第57話 これでもまだ足りません
――帝国暦三五〇年・夏中頃 サザ子爵家邸――
父から頼まれた用事を伝えるため、セフィリアはケインを探していた。
今晩、サザ家の者たちが一緒に演奏するところを聞かせてもらえないか。
執事に伝言を頼むこともできたが、せっかくお願いするのだから、自分で伝えた方がいいと思った。
だが、ケインがどこにいるのか分からない。
使用人に聞こうかと思ったところで、廊下の先から音が聞こえてきた。
細く、澄んだ音。
セフィリアは足を止めた。
「バイオリン……?」
先ほど、レオエナの部屋で聞いたばかりの音だった。
ただし、少し違う。
レオエナの演奏よりも途切れることがあり、時折、同じ場所を繰り返している。
練習しているのだろうか。
音のする方へ向かう。
扉の開いた部屋を覗くと、そこに探していた人物がいた。
椅子に座っているケイン。
その前でバイオリンを構えているレーミア。
そして。
「ティナ?」
少し離れたところで演奏を聞いていたティナリアが振り返った。
「あ、お姉様」
「どうしてここにいるのですか?」
「レーミア様の演奏を聞きに来ました」
やはりだった。
父の部屋から飛び出したあと、そのままレーミアを探したらしい。
「レーミア様にお願いしたら、これからケイン様に練習を見ていただくところだと言われたので、一緒に来ました」
「そうでしたか」
レーミアがバイオリンを下ろす。
「お姉様も聞く?」
「よろしいのですか?」
「うん」
セフィリアはケインを見る。
「お邪魔して申し訳ありません、ケイン様」
「構いません」
「少し用事があって参りましたが、練習の途中でしたら、終わるまで待ちます」
「そうですか」
ケインはレーミアを見る。
「では、もう一度、先ほどのところから」
「はい」
レーミアが再びバイオリンを構えた。
弓が動く。
セフィリアは黙って聞いた。
先ほど聞こえてきた曲が、最初から奏でられる。
何度か音が揺れた。
一度だけ、レーミア自身も間違えたと分かったらしく、わずかに顔をしかめる。
だが、そのまま演奏は続いた。
やがて最後の音が消える。
「……」
セフィリアは少し驚いていた。
レオエナからは、まだあまり上手ではないと聞いている。
だから、もっとたどたどしい演奏を想像していた。
だが。
「レーミア様、お上手ですね」
思わず口に出た。
ティナリアも大きく頷く。
「私もそう思いました。レオエナ様は、まだあまり上手ではないと言っていましたけれど」
「エナ姉と比べたら、まだ下手」
レーミアは特に気にした様子もなく、構えながら答えた。
「でも、これだけ弾けるのですよね?」
「うん」
ケインが静かに口を開く。
「今のところですが、三度、音が外れました」
「はい」
「二度目は急ぎすぎている。それと、最後の方は弓に力が入りすぎている」
「はい」
レーミアは素直に頷いた。
セフィリアは少し目を瞬いた。
自分には、そこまで細かな違いはほとんど分からなかった。
「もう一度やります」
「そうしなさい」
再び演奏が始まる。
今度は途中でケインが何度か止めた。
音の高さ。
弓の動かし方。
少し速くなった場所。
一つずつ指摘されるたびに、レーミアはやり直していく。
しばらくして、ようやく練習が一区切りついた。
「今日はここまでにしようか」
「はい」
レーミアがバイオリンを下ろした。
そこでセフィリアは、本来の用事を思い出す。
「ケイン様」
「はい」
「父上からお願いがあります」
「皇太子殿下から?」
「はい。今晩、皆さんが一緒に演奏されるところを聞かせていただけないでしょうか」
ケインが少し目を瞬いた。
「私たちの演奏を?」
「クロウが、ご家族と一緒に演奏することがあると伺いました」
ティナリアもすぐに口を挟む。
「私たち、一度聞いてみたいのです」
「そういうことでしたか」
ケインは少し考えたあと、頷いた。
「夕食のあとでよろしければ、構いません」
ティナリアの表情が明るくなる。
「本当ですか?」
「ええ」
「ありがとうございます!」
セフィリアも頭を下げた。
「ありがとうございます、ケイン様」
そこまで言ってから、セフィリアは隣にいるレーミアを見た。
先ほどの演奏を思い出す。
「それと……」
「何でしょう?」
「もしよろしければ、レーミア様も一緒に演奏していただくことはできませんか?」
「え?」
真っ先に反応したのはレーミアだった。
ケインは何も言わなかった。
少し考える。
レーミアがじっと父親を見つめている。
「父様」
「……」
「駄目?」
ケインはさらに少し考えた。
やがて、小さく息を吐く。
「……今日くらいなら、いいでしょう」
「本当?」
レーミアの顔が一気に明るくなった。
「一緒に弾いていいの?」
「ええ。ただし、きちんと周りの音を聞くこと」
「分かった!」
「自分だけ先に行かないこと」
「うん!」
「間違えても慌てないこと」
「分かった!」
先ほどまで落ち着いていたレーミアが、明らかに嬉しそうだった。
「エナ姉たちと一緒に弾ける」
ティナリアも嬉しそうに笑う。
「よかったですね、レーミア様」
「うん」
レーミアはバイオリンを大切そうに抱えた。
その様子を見ながら、セフィリアには一つ疑問が残った。
レーミアが少し離れたところでバイオリンを片づけ始めたのを見て、セフィリアはケインへ少し近づいた。
声を落とす。
「ケイン様」
「何でしょうか?」
「これだけ弾けても、普段は皆さんと一緒には演奏できないのですか?」
ケインはレーミアを見る。
「ミアのことですか?」
「はい」
「一人で弾く分には、十分ですよ」
「やはりそうなのですね」
セフィリアは少し安心した。
自分の耳がおかしいわけではなかったらしい。
「年齢を考えれば、よく弾けています」
「では、どうして一緒に演奏するのは駄目なのですか?」
「一人で弾くのと、誰かと一緒に弾くのは少し違いますから」
ケインは静かに答えた。
「違うのですか?」
いつの間にかティナリアも近くへ来ていた。
「ええ。一人なら、自分の音に集中していればいい」
ケインは続ける。
「ですが、皆で演奏する時は、自分の音だけを聞いているわけにはいきません」
「ほかの人の音も聞くのですか?」
「そうです」
ケインが頷く。
「自分が正しく弾けていても、周りとずれていれば、演奏にはなりません」
セフィリアは少し考える。
「相手に合わせる必要があるのですね」
「ええ。速さも、強さも、音の入り方も」
「全部ですか?」
「全部です」
ティナリアが少し驚く。
「自分で弾きながらですか?」
「もちろん」
ケインは穏やかに笑った。
「自分の音を出しながら、周りの音も聞く。それから、自分の音を合わせていくんです」
「難しそうです」
「最初は難しいですね」
セフィリアは先ほどのレーミアの演奏を思い出した。
「あれだけ弾けてもですか?」
「ミアはまだ、自分の演奏に一生懸命になりすぎることがあります」
ケインは答える。
「弾くことに集中すると、周りの音を聞く余裕がなくなるんです」
「なるほど……」
「それに、まだ少しミスも多いですからね」
セフィリアには三度の音の違いすら分からなかった。
「では、レーミア様が下手というわけではないのですね」
「もちろんです」
ケインはすぐに否定した。
「一人で弾くなら、十分上手ですよ」
少し間を置く。
「ただ、あの三人と一緒に演奏するには、まだ少し足りません」
「あの三人……」
テッド。
レオエナ。
そしてクロウ。
セフィリアは先ほど聞いたレオエナの演奏を思い出した。
あれだけでも、かなり上手かった。
さらに、カデリオンによれば、ケインはほとんど本職に近い腕前だという。
「そこまで違うのですか?」
「今晩聞けば分かると思いますよ」
ケインはそれだけ言った。
ティナリアが期待に満ちた顔をする。
「楽しみです」
「私もです」
セフィリアも素直に答えた。
ただ一つだけ、先ほどまでとは違うことがある。
家族で楽しく楽器を弾いている。
そんなものを想像していた。
だが。
これだけ弾けるレーミアが、普段は加わることのできない演奏。
一体どのようなものなのか。
セフィリアは、ますます今晩の演奏が気になっていた。




