幕間 何のために来たんだろう
――帝国暦三五〇年・夏中頃 サザ子爵家邸――
ある日の午後、クロウとシドは、並んで廊下を歩いていた。
一昨日、シドの将来の話をしていた。
騎士になりたいこと。
新しい目標がレオエナであること。
母上であるプラムと一緒に過ごせるようになったこと。
その話が終わったあとも、シドは何か考えていた。
「なあ、クロウ」
「何?」
「お前、レオエナ様によく抱きしめられるだろ」
「たまに」
「たまにか?」
「うん」
クロウにとっては、毎日ではない。
だから、たまにだった。
「まあ、たまにでもいいけどさ」
シドは少し身を乗り出した。
「どんな感じなんだ?」
「何が?」
「抱きしめられた時だよ」
クロウは考えた。
「最近は、前より弱い」
「弱い?」
「うん」
「嘘つけ」
「嘘じゃない」
「あのレオエナ様だぞ?」
「うん」
「鉄柵をあんなふうに曲げる人だぞ?」
「うん」
「扉も倒してたじゃないか」
「古かったらしいよ」
「お前までそれを信じるなよ」
「信じてない」
「だよな」
シドは少し安心したようだった。
それから、腕を組む。
「やっぱり気になるんだよな」
「何が?」
「レオエナ様の力だよ」
シドは腕を組んだ。
「あんな細そうなのに、鉄柵を曲げるんだぞ」
「うん」
「やっぱり体のつくりが違うのかな」
「体?」
「筋肉とかさ。見た目じゃ分からないだけで、実はものすごいんじゃないか?」
クロウはレオエナを思い浮かべた。
抱きしめられたことは何度もある。
けれど、そんなことを考えたことはなかった。
「分からない」
「抱きしめられた時、どうなんだよ。硬いとか、すごく力が入ってるとか」
「最近は前より弱い」
「いや、そうじゃなくて」
「何が?」
「もっとこう……体の感じだよ」
「普通だと思う」
「本当か?」
「たぶん」
シドは納得していない顔をした。
「絶対、何かあると思うんだけどな。鍛えてないっていうのも怪しいし」
「エナ姉は鍛えてないって言ってた」
「だから、それが信じられないんだよ」
しばらく考えてから、シドがクロウを見る。
「なあ。もう一回抱きしめられて、ちょっと確かめてきてくれないか?」
「嫌」
「即答かよ」
「あの力だぞ。絶対何かしてる。鍛え方なのか、体の使い方なのか……とにかく知りたい」
「本人に聞けば?」
「聞いても、何もしてないって言うだろ」
「たぶん」
「だからさ」
シドがクロウを見る。
「もう一回だけ、思いっきり抱きしめられてきてくれないか?」
「嫌」
答えはすぐに出た。
「早いな」
「絶対嫌だから」
「でも、前より弱くなったんだろ?」
「それでも嫌」
「ちょっとだけでいいから」
「嫌」
「力の入り方とか分かるかもしれないだろ」
「分からない」
「やってみないと分からないだろ」
「やらない」
シドが困った顔をする。
「じゃあ、どうするかな……」
「シドが抱きしめてもらえばいい」
「俺が?」
「うん」
「まあ、それができれば一番早いんだけどな」
シドは少し考えた。
「でも、いきなり俺から『抱きしめてください』って言うのも変だろ」
「じゃあ、僕が聞いてくる」
「え?」
クロウは歩く向きを変えた。
「待て」
「エナ姉に聞いてくる」
「いや、待てって」
「シドが抱きしめてほしいって」
「そういう言い方はするな!」
クロウはそのまま歩き出した。
「クロウ!」
後ろからシドが追ってくる。
「待て! 本当に待て!」
「何で?」
「何でもだ!」
クロウにはよく分からなかった。
自分が抱きしめられるのは嫌だった。
シドが自分で抱きしめてもらうなら、問題はない。
だから、聞くだけだった。
■
レオエナの部屋の扉を叩く。
「どうぞ」
中から声がした。
クロウは扉を開ける。
部屋には、レオエナがいた。
淡い色の柔らかな服をまとい、金色の髪を揺らしながら、椅子に座っている。
その隣には母様――エルナリアもいた。
二人とも手元に布を置き、刺繍をしている。
母様の傍らには、プラムもいた。
「クロウ?」
母様が顔を上げた。
静かな青い瞳がクロウを見る。
「どうしたの?」
「エナ姉に用事」
「私に?」
レオエナが刺繍の手を止めた。
その直後。
「待て、クロウ!」
シドが部屋へ飛び込んできた。
けれど。
中にいる人物を見た瞬間、動きが止まった。
エルナリア。
レオエナ。
そして、プラム。
シドは一瞬で姿勢を正した。
「失礼いたしました」
「ずいぶん慌てているのね」
エルナリアが少し不思議そうに笑う。
クロウはレオエナを見た。
「エナ姉」
「なあに?」
「シドが抱きしめてほしいらしいよ」
一瞬。
部屋が静かになった。
「え?」
レオエナが目を瞬く。
シドの顔が固まる。
「クロウ、お前――」
だが、それより先に。
「シド」
プラムの声がした。
静かだった。
けれど、シドの背筋が伸びた。
「はい、母上」
プラムは息子を見る。
それからレオエナを見る。
もう何を意味しているのか分かったらしい。
「あなた……」
「違います!」
シドが即座に言った。
「何が違うの?」
レオエナが首を傾げる。
プラムの目が少し細くなる。
「シド?」
「母上にです!」
今度はクロウが目を瞬いた。
「え?」
シドはもう止まれなかった。
「俺が抱きしめてほしかったのは、母上です!」
「僕、エナ姉だと思ってた」
「違う!」
「さっき――」
「違うんだ!」
シドが必死だった。
プラムはしばらく息子を見つめた。
怒っていた顔が、少しずつ変わっていく。
「……私に?」
「はい」
「抱きしめてほしかったのですか?」
「……はい」
シドの声が小さくなった。
クロウは首を傾げた。
さっきまで、そんな話ではなかった。
「どうして言わなかったのです」
「その……」
シドが目を泳がせる。
「少し、寂しかったので」
クロウはさらに首を傾げた。
そんな話もしていなかった。
「あら」
エルナリアが柔らかく笑った。
「シドもまだ甘えたい年頃なのね」
「意外と可愛いところがあるのね」
レオエナも笑う。
シドは何とも言えない顔になった。
プラムは少しだけ困ったように息を吐いた。
それからエルナリアへ頭を下げる。
「奥様。申し訳ありません。少し席を外してもよろしいでしょうか」
「ええ」
エルナリアは微笑んだ。
「行ってあげて、プラム」
「ありがとうございます」
プラムはシドを見る。
「行きますよ」
「はい、母上」
シドは逆らわなかった。
というより、もう逆らえないらしい。
部屋を出る直前、シドがクロウを見た。
何かを言いたそうだった。
クロウも見返した。
扉が閉まった。
「……」
静かになった。
「シドも甘えん坊なのね」
エルナリアが楽しそうに言う。
「ふふ。そうみたいですね」
レオエナも笑っている。
クロウだけは笑えなかった。
少し考える。
最初は、自分がエナ姉に抱きしめられてこいと言われた。
嫌だから断った。
それならシドが抱きしめてもらえばいいと言った。
だから、エナ姉に聞きに来た。
でも。
シドは母上に抱きしめてほしかったことになった。
「……あれ?」
「どうしたの、クロウ?」
エルナリアが尋ねた。
「何でもない」
たぶん、あとでシドに確認した方がいい。
どこで話が変わったのか、クロウには分からなかった。
少し考えていると、レオエナがこちらを見た。
「クロウはいいの?」
「何が?」
レオエナは答える代わりに、両手を広げた。
「……」
クロウはレオエナを見る。
広げられた両手を見る。
それから、さっきシドが出ていった扉を見る。
くるりと向きを変えた。
「クロウ?」
「用事、終わったから」
そのまま扉へ向かう。
「あらあら」
後ろから、母様の笑う声がした。
「クロウ、逃げるの?」
クロウは足を止めた。
「逃げてない」
「そう?」
「帰るだけ」
「クロウ」
レオエナがまだ両手を広げたまま呼んでいる。
「抱きしめないから」
クロウは振り返った。
「本当に?」
「本当に」
少しだけ考える。
「じゃあ、いい」
クロウは扉から離れた。
エルナリアがまた笑う。
「二人とも、甘えん坊なんだから」
「僕は違う」
すぐに否定した。
「私は?」
レオエナが聞く。
「知らない」
「ひどいわ」
そう言いながら、レオエナは楽しそうだった。
クロウはもう一度、閉じた扉を見て考える。
やっぱり、シドはエナ姉に抱きしめてもらう話をしていたはずだった。
それが、いつの間にかプラムに抱きしめてもらいに行ってしまった。
自分は何のためにここへ来たのだろう。
「せっかく来たのだから、クロウも一緒にやらない?」
母様が手元の布を少し持ち上げた。
「刺繍?」
「ええ」
レオエナの前にも、布と糸が置かれている。
クロウは少し考えた。
帰ってもいい。
でも、母様とエナ姉は静かに刺繍をしている。
ずっと話しかけられるわけでもない。
「……少しだけ」
クロウは二人のそばへ座った。
布と針を受け取る。
刺繍は、まだ上手いとは言えない。
それでも、前よりは少し形になるようになっていた。
針を通す。
もう一度。
隣では、母様とエナ姉も静かに手を動かしている。
時々、短い会話がある。
それ以外は、針が布を通る小さな音だけだった。
「クロウ、前より上手になったわね」
レオエナが手元を覗く。
「少し」
「ちゃんと揃ってきてるわ」
母様もクロウの刺繍を見て、穏やかに微笑んだ。
「丁寧になったわね」
「そう?」
「ええ」
クロウはまた針を動かした。
結局、何のためにここへ来たのかは、よく分からなくなった。
でも。
母様とエナ姉のそばで、三人で静かに刺繍をする時間は。
そんなに悪くなかった。




