第52話 どうしても難しいかもしれません
――帝国暦三五〇年・夏中頃 サザ子爵家邸――
食卓の空気が少しずつ元に戻りかけたところで、クロウはふと思った。
帝都。
祖父母。
自分が生まれた場所。
どれも、ほとんど知らない。
クロウは皇太子殿下を見た。
「皇太子殿下」
「なんだい、クロウ」
「母様の父様と母様って、どんな人ですか?」
「父上と母上か」
皇太子殿下は少し考えた。
「そうだな。父上は、私に似ている」
クロウは嫌な予感がした。
「似てる?」
「ああ。エルナリアをかなり可愛がっている」
「……そうですか」
「クロウのことも、とても可愛がっているよ」
やはり。
クロウは少しだけ目を伏せた。
「それは、ちょっと苦手です」
「会う前からかい?」
「皇太子殿下に似てるなら」
皇太子殿下が笑った。
エルナリアも少し困ったように笑っている。
「では、母上の方は少し違うな」
クロウが顔を上げた。
「違う?」
「ええ」
エルナリアも頷いた。
「母様は、少し違うわね」
クロウは少しだけ期待した。
皇太子殿下とは違う。
祖父とも違う。
もしかすると、自分と話が合う人なのかもしれない。
「時計が好きなんですか?」
「いや」
「機械をいじるのが好きとか?」
「そういう違いではない」
違った。
クロウは少し残念だった。
「じゃあ、どう違うんですか?」
皇太子殿下はエルナリアを見た。
エルナリアが少しだけ視線を逸らす。
「母上はな」
「はい」
「父上より、たぶんずっとエルナリアが好きだ」
クロウは、聞きたくなかった言葉を聞いた気がした。
「……もっと?」
「もっとだ」
「兄様」
エルナリアが困ったように呼ぶ。
「事実だろう?」
「そうですけれど」
エルナリアは否定しなかった。
クロウは母様を見る。
「そんなに?」
「母様は、少し……私を可愛がりすぎるところがあるの」
「少し?」
皇太子殿下が笑った。
「少しではないな」
「兄様」
「母上の部屋を見れば分かる。エルナリアの姿絵が、いくつあるか分からない」
「そんなにあるの?」
「ああ。小さい頃のものから、かなりの数がある」
「部屋のあちこちに飾ってあるのよ」
エルナリアが少し恥ずかしそうに言った。
クロウは思い出した。
「母様が、昔は散々描かれたって言ってたのは?」
「ああ」
皇太子殿下が頷く。
「私が絵師を呼んで描かせたものもある」
「兄様が」
「だが、母上が描かせたものもかなりある」
「お祖母様も?」
「そうだ」
クロウは黙った。
皇太子殿下と祖父。
さらに祖母。
母様は大変だったのかもしれない。
「ちなみに」
皇太子殿下が楽しそうに続けた。
「クロウ、お前の姿絵もあるぞ」
クロウが止まった。
「僕の?」
「ああ」
「どうして?」
「どうしてと言われても、お前は帝都で生まれたからね」
それは、さっき知った。
「小さい頃のお前の姿絵も、かなり大切にしている」
「何枚?」
「何枚だったかな」
皇太子殿下は少し考えた。
「少なくはない」
嫌な答えだった。
「母上は本当にお前のことが好きなんだ。今でもよく会いたいと言っている」
クロウは少しだけ椅子の背にもたれた。
「それは……危険じゃないですか?」
「危険?」
皇太子殿下が首を傾げる。
「何がだい?」
「会ったら、ずっとついてきたりしませんか?」
「母上が?」
「どこに行くにも」
食卓の何人かが笑いをこらえ始めた。
クロウは真面目だった。
「抱きしめられたり」
「まあ、それはあるかもしれないな」
「頬ずりされたり」
皇太子殿下は少し考えた。
「そのくらいで済めばいいのだが」
クロウの顔が固まった。
食卓で笑いが起きた。
リトリーは完全に肩を震わせている。
レオエナも口元を押さえていた。
エルナリアは困ったように笑う。
「母様は、少しやりすぎるところがあるのよね」
「少し?」
クロウが聞く。
「……かなり、かしら」
訂正された。
「クロウ」
ティナリアが楽しそうに言った。
「お祖母様は、とても優しいですよ」
「そうです」
セフィリアも頷いた。
「私たちのことも、驚くほど可愛がってくださいます」
「驚くほど」
「はい」
ティナリアが笑う。
「クロウが行ったら、きっともっと可愛がってくださいます」
クロウは何も言わなくなった。
しばらく黙っていた。
皇太子殿下が様子をうかがう。
「クロウ?」
「僕、しばらくこっちにいます」
「そうなのかい?」
「田舎育ちなので、帝都はちょっと」
「帝都生まれだと、さっき知ったばかりだろう?」
「育ったのはこっちです」
「それはそうだが」
クロウは理由を探した。
「それに、僕の時計も帝都にはありません」
「持っていけばいい」
「作業小屋もありません」
「帝都にも作業のできる場所くらい用意できるよ」
「直してるものも途中です」
「少しくらい置いておいても壊れないだろう?」
逃げ道が、どんどんなくなる。
「朝のお手伝いもあります」
クロウは言った。
今度はケインが口を開いた。
「そのくらいはこちらでどうにでもなる」
「父様」
「一度くらい、行ってきなさい」
父様まで敵だった。
クロウは黙った。
リトリーが耐えきれずに笑い出す。
「クロウ、そんなに行きたくないの?」
「……今は行かなくてもいいと思います」
「母上は、会う前からずいぶん警戒されてしまったな」
皇太子殿下が笑った。
食卓のあちこちから、また笑いが起きる。
クロウは笑っていなかった。
エルナリアが、そんなクロウを見てやわらかく微笑む。
「クロウ」
「母様」
「すぐに行かなくてもいいわ」
クロウの表情が少しだけ明るくなる。
「本当?」
「ええ」
「じゃあ――」
「でも、そのうち一度は行かなければ駄目よ」
明るくなった表情が戻った。
「考えておきます」
「考えるんじゃありません」
エルナリアは笑ったまま言った。
「年内に一度は行きます」
「……行くの?」
「行きます」
「決まってる?」
「今、決めました」
クロウは母様を見た。
エルナリアは笑っている。
たぶん、変わらない。
「覚悟しておいてね」
「……分かりました」
クロウは仕方なく頷いた。
帝都へ行く。
祖父母に会う。
かなり可愛がられる。
たぶん、かなり大変。
クロウは今から少し疲れた。
「でも」
エルナリアが続けた。
「どうしても難しい時は――」
クロウの目が、少しだけ輝いた。
「どうしても難しいかもしれません」
一瞬の沈黙。
そのあと、食堂中に大きな笑い声が広がった。




