じゃあ、何をすればいい?
エナ姉はまだこっちを見ている。
かなり期待している。
肌が触れること。
エナ姉が普段したがること。
一つだけ思いついた。
でも。
これしかないの?
本当に、これでいいの?
もう一度考えた。
他に何かないだろうか。
思いつかなかった。
「……」
エナ姉はまだ待っている。
仕方なく、クロウはゆっくり両手を広げた。
これでいいのか、まだ分からなかった。
次の瞬間。
「クロウ!」
「っ……!」
エナ姉が飛び込んできた。
速かった。
抱きしめられるより先に、体当たりされたような衝撃が来た。
一瞬、本当に後ろへ飛ばされるかと思った。
そのまま腕が背中へ回る。
「……っ」
痛い。
久しぶりだった。
久しぶりにエナ姉にこうして抱きしめられた気がする。
でも、久しぶりでも痛いものは痛かった。
「クロウ……!」
「……うん」
クロウは耐えた。
とにかく耐えた。
しばらくして、ようやくエナ姉の腕が緩んだ。
クロウは小さく息を吐く。
「クロウ」
今度はティナリアに呼ばれた。
「何?」
「クロウはレオエナ様のことが好きなんですか?」
「好きだよ」
エナ姉だから。
そこは普通だった。
すると、ティナリアの目が急に輝いた。
「では、私とレオエナ様では、どちらが好きですか?」
「……」
また面倒な質問が来た。
クロウはセフィリアを見る。
セフィリアはもう申し訳なさそうに頭を下げていた。
「クロウ様……すみません」
それから、ティナリアとエナ姉を見る。
二人とも、すごく期待した顔でこっちを見ている。
ここでどちらか一人を選んだら。
たぶん、もっと面倒なことになる。
なんとなく分かった。
空気も、今よりずっと乱れそうだった。
それに。
二人とも好きなのは、本当だった。
「……どっちも好きだよ」
「本当ですか!」
ティナリアの顔が一気に明るくなった。
エナ姉も嬉しそうに笑った。
これなら大丈夫。
そう思った。
でも。
「でも、私の方がクロウとは長く一緒にいますから」
「それなら私も、これから長く一緒にいればいいんです」
「……」
結局、張り合うらしい。
どっちも好きと言っても、あまり意味はなかったのかもしれない。
「それだけではありませんよ」
エナ姉が少し得意そうに言った。
「私はクロウに何度も抱きしめてもらっていますから」
「……」
ティナリアが止まった。
「ティナは、まだないでしょう?」
「……ありません」
「それに私は、さっきもクロウに抱きしめてもらったばかりです」
エナ姉はとても嬉しそうだった。
「ですから、私の方がクロウに好かれていると思います」
「それはずるいです」
「ずるくありません」
「ずるいです」
ティナリアが頬を膨らませる。
そして、すぐクロウを見た。
「クロウ」
「何?」
「私のことも抱きしめてください」
「嫌」
「どうしてですか!」
すぐに聞き返された。
理由。
言えるわけがなかった。
さっきのせいで、まだ背中が痛い。
背骨のあたりも痛い。
今もう一人なんて無理だった。
「今日は無理」
「どうして今日なんですか?」
「……今日は無理だから」
「では明日は?」
「明日は母様の誕生日」
「では、その次の日は?」
「……また今度」
ティナリアは納得していない。
「一日に一人しか駄目なんですか?」
「……今日はそうして」
「今日だけですか?」
「ティナ」
セフィリアが止めた。
「クロウ様が無理だと仰っているのですから、これ以上聞いてはいけません」
「……分かりました」
ティナリアはまだ少し頬を膨らませていた。
その横で、エナ姉はなぜか嬉しそうだった。
「でも、お姉様」
「何ですか?」
「私、クロウに好きって言われましたよ」
さっきまで膨らんでいた顔が、もう嬉しそうになっている。
セフィリアも少し笑った。
「よかったですね、ティナ」
「はい!」
けれど、セフィリアは今度はクロウを見る。
「クロウ様、すみません」
「なんでセフィリア様が謝るの?」
「少し……ティナが無理に言わせてしまったように見えましたので」
「え?」
ティナリアの顔が変わった。
「無理に言わせてません」
少しムッとしている。
「ティナ」
「だって、お姉様。私は無理に言わせてません」
そしてクロウを見る。
「そうですよね、クロウ?」
「うん」
「ほら!」
「好きなのは本当だよ」
ティナリアが一瞬止まった。
それから、さっき以上に嬉しそうな顔になった。
「お姉様!」
「……そうでしたか」
セフィリアも少し安心したようだった。
「なら、私が余計な心配をしてしまいましたね」
「質問は大変だったけど」
「え?」
「どっちが好きって聞かれるのは大変」
「あ……」
ティナリアがまた少し小さくなった。
「でも、どっちも好きなのは本当」
「はい!」
すぐ元に戻った。
エナ姉も嬉しそうにしている。
それから二人は、またどちらの方がクロウに好かれているのかを話し始めた。
クロウに聞いた意味はあったんだろうか。
「クロウ様」
セフィリアがクロウのところへ来た。
「大丈夫ですか?」
「……痛かった」
「申し訳ありません」
「セフィリア様が謝ることじゃないよ」
「いえ……私が余計なことを言ってしまいました」
「余計なこと?」
セフィリアは少し困った顔をした。
「私は、レオエナ様が、先ほどクロウ様が私たちへしてくださったように……手を取ったり、腕の位置を直したりしてほしいのだと思っていました」
「……」
「少し手に触れてほしい、という程度かと」
「……そうだったの?」
「はい」
クロウはエナ姉を見る。
ティナリアとまだ楽しそうに話している。
「まさか、クロウ様が抱きしめるとは思っていませんでした」
「……」
手でよかったらしい。
あれだけ考えたのに。
でも、エナ姉はかなり嬉しそうだった。
ティナリアも楽しそうにしている。
二人とも喜んでいるなら、もういい。
クロウは胸のあたりを押さえた。
さっきまでのざわつきは、もう消えていた。
また当たった。
最近、こういうことが増えている。
何か起きそうな時。
面倒なことになりそうな時。
危ない気がする時。
胸のあたりが妙にざわつく。
危機察知力。
そんなものなのかもしれない。
第六感と言ってもいいのかもしれない。
それだけ聞けば、少し便利そうだった。
でも。
今回も危ないことは分かった。
嫌なことが起きそうなのも分かった。
それなのに、避けられなかった。
「……意味あるのかな」
「何か言いましたか?」
「何でもない」
危険が分かっても、逃げられない。
そんな危機察知力があっても、あまり役には立たない気がした。
少なくとも、エナ姉には。
◇ ◇ ◇
少し休んだあと、また練習を始めた。
今度はあまり長くやらなかった。
ティナリアの指も痛くなっていたし、今日は基本だけで十分だった。
最後に二人が使っていたバイオリンを受け取る。
また使う時に分かるようにして、元の場所へ置いた。
そこで、ふと思い出した。
シドに前に言われていたことがある。
エナ姉に抱きしめられた時、どんな感じなのか。
どのくらい体を鍛えているのか。
何か分かったら教えてほしい。
そんなことを言われていた。
「……」
クロウは少し考えた。
分からなかった。
それどころじゃなかった。
覚えているのは、痛かったことくらいだ。
あとは、飛び込んできた時の衝撃。
本当に体当たりみたいだった。
飛ばされるかと思った。
どのくらい鍛えているのかなんて、考える余裕はなかった。
シドには、それだけ伝えればいいと思う。
クロウは最後のバイオリンを置いた。
今日の練習は、それで終わった。




